バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

クジラ釣りの終わり(中)

日本の立場

1:食料資源の確保

古来より日本人にとってクジラ肉は貴重なタンパク源であった。終戦後の食糧難の時代、クジラを食べて生きてきた。飽食の現代にあってクジラ肉は嗜好品の扱いであるが、地球規模でみた場合、異常気象などで食糧に乏しい国々は多い。我が国の食糧自給率は低く、特に食肉は多くを輸入に頼っている。食糧安全保障の観点から、クジラを食肉の選択肢として国民で提供することは必要である。

2:資源管理の観点

20世紀中頃までの捕鯨によって、大型のクジラ類は絶滅危惧となったが、逆に小型のクジラ類が生息数を増やしているのは、調査から明らかである。大食漢であるクジラは、世界中の人間が一年間で漁獲する魚と同じ量を数日で食べてしまうという試算もあり、エサとなる魚たちを人間をはじめ、保護対象のクジラやペンギンなども食べられなくなる可能性もある。体格の大きなクジラは天敵生物がおらず、増えた種の数は餌がある限り減ることはない。増えすぎた生き物を人間が間引くことが本来の資源管理であり、南極海の調査捕鯨の目的である。

3:文化の保護

日本で本格的な捕鯨が始まったのは江戸時代からであり、クジラの回遊する沿岸部ではクジラ組という捕鯨船団が漁を行った。日本の捕鯨は「クジラの命をいただく」という精神性があり、肉だけでなく骨や皮も全て利用してきた。現在も和歌山県太地町をはじめ、伝統的な捕鯨を続けている漁師は各地に残っており、捕鯨の一律禁止は地域の伝統文化を衰退させる。

アラスカ州グリーンランド先住民族には、保護対象のクジラの捕獲も認められている。極地に生きる人々にとってクジラ肉は重要な食糧だったが、食品の流通が進歩した現代では、クジラ漁をしなくても食べていける。にも関わらず先住民が漁を行うのは、それが民族のアイデンティティに関わる伝統文化だからだ。他国の人間には奇異に見える習慣が、その地の人々の個別性であり、文化の衰退は地域の消滅につながる。日本の消費者は、クジラを食べなくても生きていけるが、捕鯨に携わる漁師や食肉業者、料理店は職を失う。日本人は様々な動植物を食材としてきた。世界的に日本食がブームだが、日本食の素晴らしさは使う食材の多様性にある。クジラ漁の禁止は食材の一つが消えることであり、食の豊かさを失うことだ。

4:内政不干渉の観点

ゴキブリが絶滅に瀕していた場合、歓迎する人は世界中にいるが問題だと考える人は誰もいない。ゴキブリも命ある存在だが、人間にとってはテリトリーを脅かす害虫だからだ。人間は個々の生き物の価値を勝手に決めている。

自然保護団体や動物愛好家にとって、クジラは保護の象徴動物になりやすい。人間に危害を与えず、姿や行動が魅力的だからだ。保護団体はスポンサーから資金を集め、世論の注目を集めるためにその活動には分かりやすい理由が必要になる。グリーンピースシーシェパードのような保護団体が捕鯨への過激な抗議活動を行うのは、「国家の悪政から罪のない動物を守る」という正義のヒーローでありたいためである。国際的な非政府組織は、政府では立ち入れない国際問題の場で活動する動機があり、公海を泳ぐクジラたちを身を呈して守ることは、国際世論へのイメージ戦略である。

海洋生物の絶滅は乱獲よりも環境汚染によって引き起こされており、海洋環境の改善に地道に取り組むことが必要だ。しかしこうした活動は成果を示すことが難しい。「クジラは海の生態系の頂点であり、日本は捕鯨を続けることで海洋環境を乱している」という主張は、大衆に分かりやすく支持を受けやすい。反捕鯨国の立場とは、クジラという象徴を用いて外交上の優位を確保しようとする政治的な面が強い。

捕鯨問題とは、資源管理や種の保存問題ではなく、各国政府が国民の支持を取り付けるための政治問題になっている。日本は南極海の調査捕鯨において国際捕鯨委員会の漁獲枠を長年守ってきた。小型クジラの資源量が増えていることが提示されているのにも関わらず、捕鯨の一律禁止が採択されたことは、クジラ漁の是非は環境科学的な根拠とは無関係な政治問題であると考えざるを得ない。政治問題は他国の内政干渉に当たるため、日本国政府として妥協しない。