裸の王様は誰?
「裸の王様」 C・アンデルセン作
ある国の国王のもとに、二人の詐欺師が服の仕立屋を装って訪れた。「聡明な王よ。貴方様のために最上の衣装を仕立てます。この服の価値は愚か者には理解出来ません。その目で服を見ることすら出来ないのです。」二人はその日から、必死に服を仕立てる(振りをしていた)。
やがて完成した服は王宮で披露されるが、王が目を凝らしても二人が説明する服が見えない。
己の無知を晒したくなかった王は、服を褒め称え、家臣たちも同調してしまう。新しい服で市中を凱旋した時、国民たちも服が見えないとは
言えなかった。しかし子どもが「王様は裸だ」
と叫んだ時、王様は自分が何も着ていないことを自覚してしまう。
「裸の権力者」
企業の経営者が、役員をイエスマンで固めているワンマンタイプである場合、社員にサービス残業を強要したらどうなるか。社員が異議を唱えても、経営陣は「俺たちの時代はもっと働いた」と言うでしょう。
経営者も違法性は認識していますが、社内で反対する人がいなければ組織の論理が通用します。社員は退職するか、会社の論理に同調するしかありません。
しかしサービス残業の実態が外部に報道されれば、経営者は態度を一変させます。自分たちの正しさは、一般社会で通用しないことに向き合わされるからです。経営者は「我が社にサービス残業はない」と答え、社員にも口裏を合わせるよう求めるでしょう。「社長は裸の王様」であることが露呈してしまうのです。
「あの人は裸の王様だ」という場合には上記の話が当てはまるでしょう。ですがこの童話は権力者を揶揄した単純な話ではないのです。ここでは登場人物の視点を詳しく見ていきます。
主観と客観のジレンマ
王様の視点:服が見えない。
「どうしても服が見えない。自分は愚か者なのか?バカな、余は王だぞ。あの仕立て屋が自分を欺いているのか?だがもしも家臣たちに服が見えていて自分だけ見えなければ、自分の愚かさを晒してしまう。自分は国を治める王なのだ。家臣たちに愚かな姿など見せられない。とりあえず服が見えてる前提で褒めておこう。」
家臣の視点:服が見えない
「服が見えないではないか。自分は愚か者なのか?王様は服が見えているというのに。ここで服が見えないことがバレたら、自分は無能ということになり、役職を解任させられるかも知れない。王様の服を褒め称えて、見えない事は他の家臣たちにも隠さなければならない。」
国民の視点:服が見えない
「王様は裸で行進しているように見える。
でもそんなこと言えば不敬罪で捕まるかも。
とりあえず周りに合わせておこう。」
子どもの視点:服が見えない
「王様は裸だ!」
詐欺師の視点:王様も家臣も服が見えないこと
を理解している。
「王様も家臣も服が見えていないことを共有出来れば、自分達の詐欺はバレる。しかし彼らは自分が愚かであると、認めるリスクを負わないだろう。“自分が相手にどう見られたいか”にこだわる限りバレる心配はない。」
以前に解説した囚人のジレンマに似た構図になりますが、ここで王様と家臣は自己利益の最大化を考えつつも、「自分だけ愚か者に見られる」事がもっと不利益となるため、情報の共有が出来ていません。
自分がどのような人間であるかを理解するには、自分を客観視することは欠かせません。しかしこの「客観」が問題なのです。客観を他者の視点と考えると、それは相手にとっての「主観」になるからです。自分自身が客観的にどう見えるかを自分で知る方法はなく、しかし他人が本当のことを言う保証もないのです。
自己イメージの世界
「自分はどうしたいか」が主観。「自分が人からどう見えるか」が客観になりますが、私たちは「自分が他人にどう見られたいか」という主観と客観が混じった思考をしています。そして
ファッション服とは「自分が着るため」よりも、「他人からどう見えるか」が主体の使用目的なのです。
誰だって人から認められたい。「可愛くなりたい」「いい人に見られたい」「優秀だと思わせたい」動機は様々ですが、自己イメージには承認欲求が入り混じっています。一方で自分を貶めるイメージは受け入れがたい。
例えば、男性にとって髪が禿げることはデリケートな問題であり、禿げを隠すために精巧なカツラを被ります。しかし周りにバレないと思っていても、そこには「バレたくない・バレないはずだ」という主観が入っており、実際には周囲にはバレているかもしれません。ですが誰も正面から指摘出来ないのです。言えばコンプレックスを刺激してしまうから、相手からどう見られるかを考えるほど指摘出来ない。これが王様と家臣の関係であり、カツラが喜劇のネタに
