バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

幸せは権利ではなく義務である

 生きること、それは喜びと悲しみ、自由と孤独

怒りと愛情、日々沸き起こる様々な出来事に対する感情の体験です。

喜びと愛情に包まれる時もあれば、悲しみと絶望で先が見えない時も訪れる。そんな時でもじっと耐えなければならない。生まれつき健康や財力、愛情に恵まれた人もいれば、そうした資質を何一つ持たないで生涯を生きる人々も大勢います。不平等や理不尽が当たり前に存在するこの世界で人は何故生きて行くのか、今回は幸福とは何かを考察します。

 

幸福論 (集英社文庫)

幸福論 (集英社文庫)

 

幸福とは義務

アラン (フランス)は独自の幸福論を説いた哲学者として知られます。高校の哲学教師だったアランは幸福の定義を崇高な哲学ではなく、平易な言葉で解説しました。アラン曰く「幸福とは権利ではなく義務である」

誰もが幸せになりたいと考えても、自分の思う幸せは中々手に入らない。自分も人並みの幸せを得る権利があると考えますが、人は幸せにならなければならない義務があるとしたのです。

「権利」とは自分が受けるもので自分以外の誰かが与えてくれるものです。幸福を与えてくれる誰かとは、恋人、親、或いは国家、哲学的には神のことです。神社に賽銭を入れて神頼みするようなもので、幸福の権利とは誰かが自分を幸せにしてくれるという他力本願な考えです。

「義務」とは自分が果たさなければいけないものです。努力も苦労も伴うために幸せの目標が高いほど達成出来る人は限られますが、自分の成長を幸せに感じることが出来ます。自分の幸せは自分で掴むという発想は、他者に勝手な期待をしないため、暴走しがちな人間の欲望を抑えることにもなります。例えばダイエットの目標体重を達成出来れば嬉しいですが、ダイエットの苦しみは自分以外に誰も換われません。

ここで考えなければいけないのは、明らかに肥満体型なのにダイエットを義務として行わない場合です。痩せる努力をするのは他ならぬ自分であるのに、楽をするために自分の問題から目を背けます。やがて自分が太っているのは遺伝だから、運動出来ない環境だから、お金がなくてジムに行けない、など自分以外に原因と責任を求めるのです。責任を求められた側は「自分が太ってるのはお前のせいだ」と言われているようなものです。ここでの「肥満体型」を「幸福ではない状態」と広く置き換えて考えると、

アランが何故幸福になる義務を唱えたかが見えてきます。要するに「不幸な自分」を放置して「幸福になる権利」を主張することは、嫉妬と不満を撒き散らして、周りの人を不幸に巻き込んでしまう悪循環なのです。

リア充」の爆発

家族や友人に恵まれ、特に恋人と仲睦まじい様子をSNSに投稿することをネット用語で「リア充(現実生活が充実している人)と呼ばれ、「リア充爆発しろ」など僻みの意味合いで使われることが多いです。インターネットは仮想空間なので、実生活の自分を孤独で惨めに感じても、ネット上の繋がりを充実させることは簡単です。その空間に実生活でも充実している様子が入りこむと、自分が手に入れたくても手に出来ないものを見せつけられたと感じて、嫉妬の混じった怒りを表す人が多いのです。

他人の不幸を願う暗い感情は誰しも抱えていますが、自分が他人と比較して恵まれないと感じても、それを不満に出してはいけません。何故なら幸福に見える人たちは、自分たちの必死の努力で幸福を掴んでいるからです。

幸せな人々

私たちが生まれた時、周囲の誰もが祝福してくれました。子供の誕生はおめでたいこととされますが、女性にとって妊娠とは血肉を分けることであり、出産とは現代でも母体死亡を引き起こす命がけの行為です。ですが子供を望む女性にとって、妊娠出産は何よりも幸せな経験です。幸福の努力とはそういうものです。

好きな人に勇気を振り絞って告白すること、試合に勝つために身体を鍛えること、起業のために奔走すること、興味を極めるために勉学すること、どれも自分が幸せになるために自分の努力で行うものです。そうした努力は自分に幸福をもたらしますが、努力を見ていた周囲の人を感化させる力もあります。自分以外の人も幸福にすることが出来るのです。

私たち一人の力は小さく、自分の努力で掴める幸福とは自分の家族を守ることで精一杯です。

そうした細やかな幸せを誰もが必死に守っている。それが社会であり、私たちは自分がどのように境遇にあっても、幸福への義務を果たさなければなりません。自分にとっての幸せとは何かを考え、それを誰かと分かちあえたなら、私たちは楽しく義務を果たせるでしょう。

 

 

 

国際都市TAKAYAMA

1月始め、岐阜県高山市を観光しました。そこで見た外国人観光客の多さに驚き、日本らしさとは何かを考えさせられました。

1:高山市の町並み

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岐阜県高山市日本海側の山岳地帯に位置し、市域は東京都と同じ面積があります。市内は標高3000m級の北アルプスを始め大部分が山地です。2005年に周辺7町村と合併して日本一広い市となりましたが、住民の高齢化と過疎化が進んでいます。

山林に囲まれた飛騨高山地域は林業で発展し、江戸時代には幕府の天領(直轄地)になっています。県庁のある岐阜市は山地を隔てて100km以上離れており、日本海側の都市との交流が盛んです。冬になると山々にぶつかった雲が大量の雪を降らせるため、飛騨高山は日本有数の豪雪地帯でもあります。冬の気候が厳しいため、人々は雪で潰れないよう木材で頑丈な家を建てました。

