バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

クジラ釣りの終わり(下)

国益とは何か:捕鯨からの撤退

捕鯨は先進国でも立場が分かれている問題であり、模擬討論の議題として提示されることもあります。バカ田大学は学問の場であり、特定の政治的主張は控えるべきなのですが、反対賛成双方の主張を掲げたので、最後に私の立場として、商業捕鯨からの撤退と伝統捕鯨の保護を主張します。

1:捕鯨は「日本国」の伝統ではない

捕鯨とは、保護や文化だと一律に語られていますが、そもそもは偶然に座礁したクジラを食べていたのであり、捕鯨の習慣が長年続く地域も全国に数カ所だけです。日本は水産資源に恵まれた国ですが、潮の流れや海底地形によって地域で取れる海産物は全く異なり、クジラが回遊しない地域には当然捕鯨の習慣はありません。

捕鯨は暖かい海に面した特定地域の伝統であり、日本全体の文化ではない」ことを起点とします。

2:クジラを獲るほど赤字になる

日本の捕鯨船が大型化し南極海商業捕鯨を本格化させたのは、戦後の食糧難で鯨肉の需要が高かったからです。クジラは極地の冷たい海で豊富な餌を食べて脂肪を蓄え、出産や子育てで日本近海の回遊を終える頃には、体重が半分に落ちるとほど痩せています。だから地球の裏側までクジラを追っていたのですが、最盛期には鯨肉市場が確保されていたので、遠洋捕鯨でも採算が取れました。

水産庁は毎年調査名目で数百頭のクジラを捕獲していますが、クジラを食べていた世代も高齢化し、日本の一般消費者はクジラを食べる機会がほとんどありません。鯨肉は僅かな流通量が食肉市場に出て、料理店や居酒屋、食品加工に卸されます。食卓に上る肉というより嗜好品であり、一般消費者にとって食べなければ困るものでもなく、飲食店が売らなければ困るわけでもありません。

商品としての価格決定力がなく、商業捕鯨を黒字化するためには漁獲量と消費需要の双方をあげる必要があります。ですがこの2つはともに難題です。クジラ漁をする国は少数であり、鶏肉や牛肉などの家畜と異なり国際取引市場がありません。クジラの食習慣のある人々も少数派であり、他国にとっては捕鯨の漁獲量をあげるメリットがない。IWCの枠組みを離脱して捕鯨を行えば、日本政府は国際社会で孤立します。クジラは野生動物であるため、漁獲高に応じて流通量や価格が安定しません。肉も血の臭いが残っているため、専門店でなければ美味しい調理が難しく、一般家庭の食卓に上がることはまずありません。いくら捕鯨しても採算が全く取れないため、調査捕鯨水産庁の予算で実施されています。大手水産会社は鯨肉の扱いをやめたため、国が出資した業者が引き継いでいる状態です。

3:水産庁のクジラ釣り

捕鯨に関連した予算とはもとは国民の税金であり、何らかの形で還元される必要があります。しかし調査捕鯨は何の利益も研究成果もあげないまま、さらに鯨食を国民に広げる見通しも立たない。採算割れの赤字を流している省庁の事業が、国際社会の顰蹙まで買っているという状況なのです。多くの日本人には捕鯨のメリットがない状況において、未だに捕鯨を続ける理由は何か。それは水産庁の慣習だとしか考えらません。

一般の企業でもそうですが、かつては主力だった事業が採算割れとなった場合、事業からの撤退を決めることは極めて難しくなります。やめるだけなら事業設備と商品在庫を処分するだけですが、携わってきた人間は反対します。自分のこれまでの成果を否定される上に、未体験の業務をゼロから始めなければなりません。だったら先行きが暗くても現状維持が楽だと考えてしまう。

国税という予算があらかじめ与えられている省庁は、事業予算の獲得こそが成果であり、事業が赤字を出し続けていても職員の給料は下がりません。そのため新しい事業を始めることには熱心でも既存事業から撤退するという発想がないのです。日本の国家予算は総額100兆円を超え、半分を国債でまかなっている状況です。財務省は各省庁の予算要求を厳しく査定しており、無駄な事業は削減するよう求めています。