なりやすい理由です。禿げること自体が問題ではないのです。誰しも髪は薄くなりますし、坊主頭をファッションとして捉える男性は何も可笑しくありません。禿げを隠そうとする心理が
周囲にバレているのに、当の本人が気付かないという状況が可笑しいのです。
読者の視点は俯瞰的
俯瞰とは主観とも客観とも離れて、物語の外部から全体像を見ることです。「裸の王様」では、王様が裸であることを知っているのは詐欺師と子供、そして読者である私たちだけです。しかし現実世界を一つの物語だと考えた場合、私たちは読者の立場になく、「王様」「家臣」「国民」の立場なのです。誰も読者の立場で全体像を俯瞰出来ない。
新聞などのメディアを読む時、私たちの視点は俯瞰的になりますが、それは外国や政府など、
自分とは外部の世界を見ているからです。もしも自分が取材される立場であればとても俯瞰など出来ません。「国民」の立場からしか考えられないでしょう。
リーダーとは俯瞰する人
物語の渦中にありながら、詐欺師は全体像を
俯瞰出来ていました。これは詐欺師が最初から全てを仕組んだ、作者と同じ立場だったから
ですが、現実世界で物語の中にいながら全体を俯瞰することは出来るでしょうか。
例えばサッカーの試合では、観客席からはピッチの全体が見えており、自軍の選手、相手選手、ボールの位置関係から、次にどこにパスを出せば良いか分かります。一方で選手一人一人に全体像は見えませんが、パスを出す位置は分かっています。これは自分たちの試合を映像で
振り返って、過去の試合の全体像を俯瞰することで、現在の全体像を想像する訓練を積んでいるからです。
企業においても経営者や管理職はリーダーとしての経験を積んでいます。そしてリーダーの資質とは、主観とも客観とも離れて、物語の中にいながら全体を見れる俯瞰的能力です。王様が裸なのは、物語の主人公でありながら読者の視点を持つ俯瞰的視野:リーダーの素質がなかったからなのです。
王様の思考法
主観も客観もあてにならない状況で、王様はどうすれば俯瞰的視野を持てるのか。手掛かりの
一つは数字です。1+1は誰が計算しても答えは
2であり、反論の余地はありません。数学は主観や客観といった人間の認識と無関係な世界であり、だからビジネスの場では数字が重視されます。これと近い考え方に論理学があります。全ての前提条件を洗い出した上でX、Y、Zなどの要素に分解し、一つずつ証明するのです。
〔前提条件:服が見えない〕
1:王様に見えないが、家臣には見える
方法:家臣たちに「服が何色に見えるか」個別に尋ねる。
証明:服が見えている家臣の答えは一致する。=服は確かに存在するが、自分には見えない。結論:自分は愚か者である。
服の色が様様である場合、
方法:「余には白く見える」と答える。
証明:家臣が「赤です」「金色です」と反論した。
結論:見る者によって異なる服が存在するが自分には見えない=自分は愚か者である。
2:王様に見えない、家臣にも見えない
方法:1と同様。
証明:家臣たちが答えられない、王に同調して「やはり白く見えます」と回答した。
結論:両者とも愚か者、服は存在しないの二択となる。
3:賢い者だけに見える。
方法:国外から賢者と称される学者数名を呼び、ここに何が見えるかを個別に尋ねる。その際に「愚か者には見えない服」であることは伝えない。
証明:美しい服がありますと回答する。
結論:自分たちは愚か者である。
4:仕立て屋だけに見える。
3の方法で学者たちが「何もありません」と回答した場合、服は誰にも見えないが、仕立て屋には本当に見えている可能性は残る。しかし、
ファッションとしての服とは「自分が楽しむ」よりも「他人に見せる」ための道具であり、
仕立て屋にしか見えない服は、仕立て屋にしか
披露出来ない。服として意味をなさず、彼らの
言い分は詭弁である。
「裸なのは自分」
王様は服を見た時、1~4までの展開を想定出来れば、全体像を見れたと言えます。俯瞰的視野とは自分が「こうありたい」という主観を一度捨てて、自分が間違っている可能性も含めて
検証することです。実際にはここまで考えて行動出来る人は殆どいません。だからこそ、これが正しいと考えて行動しても失敗するのです。