金沢から江戸や名古屋に向かう大名や商人たちの宿場町として高山市中心部は形成されました。江戸〜明治時代の建物は頑丈な木で作られたこと、太平洋戦争での空襲がなかったこと、大都市圏から離れており、住民の移転が少なかったため市街地の景観が保存された。経済成長によって国民生活が豊かになるに連れて、自然や温泉に恵まれた飛騨高山の観光客は増えた。宿場町である高山市は元々旅館を営む住民が多く観光客を呼び込むことに積極的だった。

こうして観光産業が地域経済を支えることになりました。現在では人口約9万人の高山市に年間で450万人の観光客が訪れます。 

2:観光業の転機:外国人観光客の誘致

観光産業で成り立つ都市は日本各地にありますが問題もあります。一つは閑散期には収入がないこと、飛騨高山は登山や避暑に訪れる春から夏が観光シーズンであり、逆に寒さが厳しい冬には観光客は減ります。また日本人観光客は5月の大型連休や夏休みに集中するため、閑散期の旅館やホテルの稼働率が下がってしまうのです。

もう一つの問題は観光客自体の減少です。高度経済成長期には会社の団体旅行客が温泉地に大挙したため大型ホテルが建てられましたが、個人客が中心となった現在では大口客の需要は下がっています。また、海外旅行の普及で国内観光客が外国に流れています。少子高齢化によって日本人全体が減少しているため、旅行の潜在需要自体が減り、日本人観光客の誘致に努力しても、他の観光地との客の奪い合いになってしまいます。

一方で日本人に海外旅行が身近になった頃から、欧米人を中心とした外国人観光客も少しずつ増えていきます。彼らの目的は日本文化の体験であり京都や奈良などの観光地は国際化します。1986年に飛騨高山地域が国際観光都市に指定されたのを機に、高山市は外国人観光客の誘致に乗り出します。

3:白川村の観光価値

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高山市に隣接する白川村は、世界遺産の合掌造り集落で知られています。日本の原風景の様な景観美は高く評価され、村民1500人の村には毎年世界中から100万人以上が観光に訪れます。

以前の白川郷は、細々と農業と養蚕を営む山間の集落でした。周囲を山に囲まれて日照時間は短く、田畑を広げることも出来ない。冬には道が雪に閉ざされて外界から孤立してしまう。住民たちは非常に厳しい環境で生活するために、豪雪に耐える合掌造りの家を作って、地域全体で代々守ってきました。

伝統的な茅葺き屋根を維持するには多額の費用がかかるため、以前は日本各地に見られた日本家屋に今も住民が住んでいる地域は非常に限られています。かつて誰も訪れることのなかった白川郷は、外界から離れていたことで里山の原風景がタイムカプセルの様に保たれ、現在では世界に開かれた場所になっています。

世界遺産の登録は歴史的景観の保持が条件となるため、住民たちは古い家屋を維持管理しなければなりません。文化庁や村から補助金も出ますが、家屋は住民たちの所有であり修繕費を負担する必要があります。自分たちの生活と景観を守るため、集落の住民たちは農業から観光客相手の土産屋や民宿に転業しています。

4:「サムライルート」の開拓

白川郷世界遺産として紹介されてから観光客が急増しましたが、問題も出てきました。景観を保つために厳しい開発規制が必要なため、観光客の滞在施設を増やないのです。狭い道幅を広げることも出来ないので一般の観光客がマイカーで押し掛ければ交通渋滞で住民は生活出来なくなります。村民たちは観光業者や行政と話し合いを重ねて、金沢や富山、高山駅からバス路線を確保して観光客をピストン輸送することになりました。外国人旅行者の移動手段は鉄道よりも高速バスが一般的です。高山市は白川村と連携して、国内外の旅行業者に白川郷までの観光ツアーを売り込むことで、市内の宿泊客を確保しました。

日本人観光客は観光シーズンに短期旅行が多いので滞在先は一つの観光地だけ、そのため各地で観光客の奪い合いになります。それに対して長期休暇が普及している外国人旅行者は、一週間近く日本に滞在することが多く各地を回ります。京都〜富士山〜東京へと観光するコースは「ゴールデンルート」と呼ばれ多くの外国人観光客が訪れます。経由地に金沢〜白川郷〜高山〜松本を高速バスで回るコースは「サムライルート」と呼ばれ、旧い町並みを徒歩で散策出来ることから近年人気を集めています。

高山市役所は観光戦略課を作り、金沢市松本市など他県の自治体と共同で観光PRを行なっています。現代の旅行者はガイドブックではなくインターネットから情報を得ています。翻訳ソフトが進化したため、観光施設の場所や交通手段、開館時間や料金などはホームページの方が詳しく分かります。しかし外国で情報端末を使うには公衆無線LANが欠かせません。高山市では街全体にWi-Fiスポットを整備し、更に各国の文化的な違いに対応するため外国人留学生に体験旅行を依頼しています。

5:急増するアジア圏旅行者

伝統的な日本文化を体験出来る飛騨高山はこれまで欧米諸国から訪れる外国人が中心でしたが、近年になってタイやマレーシア、インドネシアからの旅行者が急増しています。東南アジア諸国の経済発展により海外旅行が富裕層以外にも普及していること、航空路線の整備で日本への直行便が増えたこと、日本経済が円安傾向にあるため旅行各社は日本ツアーを売り出しています。