現代の日本人にとって捕鯨とは生きるための漁業というより釣りのような遊びに近い。遊びのために国家予算が使われており多くの国民に還元されていない。商業捕鯨は省庁の予算獲得を巡る悪しき伝統であり、捕鯨からの撤退手続きは「やめること」が極端に苦手な日本の行政にとって先進モデルになります。

 

種の保存、残虐性、伝統文化、他国の利益、政治問題など様々な主張が入り乱れている捕鯨問題ですが、クジラの生息数はあくまでも推定値です。海はどこまでも広く、人間からは海上に浮上したクジラしか分からない。世界中の海を回遊しているクジラたちを一頭ずつ数えることは不可能です。日本政府が主張の根拠としている生息調査も実態を反映してはいません。

人間は遊びで釣りをする場合、釣った魚は食べる分だけ殺し、食べられなければ放流します。人間が他の生物を殺して良いのは、殺さなければ人間の生存が脅かされる時だけです。生命とは道具でも玩具でもありません。クジラたちは国家間の意地の張り合いの犠牲となっており、水産庁の調査捕鯨とは国税を食うだけのクジラ釣りなのです。

 

4:商業捕鯨の廃止と伝統捕鯨の保存

国際捕鯨委員会は、公海上の大型クジラの規制をしており、各国沿岸部の小型クジラについては各国の自主規定に委ねています。南極海での調査捕鯨は既に難しい状況ですが、日本の排他的経済水域内での捕鯨は可能であり、IWCはこれまでに何度も日本政府に妥協案を提示しています。

日本政府としては、南極海北極海での捕鯨は全面禁止に合意して、代わりに国内沿岸部の捕鯨は認めるよう交渉するのが良いでしょう。和歌山県太地町をはじめ、捕鯨を続けている地域は残っていますが、漁業は全体的に規模が縮小しており、漁師は後継者不足が深刻です。

太地町の総人口も3000人を割り込み、数年後にはイルカ漁の伝統どころか自治体が消えるとも危惧されています。文化としての捕鯨は後継者不足によって存続が危うい状態であり、わざわざ規制をしなくてもクジラが乱獲されることはないでしょう。国内にはホエールウオッチングを観光化している自治体もあるため、沿岸部捕鯨は国も積極的に支援できません。水産庁捕鯨事業から撤退し、捕鯨に伝統的価値があるかを文化庁が判断した上で補助金を交付します。捕鯨を擁護している和歌山県が地方交付金から予算を出しても良いし、クラウドファンディングを利用して、全国の捕鯨支持者から寄付を募ることが最も公正だと思います。

海上の調査捕鯨は商業目的ではなく、学術目的に限定し、環境省と海洋研究機関が引き継ぎます。個体を生かしたままの調査を原則とし、各国と協力してクジラの生態解明と海洋汚染の実態を調べます。

終わりに:クジラを殺したのは誰か

近年、捕獲して解体したクジラの胃の中からは、大量のプラスチックゴミが出てきています。私たちの生活に欠かせないプラスチックですが、自然界で分解しません。海に流れ出たゴミは潮の流れに乗って世界中に運ばれています。日本の海岸には中国や東南アジアからのゴミが漂着し、アメリカの西海岸には日本からのゴミが漂着します。クジラ類は海水ごと魚を飲み込んで食べるので、海水と一緒に飲まれたプラスチックは胃の中に蓄積し、腸を詰まらせることもあります。保護対象であるかに関係なく、プラスチックは全てのクジラたちの体内に溜まっていく。今やクジラたちの脅威は銛を打たれることではなく、プラスチックが胃腸に詰まることなのです。

この問題には捕鯨国、反捕鯨国の立場は関係ありません。世界中の海は潮流で繋がっており、どの国も大量のプラスチックを消費しています。しかし海洋汚染は、見えにくい問題である上に先進国、途上国関係なく全ての国と地域が協力しないと意味がありません。地道な作業ですが、プラスチック汚染を止めなければ、クジラだけでなく、アザラシやウミガメ、多くの魚類が絶滅の危機に瀕します。日本も反捕鯨国も捕鯨問題で外交の意地を張っている場合ではないのです。クジラたちを守るために、国際会議の議題は海洋汚染とし、プラスチック規制の枠組みを制定する。次の世代にも美しい海を残すために、新しい問題に取り組みましょう。