一度失敗すること自体はそこまで問題ではありません。問題なのは失敗を恥と考えて隠そうとすること、王様が裸で街を凱旋したように、自分の間違いを認めたくないという心です。ですが、周囲にバレたくない・バレないはずだという気持ちは、実際には他人にバレておりそれを指摘されないだけです。自分に悪いイメージを持たれたくないという気持ちは他人も一緒であり、そのままでは気付かないうちに信用を落とすだけになります。
自分の立ち振る舞いを客観的に見ることは出来ても、俯瞰的に見ることは不可能です。しかし、リーダーの役割を持った人はチーム全体の動きを見ており、メンバーの働きを俯瞰的に
見ています。物語の子どものように、自分の利害を離れて「あなたは裸だ」と指摘する人がれば、その人は場の状況における自分の本当の姿を伝えているのです。
幽霊は生きている:恐怖編
前回は、身体的な死を迎えた人が、社会的には
死なないことで、人々の意識を「幽霊」として彷徨っていると解説しました。
今回はその逆で、身体的には生きているのに、人々の意識から消され、社会的には存在しない「幽霊」を解説します。
「葬式ごっこ」
1986年、東京都中野区の中学2年生、鹿川裕史さんが盛岡市内で自殺した。遺書には仲間内でのイジメの苦痛が記されており、その後の調査でクラスメイトと担任が「葬式」を、生きている裕史さんに行っていたことが判明した。
裕史さんが自殺したのは「葬式」の3ヶ月後であり、生前には「俺はあの時死んだんだ。」と話していた。
「葬式ごっこ」と呼ばれるイジメ自殺事件の概要です。以降、学校でのイジメは悪ふざけではなく、犯罪として認識されはじめました。
この事件の大きな特徴は、身体的には生きてる人を「葬式」によって、学級という社会で死者として扱ったことです。クラスメイトから裕史さんへのメッセージは「死ね」ではなく、「お前は死んだからもう存在するな」です。
人間は承認欲求がありますが、「人間」とは「人と人の間」を意味するように、誰しも自分一人では存在を認めてもらえません。フェイスブックの「イイね」のように、自分の行為と存在を他者に認めてもらうことで、社会との繋がりを実感できます。そのため個人としては生きているのに、他者から存在を否定されることは、社会の中で生きる人間に深刻なダメージを与えます。
子どもにとっての社会とは家庭と学校だけです。その小さな社会集団で存在を否定されれば、個人はどれだけ生きたくても集団には戻れません。裕史さんは確かに生きているのに、クラスの誰からも存在を認めてもらえない「幽霊」にされてしまったのです。
1988年、東京都豊島区のマンションの一室で、
3人の子どもが保護された。母親は数ヶ月前から家を出ており、長男は学校にもいかず兄弟たちの世話をしていた。しかし食糧品が殆どない状況で、長男は当時2歳の三女を虐待死させてしまう。保護された時、兄弟たちは誰も出生届が出されておらず、戸籍上は存在していないことが判明した。
映画「誰も知らない」のモデルとなった巣鴨置き去り事件の概要です。事件が明るみになるまで、子どもたちの存在は誰も知りませんでした。付近の住民も異変に気付かず、行政も把握していない。彼らもまた、生きているのに地域社会から存在を消され、「幽霊」となって
しまったのです。血縁と地縁をなくした都市型住民の悲劇とされますが、近年このような
孤立した人々が都市部に増加しています。
無縁社会の人々
2000年代になって、社会の高齢化とともに、日常生活で誰とも交流がない独居老人の存在が
問題になりました。高齢者たちは慎ましくもしっかり生きています。ですが周囲の誰も存在を知らないのです。体調を崩しても介助してくれる人がおらず、やがて死を迎えても看取る人がいない。こうした孤独死や身元不明者の死が全国で拡大しています。
その理由は有縁社会である地方から都会に移住しているからです。地方集落の生活は、祭りから消火活動まで、地域のメンバーだけで行わなければいけないため、何処までも人間関係を切れません。これが有縁社会であり、個人の生活やプライバシーを重視する現代人の感覚では
窮屈なのです。
人々は都会の自由を求めて移住しますが、都会には地域の繋がりがありません。会社や家族の縁がきれると、社会的には存在していないことになってしまう。単身者住宅では隣の住民が誰かもよく知らないでしょう。
人は幽霊や怪談話を怖がりつつも楽しんでいます。そうしてホラー映画を楽しんでいるうちに、知っていたはずの級友、同僚、近所の人が「幽霊」になっていませんか?