豪雪の高山市は冬季の観光客はスキーや温泉客に限られてきました。一方で東南アジア地域は熱帯性気候であり冬季がありません。台北や香港、上海などの中華圏都市も沖縄県より緯度が低いため年間を通じて暖かく、冬でも雪が降らないのです。アジア諸都市の住民は一生に一度も雪を見ないため、綺麗な雪景色を体験したいという需要が高いのです。私が訪れた1月は、観光客の殆どが外国人であり、日本人観光客はごく一部でした。

6:高山市に学ぶ国際観光政策

日本政府は訪日外国観光客の更なる増加を目指してインバウンド政策を掲げています。30年前から外国人観光客の誘致に向けて試行錯誤を繰り返した高山市の観光政策はその成功例と言えるでしょう。山に囲まれた高山市は地元の就職先がなく、若者が名古屋圏に流出していました。このままでは地域が消滅するという強い危機感が市民に共有されたことで、若者を呼ぶための観光政策に本気になっているのです。

高山市の観光の強みは雄大な自然と歴史的な町並みですが、東南アジアからの旅行者には雪国の体験、欧米の旅行者には町並み散策を紹介するなど、各国の旅行者の目的に合わせた観光プランを用意しているのです。

近年では北海道ニセコ町や長野県白馬村に欧米のスキー客が集まるなど、地方の観光地が国際化しています。日本人観光客の増加が見込めない以上、これらの観光地は無線LAN設置や多言語対応に取り組むことになります。

観光地を一つに集約することも大切です。広大な面積を持つ高山市ですが、観光客が訪れるのは中心市街地に限られており、合併前は町村であった周辺地区を観光する人は僅かです。周辺地区に金が落ちることはないですが、住民生活を乱されることもない。住民たちは農作物を市街地の飲食店に売るか、旅館の従業員や出入り業者として働くことで生活しています。

全国の自治体に観光課はありますが、自治体がどれだけ観光をPRしても、肝心の観光地に魅力が乏しければリピーターはつきません。また観光客が多くても、当地に宿泊しなければ客単価は大きく下がります。神奈川県鎌倉市は首都圏有数の観光地ですが、都心から日帰り観光で回れるため宿泊施設が少ないです。隣接する逗子市や葉山町の民宿は夏場の海水浴客で賑わいますが、秋から春までは空室が多くなります。外国人観光客に来てもらうためには自治体間で連携して、観光地と宿泊地を分ける必要があるでしょう。

7:高山市の観光の今後

東南アジア諸国の経済成長は続いており、各国は消費が活発な若い世代が多いです。成田空港は第3滑走路の増設により発着枠が大きく増えます。格安航空の参入も相次ぐ中で今後も外国人旅行者は増えるでしょう。各地の観光地では多言語への対応は進みつつありますが、宗教的な対応が進んでいません。

マレーシアやインドネシア国民は敬虔なイスラム教徒であり、日常生活の全てがイスラムの戒律に準じています。一方で宗教色の薄い日本では、国や自治体は政教分離の原則に触れることを避けるために、イスラム教徒への配慮に及び腰です。そのためイスラム教徒の観光客は、戒律を守りながら観光を楽しむための情報収集に苦労しており、母国の旅行業者の観光ツアーを頼るしかありません。

彼らは1日5回の礼拝が欠かせないので、聖地メッカの方角を示した礼拝スペースが必要ですが、日本では国際空港に設置され始めたばかりです。食べ物の戒律も厳しく、アルコールや豚肉成分を使用した食事は勿論、豚肉に触れた調理器具を使った料理すら口に出来ないのです。イスラムの戒律に準じて処理された食材はḤarāl(ハラル)の認証を受けることで初めて提供出来ます。飛騨高山名物の飛騨牛は厳しい品質管理をクリアしたブランド肉ですが今後はハラル認証も必要になるでしょう。

 

 

 

繋がり社会の網

2000年代の初頭から、個人でのインターネット利用が全世界で爆発的に普及し、テレビや新聞などの既存のメディアが独占していた情報の発信を、資本や技術のない一般人でも配信出来るようになりました。

ユーチューバーやブロガーといった職業が登場し、一般の人々もフェイスブックやインスタグラムに日々の生活を綴っています。個人でビジネスをする人にとっては、SNSは費用をかけずに宣伝出来る最適な方法であり、才能と野心を持った人々に良い時代が来ました。

SNSは学校時代の同窓生など、現在は異なる環境にいる人々と繋がりを保てるだけでなく、マイナーな趣味を持つ人同士を新たに繋ぐことも出来ます。

現代社会は人と人の繋がりが希薄になっていると言われがちですが、それは同じ場所に暮らしていても気の合わない他人に興味がないだけです。学校でも職場でも家庭であっても同じことで、目の前にいる「どうでもいい人」より遠くにいる「大切な人」とのコミュニケーションを

優先しているのです。SNSの登場で人同士の繋がりは以前よりも濃密になっています。それはネットに接続している限り他人に情報が漏れ続けているからです。

 

電子の檻

英国ロンドンなど、テロを警戒する都市は街中に監視カメラが設置され、警察本部で解析しています。日本の場合、公共の場に監視カメラを設置するのは駅の改札や繁華街に留まりますが、コンピュータの解析技術は一瞬で個人を特定します。

