バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

謝ることを誤らないために

「コペル君、キミは間違ってるぜ。友だちが許してくれるかどうかなんて考えてはいけない。キミは大切な友だちを裏切ってしまった。キミが苦しんでいるのはそのためだ。だったらキミはキミ自身であるために、大切な友だちに謝らなければいけないのだよ。」

吉野源三郎著「君たちはどう生きるか

 

「ごめんなさい」は難しい

「成功する方法」に対して「謝罪する方法」はあまり人気がありません。

誰だって自分の非を認めることは苦痛です。謝ることは面倒である割に相手が許す保証もない、自分にメリットがないと考えがちです。

しかし謝罪と償いをしなければ相手との縁は確実に切れる。法律に触れていれば社会的立場を抹殺されます。生きている限りミスはつきものですが、迷惑をかけた相手に対する謝罪は、私たちが社会集団を作る上で不可欠である大切な作法です。

小さな子どもでも出来る謝罪ですが、歳を重ねた大人ほど謝罪が出来なくなり、対応を誤って相手の心に油を注いでしまう。何故謝罪は難しく、大切なのかを考察します。

 

1)自分が「悪い」とは

私たちは日常生活を送る中で、仕事や家族、友人関係などの様々な人間関係をつくっています。そうした場面では、故意や過失も含めて他者を傷つけることが避けられません。

満員電車で肩がぶつかった、相手の一言にカチンときたなど、些細なことは日々起こります。ですがその些細なことに相手からの「ごめんなさい」がなければどうなるか。一言の謝罪で済むことが喧嘩に発展し、お互いに譲らない状況になれば障害事件になってしまいます。相手との対立から引き下がることを「鞘を収める」と言うように、誰かを傷つけるとは、相手に対して刃を向けている状態だと解釈されます。そうなれば相手も刃を向けざるを得ない。だからこそ他者に迷惑をかけたかなと考えた時点で、一言の謝罪が必要です。

この場合の迷惑とは、正義や理屈の話ではありません。自分にとっては正しくても、相手が不愉快に感じたことは「悪い」ことであり謝罪が必要なのです。自分が謝るのは理不尽に感じますが、ここで謝罪するかは相手との関係を続ける価値があるかで決まります。

 

2)誰に謝っているのか

謝罪の目的は、他者との余計な対立を避けて今後も関係を続けるためにあります。そのため謝罪の仕方は、自分と相手との関係性で変わってきます。仕事の上司やお客さんであれば、相手の立場が上であるために謝罪を急がなければ、自分に不利益が返ってきます。逆に自分の立場が上である場合、例え自分に非があっても特に不利益は被りません。下の立場の人に謝ることが出来るか、そこに人としての在り方が問われています。一方でプライベートな関係、友人や恋人、家族の間では、相手に与えた迷惑と、自分が被る不利益が曖昧です。そのため謝罪の必要性に気付かぬまま、相手を深く傷つけてることもあります。

 

3)何を誤っていたのか

謝罪が必要な場合は、他者が不利益と感じるかどうかです。自分の行為は他人にどう影響したのかを考える、他者の気持ちを推測する能力が必要になります。ですが他者の心の中は、その人にしか分かりません。相手の態度と言葉から探っていくしかないのです。何を怒らせてしまったのか大体想像はつく。けれど間違っていることもある。謝る対応を誤る可能性は常にあります。

単純に誰かとぶつかった場合を想定してみると、相手はダメージを負っていますが、自分も同じだけ痛い思いをしている。思考が自分の苦痛で満たされれば、次には相手に対する怒りが湧き起こり、とても謝る気持ちにはなれません。相手にダメージを与えた状況は、自分自身もダメージを負って冷静でいられないことが多い。自分の心が怒りと混乱に満ちている状態で、他者の立場を想像することは出来ない。「ごめんなさい」の一言が言えないのです。

 

4)謝罪とは技術ではなく、心の姿勢である。

相手の怒りを和らげるには、迅速な謝罪と説明、補償の方法を提示する必要があります。ですがこれらは「上手な謝罪」の技術論であり、相手の許しを目的としています。

ビジネス上のやりとりでは金銭的な不利益が明確になるために補償がなければ、相手も引き下がれません。逆を言えばどれだけ話が拗れても最終的には金を積んで解決できます。

一方でプライベートな関係では、不利益と補償の関係は明確ではなく、感情のもつれを丹念にときほぐすことは難しい。謝って許してもらえるかは分からず、自分がどこまで非があるかも良く分からない。そもそも謝る必要があるのかと考えてしまう。友人、恋人、家族関係ですら、本来は別々の考えを持った他人同士であり、人間関係はそうしたすれ違いから壊れるのです。

一度失った信頼は戻らず、離れた心は元に戻らない。時間は遡れず、死んだ人は永遠にお別れとなる。たとえどれだけ謝っても許されないことは生きる上で沢山あります。そこでは謝罪の技術論は通用せず、上手く謝ろうとする気持ちが現れるほど相手の心に油を注ぎます。

 

5)許さないとしても謝ることの意味

相手の許しが得られなければ、謝罪は無駄なのか。冒頭に挙げた台詞は主人公の少年が叔父さんから「謝るとは自分の誤ちを認めることであり、自分自身が正しく生きようとする心の態度」なのだと説いています。誰に褒められなくても、許しを得られなくても自分の誤ちを正そうとする心の態度こそ、人が人間として在ることの証です。私たち人間は、自分の得になることは行い、損をすることはしたくありません。けれど時には何の得にもならなくても、謝ることがある。これは必要だからではありません。外部からの強制で謝ったところで心の態度には反映されません。ただ自分の心に嘘をつきたくないという在り方の自覚なのです。

生きていれば誤ちをおかす。その時に謝るのは自分の誤ちを正すという心の決意の問題です。誤って、謝って、また誤って、そして謝る。それを繰り返すことでしか、生きかたを正すことは出来ません。生きかたを誤らないために、私たちは許しが得られなくても謝るのです。