本当の恐怖は幽霊を目撃することではなく、自分が誰からも存在してない「幽霊」になること
かも知れません。
都市の類型
人々が集まる都市は、商業や行政の中心として
発展してきました。しかし都市が作られる
目的は行政や商業のためだけではありません。
今回は都市の類型を見ていきます。
軍事都市
自国の防衛と他国への侵攻に適した土地に
軍隊を常駐させ、軍需産業が集まることで
発展しました。第二次世界対戦の勃発までは
戦争の主役は海軍の軍艦であったため、軍事都市は海沿いの港町が中心です。アメリカの
サンフランシスコ、ロシアのウラジオストク、イギリスのグラスゴーなどがあり、日本国内では、広島県呉市、神奈川県横須賀市、京都府舞鶴市、長崎県佐世保市などが軍港として発達し、現在も海上自衛隊とアメリカ海軍基地が
置かれています。
学園都市
欧米の名門大学は郊外の土地に広大なキャンパスを持っており、数百年の歴史を経て一つの街を形成しています。イギリスのケンブリッジ、オックスフォード、アメリカのハーバードなどがあり、これらの大学都市には世界中から研究者が集まります。基本的に学習と研究のための土地なので、商業や繁華街が発達しません。
首都ですが、世界遺産に登録された旧市街は
エディンバラ大学の敷地内にあります。
宗教都市
世界中から信者が訪れる都市です。イタリアの
バチカン、サウジアラビアのメッカ、イスラエルのエルサレム、インドのベナレスなどがあり
メッカは毎年10月に巡礼があり、世界中から数百万人が訪れますが、近年は東南アジアの経済成長により巡礼者が激増しているため、各国で抽選を行なっています。宗教都市は信者のために作られた街であり、一般人の立ち入りを
認めない場合もあります。
起業都市
近年の情報技術産業の発展とともに、自分たちの技術を普及させたい若手技術者が集まり、
会社を立ち上げている振興都市です。
アメリカのシリコンバレー、インドのバンガロールなどがあります。街全体が新しいアイデアを歓迎しており、企業間の切磋琢磨と情報交換により、世界中に技術革新を発信しています。
歓楽都市
観光産業や娯楽産業によって発展した都市であり、アメリカのラスベガスや中国のマカオ、
境界に位置する砂漠の都市で、カジノ産業により発展しました。砂漠地帯から地下水を大量に組み上げたため、かつては地盤沈下や砂漠の拡大を招いたこともあります。
カジノ産業は景気の動向を受けやすいため、アメリカ経済の下降期にはラスベガスの発展が停滞し、ギャンブル依存が社会問題になることで、街のイメージも悪化しました。
現代のラスベガスは、カジノ目的の客だけでなく、家族連れで楽しめる複合娯楽施設が多くなっています。郊外の砂漠に企業向けの国際展示場を作り、国際会議を開催することで世界中からビジネスマンが集まる複合国際都市に変貌しました。
このような統合型リゾート都市(IR)を経済成長のために誘致する動きが世界各地で加速しており、アジアではシンガポールが先行しています。カジノは海外の富裕層が現金を賭けるため、外貨獲得の有効手段となるからです。日本国内でもIRを経済特区に誘致するため、特定地域でのカジノ合法化法案が国会で審議されています。
中国のマカオ行政特区は、香港に隣接する
カジノの都市で、かつてはポルトガルの植民地でした。現在も旧市街は多くの教会が残り、
世界文化遺産に指定されています。
共産主義国の中国は、表向き賭博行為を禁じて
いますが、元々中国人はシルクロードや海路を
通じて交易していた行商民族であり、商人たちは賭け事が好きでした。マカオは中国全土から
富裕層が集まるカジノの都市として発展し、
その経済規模はラスベガスの7倍ともに言われます。
モナコ公国は地中海に面するヨーロッパの小国で、面積は東京ディズニーリゾートと同じくらい、世界2番目に小さな国です。
14世紀には現在の王家がこの地を支配していましたが、その後フランスの保護領に入ってしまいました。1860年に首都モンテカルロだけ主権を回復しましたが、国土の95%がフランスに渡っています。
周辺を大国に囲まれたモナコは、各国の富裕層を呼び込んで、国際社会での地位を上げることに取り組みました。19世紀にはカジノ収入が経済9割を占めていますが、世界対戦の影響を受けて何度も国家消滅の危機に瀕しています。
第二次世界後、ハリウッド女優であったグレース妃が王室に入ると、アメリカ人観光客が急増しました。現在のモナコ公国は、F1グランプリの開催や王宮施設の公開で観光客を誘致すると同時に、所得税や法人税を免除することで