例えば街中で事件が発生した場合、警察は現場付近のコンビニやATMの監視カメラに容疑者が映っているかを確認し、容疑者を顔認証システムにかけます。顔認証システムは個人の身長や体型、目鼻立ちなどをデータ化して付近の監視カメラの映像と比較します。街中の監視カメラ上には1時間の映像に数百、数千人が映っており人の目だけで個人を特定することは困難ですが、コンピュータは数秒で一致する人物を特定します。最新のシステムはマスクやサングラスで変装しても個人を特定出来ます。

Suicaなどのカードは電子マネーをやり取りしているだけではなく、個人情報も記録しています。駅改札のコンピュータを照合すれば、カードの持ち主の名前と住所、いつ何処で電車に乗り降りしたのかが瞬時に分かります。

主要道路や高速道路に設置されているNシステムも車のナンバーだけでなく、搭乗者の顔認証が出来るまで精度が上がっています。街中など人目につく場所で犯罪を起こせば最期、私達に逃れる術はありません。

 

ネットストーカーの恐怖

警察のデジタル捜査力の向上は監視社会に繋がるとして、捜査手法の適法性が疑問視されていますが一般人には安全な社会になります。しかしこの様な個人情報は一般人が悪用することも出来てしまいます。

例えばGoogleで自分の名前を検索すると、フェイスブックミクシィ、インスタグラムの過去の投稿が検索出来ます。いつ、何処で、誰と何をしていたのか、誰でも検索出来る状態なのです。これが恋愛のトラブルなどに大きな問題となります。恋人や配偶者の過去の履歴を閲覧出来る状態ですから、過去に誰と付き合っていたのか、どういう相手だったのかが分かってしまいます。逆に過去に別れた相手の現在も簡単に分かってしまいます。

多くの人は嫌な相手をブロック設定してSNSから締め出しすことで安心します。ですが、SNSグループ内の友人たちはその相手と繋がりを保ったままなのです。間接的に情報を得ることは可能であり、その場合は自分の知らない内に個人情報が漏れていることになります。

自分にとって絶交したい人間が、友人にとっては繋がりたい人間であり、さらに自分も友人とは繋がっていたいという状態。現実空間では三者が同じ場所にいることはないので、情報は殆ど流れないですが、SNSはインターネットの仮想空間であり三者は同じ場所にいるのです。

別れた相手の現状などを検索するのは、普通は単なる出来心で終わりますが、相手に対する執着がある場合SNSを通じて情報を集めるストーキングに発展し易いのです。具体的な被害が何処まで出るかは相手次第ですが、個人情報を勝手に集められているのは身近にある恐怖です。

匿名のブログ管理人の本名と住所が拡散するケースもあり、一度インターネットに流れた情報は簡単に複製できるため、拡散元の情報を削除できたとしてもコピー情報はサイバー空間に残り続けます。もしも自分の現状を知られたくない人物が思い当たれば、SNSに安易に投稿するのは危険です。サイトを閲覧するのは、自分の友達だけではないのです。

SNSの繋がりは自分がコントロール出来る範囲を超えた情報の網であり、私達は網の中を泳いでいるのです。

化粧と女心

男性にとって理解が難しい女性の心。その一つにメイクがあります。何故女性は化粧をするのか、女性は化粧をどのように感じているのか、

男性の思考と比較して考察します。

 

化粧とは誰のためか

化粧水、化粧下地、保湿液、乳液、BBクリームパウダー、ファンデーション、マスカラ、眉墨アイプチ、日焼け止め、カラーコンタクトなど社会人の女性はほぼ毎日化粧してから外出し、帰宅するとメイクを落とすことが習慣になっています。

ベースメイクから始める化粧は本格的にすると1時間以上かかりますが、これだけ大変な作業を毎日している女性は顔の美人度に関係なくいます。「美しい自分に見られること」は女性にとって自分の尊厳に関わることだからです。

 

他人の顔

自分の顔は鏡を見なければ分かりません。顔の作りが一人一人異なるのは、他人がその人を見分けるためです。自分の顔は身体的には自分に属していますが、社会的には他人に属しているのです。

美容整形に否定的な意見が多い理由は、顔の作りを変えることでその人が誰なのか分からなくなるからです。免許証やパスポートなどの公的書類で本人確認が難しくなるだけでなく、親や友人など長年その自分と関わってきた人の視点では、赤の他人に接するような感覚になってしまうのです。

女性が会社で働く場面など、異性の視線を意識しない場面でも化粧をするのは身嗜みの問題です。対人場面の多い接客業などでは見た目を良くしなければ、相手に悪い印象を与えてしまい、会話で挽回することは難しい。テレビのアナウンサーなどは、全国の視聴者に顔を映す仕事であり、化粧自体が仕事の一部となっています。反対に自宅を仕事場にしている女性は、他人と関わる時間が少ないので、毎日化粧をする習慣があまりありません。

 

自分の化粧

女性が化粧をする理由は、好きな男性の前では綺麗にいたい、社会人の身嗜み以外にも、自分がなりたい自分でいることが楽しいという側面があります。以前「やまんばギャル」というメイクが流行したこともありますが、芸術志向の女性が奇抜な髪型や髪色にしたり、ゴシックロリータ調の衣装を着る。アニメのコスプレを楽しむなど、異性からも社会からも受け入れられなくても自分がカワイイと思う格好をしたいという願望が化粧に現れるのです。一般女性にとっての自分の化粧はネイルに現れます。

 

ネイルアートの世界

美人であるかに関わらず、自分の顔にコンプレックスを抱えている女性は多くいます。どれだけ化粧しても自分が思うカワイイにはならない

という感情が残る。

また自分の顔は鏡がなければ見えませんが、指先は常に見えていますし、造作の違いがありません。そのため爪を美しく整え、可愛くデコレーションするネイルアートは、成りたかった自分の姿になれる化粧であり、女性の人気が高いのです。ですが男性にはこの思考が全く理解出来ません。女性の顔が綺麗だと思うことはあっても、爪が綺麗だと思うことはないのです。

 

女磨きをしたい、女子力を上げたいと思う女性は多くいます。しかし化粧とは誰に見られるかによって、意味合いも必要な化粧も変わって来ます。好きな男性のため、お客様のため、自分自身のため、誰を喜ばせるための化粧であるかを考えることで、もっと綺麗な自分でいられる

でしょう。

 

あなたは「誰」を愛しますか?

「恋したい」「愛されたい」、いつの時代も

人は恋愛に憧れ、恋に悩んでいます。何故人は恋に溺れ恋に悩むのか、今回は小説「痴人の愛」を読み解きます。 

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

 

 谷崎潤一郎:

日本を代表する文豪であり女性の美を伝統的な

日本語文体で書いた。代表作に「刺青」「細雪」「卍」など多数。欧米でも高く評価され

ノーベル文学賞の候補に上がっている。

 

あらすじ:

大正時代、中堅サラリーマンの譲治は銀座のカフェーで働く美貌の少女ナオミに一目惚れした。譲治はナオミを妻として娶り、自分の理想的な女性に育てるために惜しみなく金をかけた。ナオミは譲治の稼ぎで生活しているため、彼の愛に応えるべく献身的に振る舞った。

やがて大人の女性に成熟したナオミは、誰の目から見ても美しく愛される存在になっていた。譲治にとってナオミは自分が磨き上げた最高の女であり、唯一の心の拠り所だった。しかしナオミは自らの美貌を武器に若い男たちと関係を持つようになる。ナオミに裏切られた譲治は激怒して彼女を追い出すが、ナオミを失った彼は心を保てなくなっていた。

譲治はナオミに、他の男と付き合っても良いから自分のそばにいてくれるよう懇願し、ナオミは譲治に自分を愛しているなら全てを差し出すように要求する。そして二人の主従関係は完全に逆転した。ナオミは美貌を武器に譲治を飼い慣らし、譲治は愛欲の奴隷となった自分を屈辱に感じながらも愛に支配される歓びを見出す。

 

譲治の愛

譲治はナオミの美しさに惹かれ、自分で独占したいという思いからナオミを自分の理想に育てます。譲治はナオミの見た目を愛しており、自分が愛情を注げばナオミも自分を愛してくれると考えています。しかしナオミが自分を裏切った時も譲治はナオミと離れられませんでした。何故ならナオミは譲治にとっての理想の女性だから。譲治は根源的にはナオミその人ではなく「自分の理想とする女性」を愛しています。

 

ナオミの愛

ナオミは譲治から何でも与えられています。最初のうちは譲治への感謝がありましたが、与えられることが当然という状況に、ナオミは「自分は美しいから男に愛されて当然なのだ」と考えます。ナオミは男から愛されることで自分が満たされるのです。

大人になったナオミから見た譲治は冴えない中年男であり、見た目を好きになれません。自分を満たすためには若いイケメン男性から愛される必要がある。ナオミは根源的には「美しく男に愛される自分」しか愛していません。

 

脳内恋愛の世界

少女アイドルと彼女を応援するオタク男性との関係は、他人から見ると気持ち悪い印象を受けがちです。その理由は、一方的な愛情が捻れた形で成立しているからです。

オタク男性は舞台で踊る少女に恋しているのですが、彼女たちは仕事としてアイドルしています。愛想を撒いているのはファンのためというよりもファンに愛される自分でいるためです。握手会に感動するオタク男性と、内心では「キモい人だけど自分が愛されるためだ」と思っているアイドルの疑似恋愛関係が、一般人の恋愛感覚とはズレているのです。

両者がこれを疑似恋愛であると最初から分かっていれば、アイドルとファンの関係は健全でいられます。ですが握手会でアイドルがファンに刺される事件が多発しているように、両者の想いはすれ違っています。

 

実像と妄想恋愛

譲治とナオミの関係は相手の実像を見ていないという点で、アイドルとオタクの関係に似ています。しかしこれほど極端でないにせよ、私たちは誰かを好きになる時、相手の実像が見えていません。

片思いなどが好例ですが、相手が自分をどう思っているかも分からない段階で、相手の人物像をいい方向に解釈し、頭の中で付き合った状況をイメージしている。相手の実像とは無関係に妄想しているのです。

恋の妄想が無意味なのではありません。人間は1時間後、明日後、5年後などの未来を想像して生きていますが、未来は「未だ来ていない時間」ですからあくまで想像です。その想像力こそが私たちの生きる原動力ですから、恋が上手くいく未来を想像しなければ、私たちは何一つ行動出来ません。問題なのは実像と向き合わないことです。

 

付き合うと向き合う

私たちは皆、イビキをかくしオナラもする普通の人間です。エッチな妄想に浸り、逆に純粋な気持になる。尊敬する気持ちと嫉妬が交錯している。相反する様々な性格と感情要素が一人の人間に入っています。

誰かと付き合うとは、相手の良い部分と嫌な部分に向き合うということです。付き合い続けるとはお互いの実像を理解するための真剣な試みなのです。

 