世界中から富裕層が定住するリゾート都市に
なっています。
京都市は平安京の時代から内裏(京都御所)に朝廷が鎮座する国政の中心でしたが、明治時代に
皇居が江戸に遷都したことで、東京が国政の
中心になりました。
21世紀になると、アジア各国は経済成長を
遂げ、一般国民の生活水準が向上することで
海外旅行客が増加しています。京都市は長い歴史のなかで、宗教・商業・学業・文化など様々な都市の要素があり、現代は観光都市として
国内のみならず、世界中から観光客をおもてなしする政策をとっています。
都市と地形の関係
人々が集落で暮らす土地が「村」、家々が集まって、商店街や公共機関、鉄道や道路など交通網が発達した土地が「町」、そして周辺の町から伸びる交通網の中心地であり、数百万人が居住と生産活動を営む土地が「都市」です。都市はいかに成立しているか、今回はその土地の地形から読み解きます。
農耕都市の成立
紀元前4000〜3000年前、人々が狩猟生活から穀物を栽培する農耕生活に転換することで、人間は一つの土地に定住するようになりました。しかし問題もあります。小麦などの穀物は、同じ土地で栽培すると翌年には大地の栄養が痩せてしまいます。また、水生植物である稲の栽培には大量の水が必要です。
そのため穀物を栽培するには、洪水によって新しい土が運ばれてくる川沿いの湿地帯が適していました。四大文明といわれるエジプト文明、
全て大河の辺りに形成されています。
交易都市の成立
紀元前1000年頃には、海上交易によって食糧や生活用品を集めた都市国家が誕生します。ギリシャのアテネや北アフリカのカルタゴは海沿いに作られた交易都市でした。陸路ではシルクロードの中継点として中国の長安やペルシャの
エスファハンが発展します。交易都市の特徴は
食糧や生活用品を自給できないので、他国との
交易を活発化させること、他国の商人が往来することで自ずと国際化します。
政治都市の成立
国の統一を成し遂げた国王や皇帝は、首都として行政機能が充実した都市を計画的に整備しました。洪水被害の怖れがない平地を碁盤状に区画して都市を設計しています。中国の北京や韓国のソウル、日本の平安京など東アジアの
都市に見られます。政治都市の特徴は、都市計画に基づいて設計されたため、古代の道路や建物が現在も使用出来ることです。
湾口都市
元々小さな港町が、他国と交易するほど発展するうちに人口が増加し、市街地が無秩序に拡大している都市です。韓国の釜山、ブラジルの
リオデジャネイロ、日本の長崎市などが該当します。これらの都市は海沿いの背後を山に囲まれており、山の斜面に家や商業ビルが建って
います。街中が坂道であり、海沿いに交通網が伸びているため陸路の交通が不便です。
海上都市国家
海上交易の要衝にあり、貿易商たちが集まった
土地が、近代化により国家や特別行政区として独立してる都市です。シンガポールや香港などの交易都市に見られます。
これらの都市は世界中から人と商品が集まり、
商品を各国の通貨で支払うため、国際金融取引市場としての側面もあります。
砂上都市
アラブ首長国連邦のドバイは、世界最長のビルが建つなど急成長を遂げていますが、元々砂漠に作られた街なので地盤がとても脆いことが
特徴です。ビルの建造のために鉄骨の支柱を
地下30-40mの岩盤層に打ち込んでいます。
都市郊外も全て砂漠なので、砂嵐が発生すると
ドバイ全体が砂で覆われます。
イタリアのベネチアは海上の干潟に作られた都市なので、街全体が海に浮かんでおり、船を出さなければ街に入れません。道路の代わりに水路が張り巡らされたベネチアは水の都として世界的な観光地ですが、土地の海抜が0mなので台風の高潮被害で街全体が水没します。近年は地球温暖化による海面上昇が懸念されています。
近代政治都市
既存の都市が人口増加でインフラ整備が追いつかない時など、国の行政機能を集積する目的で首都機能を移転させることがあります。移転先の土地は農地や原野が広がる場所で、一から都市を計画します。ブラジルのブラジリア、
オーストラリアのキャンベラ、ミャンマーの
ネピドーなどがあり、日本国内では新宿副都心や茨城県のつくば学園都市が挙げられます。
これらの都市は近年に作られたために、自動車道路と歩行者通路の立体交差や、現代建築の建造物、都市の緑化など未来都市的な構造を
持っています。
砂嘴都市
北海道函館市は、かつて函館山が一つの島でした。海流の影響で陸地と島の海に砂が堆積し、
やがて陸地と島を繋ぐことで半島状の地形になりました。砂が堆積した平地に建物が集中し、