自分の愛に溺れる

恋愛を始めるにあたって男女とも容姿が良いことは間違いなく有利です。美人であることは相手も気分が良いですから。問題なのは両者の愛が何処を向いているかです。

「理想のタイプ」を愛しているのか、「愛される自分」を愛しているのか。一方がその状態である場合は付き合ってもすぐに別れますが、両方がその状態では相手の実像に向き合わないまま関係は進展するのです。

相手を愛しているようで、実は自分の妄想を愛している。「痴人の愛」は倒錯した愛欲に溺れているようで、実は誰にも起こりうる愛の問題を突きつけているのです。

 

 

 

 

 

 

 

日本のエネルギー資源

日本はエネルギー資源として石油や天然ガスを全て外国からの輸入に頼っています。原子力発電所は再稼働の見込みが立たないため、国内電力の8割以上を火力発電に依存しています。

近年はマレーシアやインドネシアから天然ガスの輸入量が増えていますが、燃料資源の輸入のために年間数兆円の貿易赤字が出ており、電気料金も値上げされています。経済界からは原子力発電所の再稼働を求める声も高まる中、世論の反発も強い。今回は日本のエネルギー政策の現状と今後の方針を考察します。

 

原子力発電

原子力発電はウラン235を低レベルの核分裂状態におき、発生した熱で水を沸騰させて蒸気タービン発電機を回す構造です。構造だけ見ると理科の実験並みに単純なのですが、核分裂したウラン235は「消えないマッチ」なのです。

石油や天然ガスなど、酸素と化学反応で熱エネルギーを出す物質は一度燃えるとそれ以上熱エネルギーを出しません。しかし核分裂反応は一度始まると一ヶ月以上燃料を交換しなくても熱エネルギーを放出します。化学反応より遥かに高エネルギーですが、ウラン核分裂反応を止める方法がありません。

使用済み核燃料は原子炉から取り出した後も高熱と放射能を数百年放出するため、核燃料の処理はどの国も悩みのタネです。放射能半減期が来るまで保管するしかないのですが、核燃料が外部に流出するとテロリストに渡る危険があるため、保管施設は厳重な警備が必要です。

日本国内には原子炉稼働時からの使用済み核燃料が処理されることなく溜まっています。国は地層処分の候補地を探していますが、地震リスクのない土地はどこにもなく、人の住まない場所も何処にもありません。使用済み核燃料を受け入れる自治体がない現状では、原子力発電の本格的な再稼働は見通しが立たないのです。

 

水力発電

ダム湖にためた水を、高低差を利用して滝のように落とし、水の落下エネルギーで水車を回す発電方式です。電力消費量の1割を占めています。燃料が不必要なので半永久的に発電できること、二酸化炭素の排出がないことがメリットです。デメリットは、初期投資として巨大なダムを建設する必要があり、自然環境への負荷も大きいです。夏場などで降水量が減るとダムの貯水量も減るため発電量が安定しません。

日本国内はほぼ全ての河川にダムを建設しており、これ以上水力発電所を増やせない状況です。近年は農業用水路や下水路に小型発電機を設置する小規模水力発電がありますが、発電機が小型のため発電量も少なく、普及してはいません。

 

火力発電

化石燃料を燃やした熱で水を沸騰させ、蒸気タービンを回す発電方式です。やかんで湯を沸かすような単純な原理であることから、火力の調整によって発電量をコントロールしやすく、電力供給が最も安定しています。初期の火力発電には石炭が使用され、現在は天然ガスを燃料とすることが多いです。

火力発電は大量の二酸化炭素を排出するため、温室効果ガス削減に取り組むための京都議定書は発行出来ていません。また、エネルギー資源のない日本では化石燃料を他国からの輸入に頼る他になく、過去には中東戦争イラン革命OPECによる原油価格の決定により石油危機に見舞われています。

東南アジア諸国から天然ガスの輸入量を増やしているのは地政学的なリスクを避けるためでもあるのですが、エネルギー資源を他国に依存する状況は貿易赤字を拡大するため、国産エネルギーの比率を上昇させるかが課題となります。

 

太陽光発電

アルバート・アインシュタインは、光は粒子であり電子の運動エネルギーに変換出来る「光電効果」の発見により、1905年にノーベル物理学賞を受賞しました。光の粒子を二層の半導体に当てると、表層内の電子は裏層に移動して電荷が発生します。この原理を使用したのが太陽光発電であり、シリコンパネルを設置すれば燃料不要で半永久的に発電出来ます。

福島第二原発放射能漏れ事故により電力事業全体が改革される中で、安全性が高く家庭にも設置出来る太陽光発電システムを国も推進しています。

太陽光発電のメリットは、燃料不要で二酸化炭素を排出しない。建物の屋根や休耕地など場所を選ばずに設置出来る。電気を発電する場所と消費する場所が近いため送電コストが低い。発電施設が広範囲に点在するため災害時にも電力を確保出来るなどがあります。

デメリットとしては、シリコンパネルの製造コストが高く発電コストの採算が取れない。日照量に発電が左右されるので電気を安定供給出来ない課題があります。天気が曇りがちで冬場に雪が降る日本海側では向いていません。国は太陽光発電の電力を高く買い取ることで太陽パネルの普及を進めています。また電力を安定供給するために電気を貯める水素電池の研究が続いています。

 

風力発電

風車の回転エネルギーで発電します。風が吹けば半永久的に発電出来ます。風車の製造コストと発電コストは太陽光発電の数分の一であり、海から風を受ける場所に設置が進んでいます。