夜に明かりが灯ることで、市街地と海がハッキリと浮かび上がる夜景が見えます。津軽海峡の
早い潮流は好漁場をつくり、函館市は水産物の
水揚げで発展しています。
土砂崩れと三角州
110万人が住んでいますが、市街地の郊外は山林が広がり、人が住めるのは市全体の3割の土地です。都市化の拡大とともに郊外の扇状地にも多くの住宅が立ちました。2014年の豪雨により広島市の安佐南区、安佐北区は、土砂崩れが多発的に発生し、70名を超える犠牲者を出しました。そもそも広島市は山間部の土砂が押し流されて、河口に堆積して形成された土地なのです。このような土地を三角州と呼び、広島市中心部にほとんど高低差がない理由です。
東京都の地形
かつて江戸と呼ばれた東京は、徳川家康が都市設計を行うまで、現在の23区の大半は海であり、周辺の土地は洪水が頻発する沼地でした。
家康は埋め立てを行なって、台東区や墨田区にあたる下町を造成しました。しかし江戸の地形は基本的に波打っており、現在も「四ツ谷」
「市ヶ谷」「渋谷」「鶯谷」など、谷状の地形である土地が多く残っています。家康が江戸を拠点としたのは、広大な関東平野の沼地を水田に変えれば、米が江戸に集まる事を見込んでいたからです。そして河川の堤防造成、荒川と利根川の水路変更、水田造成を行いました。
南国の貧しさと豊かさ
金持ちの人生論
長年の努力が実って、金持ちとして成功した男がいた。彼は南の島で連日バカンスを楽しんでいたが、現地の人々は貧しいままでいるのに
全く努力せずに生きてることが気になった。
「これからは気ままに生きるのはやめて、毎日漁に出て、金を貯めるんだ。」
「金を貯めてどうするのです?」
「生きていくのに充分な金があれば、自分と
同じように毎日遊んで暮らせる。これが
人生の目的だからだ」
「遊んで暮らすことが目的なら、今の私たちの生活と同じですよね。」
冬がある国の豊かさ
有史以前に北国と南国に住み始めた人間の
豊かさは同程度でした。北国には冬があり、その間は動植物の成長が止まります。そのため北国で食糧を得られるのは春から秋にかけてであり、長い冬を過ごすためには食糧を備蓄しなければなりません。「豊かさとは働いて食糧を蓄えること」これが北国の労働観であり、やがて資本を蓄える発想に繋がります。
北国の気候に生きる人々は、冬を快適に過ごす事を目的に、強固な住居を作り、燃料を蓄えます。また、冬の間の食糧を得るために南国との交易を活発化させました。厳しい環境に生きる事で、生活を発展させたのです。現代でも
イギリスは資本主義発祥の国として、ロンドンに巨大市場を持っています。また北欧諸国の
人口は100万人単位ですが、フィンランドのNOKIA、スウェーデンのIKEA、デンマークのLEGO社など、世界的大企業があります。
南国の貧しさ
欧州諸国の緯度は高く、冬場はとても寒いのですが、ギリシャ、イタリア、スペインなどの南欧地域は地中海性気候に恵まれ、冬場でも暖かいために、中世時代から富裕層の避寒地としてリゾート産業が盛んです。
そして南欧の人々はスペインの昼寝習慣に示されるように、労働生産性を上げるという発想があまりありません。現在南欧の国々はギリシャ危機を発端に経済危機状態であり、失業率がとても高くなっています。
これは一国の中でも同様で、例えばハワイ州は
アメリカで最もホームレスが多く、沖縄県は国内で失業率が最も高くなっています。リゾート地の実情は、観光産業以外の発展がなく、景気の動向に左右され易い貧しい土地なのです。
島国の豊かさと時間感覚
南の島国は、海外リゾートとして人気ですが、
そもそもリゾート旅行の目的とは「何もしない」事です。都会の時間に追われる人々が、
休息を求めて訪れるのです。これらの島々は
蒼い海と砂浜が広がるだけで何も活動する事がありません。
それは現地人にとっても同じです。島々はサンゴ礁で出来ているので、地面が殆どなく農業が出来ません。雨はよく降っても川がないので、水の確保が一番大切な仕事であるほどです。人々は魚を食べて暮していますがサンゴ礁の海は浅瀬が広がり海流が混ざらないので栄養分に乏しく、食用魚を大漁にとれないのです。
金を得るためには外国人観光客を相手に商売する必要があるのですが、そもそもリゾート施設が外国資本で建てられているので、自国の産業が発達しません。リゾート地の買い物は全てアメリカドルで支払えますが、現地人もドル札で収入を得て外国製品を買うため、自国通貨が
流通しない国すらあります。
人々は自給自足に近い生活を送っていますが、それは自分の時間を自分でコントロール出来るということ。先進国の消費社会は自分の時間を売り、金を得ることで成り立っていますが
都市社会に住む私たちがリゾート旅行に憧れるのは「働かないことで自分の時間を取り戻す」
ためです。近年は田舎暮らしやスローライフが注目されていますが、私たちは南国の生活と比較して、自分は何のために働くのか、一体豊かさとは何かを問われているのです。
心理学の考え方(2)
3:「悪い人」はいない
この社会に悪い人はいない、心理学はそのように考えます。社会は犯罪で溢れているし、自分も悪意を持った人間の被害に遭っている、と反論されるかと思います。ですが、「悪い人」の視点ではどう考えているのでしょう。
例えば立場の違いを利用してパワハラや暴言を浴びせられた場合。被害者は激しく傷付きますが、相手はそんな被害者の姿を見て「弱者をいたぶることの愉しさ」を感じています。そして
自分を正当化する根拠を捜すのです。
「盗人にも三分の理」という諺がありますが、窃盗犯は自分の腹を満たすために万引きしますし、殺人犯は自分にとって邪魔な人間を消すために人を殺します。
いずれも共通するのは、客観的には悪でも、
主観の世界では「自分のために良いこと」
をしているということです。相手の気持ちを想像することなく、自分にとって良いことを「独善」と言いますが、それに共感する仲間がいると「他人も同じように考えている」という強力な正当化の理屈ができます。
学校や職場でのイジメは加害者側は多数派であり、「被害者にも落ち度がある。皆が協調しているのに、個人の都合で動く奴は集団の敵だから排除するしかない」と考えて行動しています。そこに「悪意」の自覚はありません。
世界からテロや戦争が根絶しない理由の一つは、当事者たちの誰も「悪い事をしている」自覚がないことにあります。「神の意志だから」「理想の社会をつくる」「国家を守るため」など色々な正義を信じているから、反対派の人々を殺せるのです。「地獄への道は“善意”で舗装されている」(カール・マルクス)のです。
4:自分の心が分からない
自分の心は自分しか分かりません。逆に言えば、自分の事は自分が一番理解している。それは本当なのでしょうか?
周りの人のうち、誰が好きで、誰が嫌いかという事は理解しています。ですが、その人が好きな理由を言葉で説明出来ますか。自分の好みや心情が気まぐれに変化するのは何故なのでしょう。
「近代心理学の父:ジクムント・フロイト」
精神分析学の創始者フロイトは、個人の思考や意志決定の深層には、本人が自覚していない「無意識」領域が存在することを発見しました。フロイトは、何かを好きになる・嫌いになるなどの個人の性格は、幼少期の親との関わりの中で形成され、それは成人しても影響を与え続けると考えました。
子供から成長する過程で、誰もが自我の確立に悩み苦しみながら大人になります。自我の確立とは「自分はどう生きたいのか」を理解する事です。「何を学ぶか」「どの職業につくか」「子供を産むか」「誰と結婚するか」など
人生の選択肢が多様化した現代では、個人のライフプランは自分自身で決める自由を持っています。ですがその自己決定の根拠は、ある意味
いい加減です。
恋人と付き合うきっかけや、アルバイトを始めた理由は、「なんとなく楽しそうだったから」ではないでしょうか。自分の心、特に「理性」ではなく「感情」で思考している分野は、無意識領域に属している事柄が多いのです。自分の感情を全て意識出来る人は「感受性が高い」のですが、そうした人は作家や芸術家タイプであり、社会適応能力がありません。
ストレス社会である現代では、全ての感情を意識すれば、自分も周囲もパンクします。それを避けるために、心は嫌な感情を無意識領域に置いているのですが、感情自体は自分の一部であり消滅しません。そして感情を押し込め続けた場合、「結婚」「転職」「離婚」など人生の分岐点に立った時に、本来の自分は何が好きで何が嫌いか、自分は何をしたいのか分からなくなっているのです。
これは非常に難しい問題です。
自分の感情に正直になり過ぎれば、社会生活は困難になります。そもそも意識を掘り下げれば
「本来の自分」が見つかる保証がありません。
学生の「自己分析の罠」「自分探しの罠」と
言われるように、自己を掘り下げることで
却って自分が分からなくなることもあります。
しかし自分の感情を常に押し殺し、周囲に併合すれば自分自身の個性がなくなります。自分の人生の分岐点にいる時、他人の意見に従うことになりかねません。
自分なりの判断基準を持つこと、それでも分からない時は、敢えて分からないまま決断する事、根拠が示せなくても自分の直感を信じることも大切です。