デメリットとして風が吹かないと発電出来ないため電力の安定供給が難しい。風車の回転で発生する低周波が人体に悪影響となる。人によっては耳鳴りと目眩が起こります。希少な鳥たちが風車の回転翼にぶつかる事故もあります。

近年、低周波の発生を抑えて数倍の発電効率を持つ「風レンズ」という新式の風車が登場しています。常に風が吹いている海上に風車を浮かべる研究も行われています。

 

潮力発電

潮の満ち引きを利用して、干潟にダム型の水力発電設備を設置する方式です。本来のダムは貯水と洪水防止のために造られるもので、水力発電は付属設備です。そのため潮力発電のためだけに大規模施設を作ることが難しく、現在はフランスに一ヶ所だけ稼働しています。津波の危険もある日本には不向きな発電です。現在は実験段階ですが、洋上の海流エネルギーで発電タービンを回す装置が開発されています。

 

燃料電池発電

貴金属の触媒を通じて水素やメタンガスを酸素に反応させてると、電子の負荷と熱エネルギーが発生します。電気と同時に熱エネルギーにより熱水を作る装置が燃料電池です。火力発電では燃料を燃やして電気エネルギーを取り出しても熱エネルギーは捨てるしかありません。燃料の全エネルギーの中で、家庭に電気として供給されるのは10%程度といわれており、熱エネルギーの有効利用が課題でした。燃料電池はその課題を解決するために造られた装置であり、ENEOS社は家庭用燃料電池を発売しています。

 

バイオマス発電

間伐材などの木材を細かく粉砕し、火力発電する方式です。排出した二酸化炭素は元の木が吸収していたと見なされるので、温暖化対策に有効とされていました。木材資源が豊富で既存の発電所が遠い山間部などではエネルギー供給に有効な発電方式です。作物の茎などをバイオエタノールに変換する研究も続いています。

 

地熱発電

地表近くまでマグマで熱せられ水蒸気が噴き出す場所で蒸気タービンを回す方式です。アイスランドでは一般的な発電ですが、日本国内は設置場所が限られるための発電量は僅かです。

 

核融合発電

「地上の太陽」ともいわれる次世代の原子力発電構想です。重い原子核を軽い原子核に分裂させることが核分裂発電ですが、水素などの軽い原子核を光速で衝突させて重い原子核に融合させ、その際のエネルギーを取り出す発電方式です。実現すればエネルギー資源の枯渇はなくなり、どの国も無尽蔵にエネルギーを使えるとされます。

しかし核融合反応は高エネルギー状態でしか起こらないため、核爆発を内部に閉じ込めることができる特殊な融合炉が必要です。日本も参加した国際共同研究をフランスの実験炉で行なっていますが核融合の安定化はできていません。

 

スマートグリッドシステム

これまでは発電方式について述べてきました。電力全体の発電量から見ると自然エネルギー発電は数%です。殆どを火力発電に依存している状況で、自然エネルギー発電への転換は荒唐無稽だという意見は多いです。

しかしここで考えたいのは、そもそも何故これだけの電力が消費されているかということです。人々が活動する日中の電気消費量は増え、夜になると減りますが、発電所はエネルギー効率のために夜間も昼間と同量に発電しています。また、エネルギー量を考える場合、発電以外にも送電コストや燃料の輸送コストを含める必要があります。そして日本国内は生産人口の減少によって消費電力全体が減るのです。

東日本大震災の際には電力供給が追いつかず、各地で計画停電を実施しました。発展途上国には多くの日本企業が工場を作っていますが、それらの地域は1日に何度も停電します。日本では停電が起きないように発電所の供給電力は需要を上回っているのですが、もしも日中の計画停電に地域住民が同意すれば、全体の発電量は1-2割減らせます。

本来私たちが取り組むべきは節電なのです。とはいっても家庭の電気をこまめに消すという話ではありません。契約しているアンペア数そのものを落とすのです。企業も同様に、アンペア数を落とした上でオフィスの照明や冷暖房をコンピュータ上で管理することで生活に支障をきたさなくても節電出来ます。このように電気が必要な場所と不必要な場所をリアルタイムで確認し、コンピュータで必要箇所にのみ電力を供給する方式がスマートグリッドシステムです。

 

「自由」とは何か

ストレスの多い現代社会は、誰もが仕事や人付き合いに振り回され「もっと自由になりたい!」と思います。しかし「自由」とはそもそも何か?今回は自由の意味を考察します。

 

忙しい社会

現代人の毎日は忙しく、社会人であれば仕事、

家庭に入れば家事育児、子どもであれば学習塾や習い事に追われています。成長とは一定の時間内により多くの成果を出すという定義が社会に浸透しているため、向上心の高い人ほど空いた時間に予定を詰めます。

しかし「忙」という漢字は「心を亡くす」と書くように、忙し過ぎる状態では自分が本当に何をやりたいかも良く分かりません。自分が望む状態と今の行動に食い違いが大きければストレスは蓄積し、限界を越えればストレス障害として発症します。

特定の企業に所属せず、パソコン1台でいつでもどこでも働けるノマドワークが注目されたのは、社会人の自由願望の現れです。ストレスの蓄積を避けるために精神的な余裕を持つことは必要ですが、それは自由の実現によって得られるものなのでしょうか?