あとがき:人間の矛盾
日本を代表する精神科医、中井久夫氏は「健全な精神とは、個人の感性と社会の要請から派生する矛盾を内包することだ」と述べています。
社会では「自分で考えろ」と言われ、考えて行動したら「勝手なことするな、空気読めよ」
と言われます。
一体何を求められているのか分からなくなりますが、この矛盾する内容を成長する中で無理なく受け止めることが心の発達であり、両者のバランスが崩れると心は不調になります。
そもそも両立しない概念を心は抱えているのですから、環境や人間関係の変化など、慣れない状態になれば心を病みやすいのです。
もしも自分が精神疾患になったら、心が矛盾に悲鳴をあげていると受け止めて、社会活動
から一休みすることも大切です。
心理学の考え方(1)
心理学を学べば、人の心が分かると考えている
方はおりますか?心理学は心の構造を解き明かすための学問ですが、それで相手が何を考えているか分かれば誰も苦労しません。
本来の心理学とは、「人の心は分からない」ことを前提としてそれを真摯に探求する学問です。心理学について書けばこのブログの全てが埋まる程奥深い世界ですが、今回は基本となる考え方だけを解説します。
1:他人の心は縛れない
恋愛やセールスの指南書には、相手の心を思い通りに動かす方法が書かれていますが、これは
2つの点で論理が破綻しています。
一つは人間は考え方や物事の受け止め方が千差万別であり、同じ言葉でも全く逆の意味に捉えることがあるからです。
もう一つは、書籍として出版されることで相手にも自分の手のうちがバレている可能性が高いということです。その場合、自分が相手をコントロールしたい気持ちが露呈することで距離を置かれるでしょう。人間は本来精神の自由を求めているからです。
精神科医ヴィクトール・フランクルは、ナチスドイツの収容所生活で精神の極限状況を記録した事で知られています。フランクル曰く、「人間は死を強制されても精神の自由は奪われない。何故なら飢えに苦しみながらも、他人を助けている人々がいるからだ。理不尽な状況に置かれている時、それでもなお他人を信頼するか・しないかの自由を人間は持っている。」
暴力や権力を盾に、或いは金銭や地位を餌にして他人を従わせること出来ても、人は表面的に服従しているだけであり心をコントロールすることは出来ないのです。
不可能に挑戦した事例:
資本主義や個人の自由に関する思想を唱える人物は政権運営を危うくするため、秘密警察に逮捕させて虐殺しています。その前の段階で、覚醒剤と電気ショックを使用してマインドコントロールを行いました。薬物を使用すれば、精神は幻覚妄想に支配され自由を失います。
また、脳神経は微細な電気信号のやり取りで活動しているため、反抗的な人間の脳に強い電気を流すと、思考や意欲が阻害され服従してしまうのです。
動物実験でも同じ効果が確認されています。虐待を受け続けた精神が、自由の希求を諦めてしまうのです。そして児童虐待やDVの被害者も同じ状態にあり、精神は縛られた状態であると考えられます。
心理学の知見を服従や洗脳に使用することは、医療器具で殺人を行うのと同じです。「親から虐待されていた」「DVを受けていた」人は成長しても心が縛られた状態であるケースも多いです。心理カウンセリングはそうした人々に心は自由であることを自覚してもらう方法論であり、他人を従わせることではないのです。
2:「不幸な」人間はいない
「私は恵まれてない」「私は不幸な人間だ」誰しも自分は不幸だと考えることはあるとおもいますが、心理学はこれを否定します。
アルフレッド・アドラーは「アドラー心理学」の確立者です。アドラーは「人は過去への囚われではなく、未来への願望によって思考している」と考えました。
例えば貧困家庭に生まれ育ったり、障害を抱えて生きている人々がいます。自分がその立場であれば、現在の境遇を嘆き、未来を悲観するでしょう。ですが社会で生き生きと活躍している人もいるのです。
「不幸を嘆いて未来を悲観する人」と「不幸をバネにして未来に希望を持つ人」、両者の違いは「過去の出来事は変えられないが、現在の自分がそれをどう意味付けるかは決められる。大切なことは未来に向かってどう生きたいか」
という前提の上で「幸せになりたい」もしくは「不幸な現状を維持したい」という考え方の違いなのです。
「自分は不幸」ではなく「不幸だと考えているに過ぎない」と認識を改めること、そうしなければ他人の目からどれだけ恵まれていても、「不幸な自分」から脱することが出来ません。