 

自由の刑

フランスの哲学者:ジャンポール・サルトル実存主義(「世界」と「私」が存在する意味を追求する哲学派)の代表者です。サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と提唱しました。自由の刑とは、自分が生きる意味は自分が行動して見出す必要があり、行動して人類全体に影響を与えた責任が問われるということです。キリスト教の教えが浸透していた時代には、自分が生きる意味は神のためでした。どう生きれば良いかは聖書の教えに従えば良かったのです。

しかしその教えを説くキリスト教会は、組織が拡大する中で国家権力との繋がりを深めていました。キリスト教会は信者から教団本部に布施を集める強力な集金システムがあります。豪華絢爛な寺院が作られる傍で庶民が餓死している状況は、人々に神を信じても救われないと理解させるに足りました。

中世以降のヨーロッパ各国では政治と宗教の分離、科学と宗教の分離が起こり、キリスト教の教理にとらわれない「自由」な構想によって、政治経済・科学・社会制度が整えられます。人々は神の教えを実践するよりも自由を得ることが幸福に近いと考えるようになり宗教離れは加速しました。しかし、人々が神を放棄しすれば、神は「自分が生きる意味」を与えてくれないのです。

 

「異邦人」の自由

サルトルの盟友であるアルベール・カミュは、代表作「異邦人」の中で、自分が行動する理由を自分自身にのみ決定する人間を描いています。主人公の行動は倫理観が全くなく、読者から見ても理解不能ですが、それは自分の人生の解釈は自分だけの自由であるとする主人公の生き方です。主人公は神の赦しを否定して死刑に臨むのですが、それが誰に危害を与えても、誰からも理解されなくても自分の自由を守るのだという「自由」を突き詰めた姿なのです。

 

自由と社会規範

人間は一人一人が自由に生きる権利がありますが、自分が他者に与えた影響に対して責任が伴うので、法の下の自由は「公共の福祉」に反しない限り認められています。

表現の自由があっても故意に他者を傷付ける発言は許されないですし、恋愛の自由があっても不倫は社会的に許されません。どれだけ暑くても公然で裸にはなれないですし、お店で写真を撮りたくても被写体の管理者の許可が必要です。公共の福祉と個人の自由とのバランスを取るために法律や倫理などの社会規範はあります。そうした社会規範の上に、会社や地域など自分が所属する集団独自の規範が乗せられます。規範を守らなければ集団から追放されますので、私たちの自由は他者が作ったルールによって大きく制限されています。

 

自分の自由の目的

それでは社会集団に所属せずに生きることは自由なのでしょうか。普段は忙しい社会人が、休日を寝るだけでいることは多いです。疲労回復が目的で積極的に寝ることは充実した時間の使い方です。しかし大半の人は休日にやる事がないから、寝るかインターネットで時間を潰して後悔するのではないでしょうか。

例えば不登校ニート状態の人は毎日が完全に自分の自由時間です。ですが目的のない自由はやる事がないため時間は全て暇になります。すると彼らのやる事は生きる時間全てを暇つぶしにあてるということ。仕事や勉強をしていればその間は思考力を仕事や勉強に使います。しかし目的のない自由はゴール地点がどこにあるか分からないため、思考は空回りします。そこに「自分が生きる意味」が問題になるのです。

目的もなく他者との繋がりもなく時間を潰しているだけという状態は、人間から自信を奪います。自由を手にしているはずなのに、その自由を使う目的がないという逆説に苦しむのです。

 

自己管理は難しい

フリーランスの仕事を選ぶ理由として、自分の時間を他人に管理されることが嫌だという動機がありますが、自分の時間を自己管理することは意外に難しい作業です。

夏休みの宿題を終わらせる作業で例えると、毎日一定時間で課題をコツコツ進める人は少なかったはず。大半の人は中盤まで課題に手を付けずギリギリになって焦るタイプです。時間に余裕があると思えば、問題を先送りするのです。大人に成長してもこの傾向は変わりません。

例えば喫煙者が禁煙を考えるときは「今度こそ禁煙しよう、でもそれは今日じゃない。」と考えます。人間にはタバコを止める自由が選択肢としてあるのに、自分の意思だけで禁煙することは難しい。

時間の使い方も同じ問題を持っており、自分の意思で時間を管理することには休日でも決まった日課をこなすだけの自己管理能力が必要です。一般の人はそれが出来ないからこそ、気分が乗らなくても学校に行き、会社に行くのです。時間を他者に管理されていた方が一般人は有能に動けます。

 

自らに由る

仏教の世界観は、秩序立って見える世界は不変ではなく、認識を変えれば精神は自分を苦しめる思考から自由になるというものです。「由」とは心の拠り所を意味しており、「自由」とは「自分の認識を精神の拠り所にする」ことです。これは「自分が生きる意味」は神や他者にあるにではなく、「目標とする自分」にあることを意味しており、目標達成のためには他律ではない自律の考え、即ち自分ルールを守ることが必要です。

 

自分のルールを守る

要するに自由とは自分が好き勝手に生きることではないのです。好き勝手に生きた時間を無駄にしたと後悔するのは、他ならぬ自分なのですから。人には職業選択の自由言論の自由もあります。しかしその自由が「在るべき自分」を意味しているなら、無責任な仕事や言動は周囲に混乱を招くだけで「在るべき自分」から遠ざかっています。人は何よりも自由を得るために自らを律する必要があるのです。

自由とは何か?それは在るべき自分を生きるために、他人が決めたルールを退け、自分が決めたルールを厳守することなのです。

 

異邦人 (新潮文庫)

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