バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

お金の誕生

給料が足りない、月末はお財布がピンチ、お金持ちが羨ましい、と私たち現代人の悩みとはお金の問題とは切り離せず、誰もがもっとお金があれば幸せになれるのにと考えています。

世の中は金じゃない、とは言え実際には金がものを言う。お金がない故に惨めさと不幸を嘆く人もいれば、使いきれない資産を得ても幸せを感じない人もいる。

私たちの社会生活に欠かせないお金が,何故幸福と不幸を呼び込むのか?そこには人間は何故お金を使い始めたのかという根源を探る必要があります。

 

通貨の誕生:古代編

人間がお金を使い始めたのは、紀元前4000年前のメソポタミア文明だといわれています。中東イラクの首都バグダッド近郊は、遥か古代よりチグリス川が広大な湿地帯をつくり、灌漑技術がない時代でも麦の栽培が出来る土地でした。この大地で人類最古の農耕が始まり、それまで狩猟民や遊牧民として放浪生活をしてきた人間は一つの土地に留まっても食料を得られるようになります。

 

一般に野菜や肉などの食品は生体から切り離すとすぐに腐敗して,栄養を貯蔵できないという問題点があります。またエネルギー源である炭水化物が少ないため腹を満たしてもすぐに空腹となります。そのため遊牧民たちは羊などの家畜を生きたエネルギー貯蔵庫としたのです。

一方で麦を始めとした穀物は炭水化物であり収穫した後に保存が効きます。そのため生命活動に必要なエネルギーを貯蔵できるという特性があります。収穫した麦が多ければ、それだけ長期間食べる心配をしなくても良い。一生を飢餓との戦いに費やし,一日中食料確保を考えてきた人類が「余裕」を手にしたのです。人間の脳は炭水化物を分解したブドウ糖を唯一のエネルギーとしており,糖分と穀物なくては思考力が上がりません。思考の大半を今日の食料確保に費やしてきた人間は、思考と生体活動に費やすエネルギーを安定確保したことで、余裕が出来た思考は様々な欲求に向かいます。

 

衣食住という言葉があるように、着るもの,食べ物,住環境の快適性は人間の欲求の基本です。麦と同じく栽培していた麻からは、麻糸の繊維がとれ,布を織ることが出来ます。それまで毛皮を着ていた人間が、通気性の良い衣類を手に入れることが可能になりましたが、麻布の製造は住民全員が行なっていたわけではありません。麦栽培に必要な土地を得られない人々が麻を栽培し,麻布を織る専門技術をつけたのです。布職人は麦を栽培しないので食料確保のためには、麻布を麦を所有している人と交換する必要がある。住居に必要な木材や日干しレンガも同様に専門職人がおり,麦と交換していました。こうして麦が物々交換の主流となり、通貨と同じ機能を持ったのです。麦が通貨となり得た理由は、誰でも貯蔵と持ち運びでき,誰もがエネルギーとして必要としていたからです。お金とは社会集団全員が価値があると認めなければ,交換が出来ません。需要と価値が明確であることがお金の誕生に関わっています。

 

貨幣の誕生

農耕を始めた人類は、土を耕し麦を収穫するために、石や木材で出来た農具を使っていました。しかしこれらの道具は硬い土を耕せば簡単に壊れてしまうため、金属で出来た農具を欲しがります。純度の高い銅鉱石は竃の火力で加工できるため、高い価値が生まれました。そして銅は農具だけでなく、食器にも加工出来ます。それまで土器や石皿で食事していた人々も,銅を欲しがります。金属は農具を作れますが、同時に剣や槍などの武器を作れます。軽くて頑丈な青銅武器は、圧倒的な武力をもたらします。穀物の貯蔵は富をもたらしますが、それを持たない民族が強奪する危険も出てきます。もしも戦闘民が青銅の武器を持っていたら、石器しか持たない民族は滅ぼさます。初期メソポタミア文明を築いたシュメール人は街に城壁を築き、各地から交易によって銅を集めました。

穀物は富の蓄積を可能にしましたが、食料である以上翌年まで保存できません。食べきれないだけの麦を富として得ても、翌年には土に還ってしまい富を失うのです。また、収穫期には多量の穀物が市場に出回るのに、穀物が取れない時期には市場への供給がないため価値が高騰します。年間を通して価値の変動が激しく、一杯の麦にどれだけの価値があるのか、共通認識がなかったのです。

銅を始めとする金属は古代遺跡から当時の状態で発見されているように、経年劣化を起こさない特性があります。そのため麦に変わる通貨として使われてはじめ商取引が活発化しました。シュメール人の石板には銅塊を取引した記録が多数発見されています。10円玉は銅,100円玉は銅とニッケルで出来ているように、現代でも銅は通貨として使用されますが,生活水準がさらに向上し,人間の欲求が自分を飾り立てることに向かうと,装飾品としての金の需要が生まれました。銅や鉄と異なり、金は採掘技術が進歩した現代においても希少な金属です。人類の歴史上,全世界に保有する金を集めても25mプール2杯分しかないといわれるほど採掘量が少なく、採掘に多大なコストがかかります。

一方で装飾品としての金は数千年前の輝きを今に伝えるほど劣化しません。最も安定した物理特性を持つため、銅や鉄のように錆びないのです。富と権力を持った支配階級の欲求は不老不死に向かいます。不滅の金属である金は永遠の象徴であり、古代エジプトをはじめ多くの墓に埋葬されるようになります。

一方で金は,食糧や物資を豊かに所有する権力者にとっては需要が高くても、一般庶民には使い道がありません。けれど僅かでも所有していれば、多くの物資と交換できる引換券でもある。毎年の採掘に限界があり,年間を通して一定量しか出回らない金や銀は価値の変動が少ないため、一粒の金にいくら価値があるのか、都市住民に共通理解が得られます。初期の商取引には、金粒や銀粒の量を計って取引を行い、やがて重量を刻印された金が流通します。各民放の言語によって物の数え方は異なり、重さの単位も違うため、都市国家が共通の尺度と君主の刻印がなされたコインを発行しました。ここに貨幣が誕生したのです。

 

 

 

 

 

お詫び:日本大学の学生・OBの皆さまへ

5月6日、日本大学アメフト部と関西学院大学アメフト部の試合における危険タックル問題について、母校の不祥事に大きな憤りを感じられておられる在学生、卒業生の皆さま。これは事故ではなく事件であり、起こるべく起こったことです。関西学院大学の関係者を含め、

誠に申し訳ございません。

私並びに、バカ田大学日本大学と何ら関わりを持ちません。ですが、当ブログにて教育とは何かを論じている立場上、向学心を持った若者たちの未来を守る責任があります。今回の事件を振り返り、組織の危機管理とパワーハラスメントの構造を論じます。

 

危機管理の初動

冒頭にて謝罪しておりますが、そもそも私はアメリカンフットボールの競技経験どころか、日本大学を訪れたことすらありません。さらにバカ田大学は大学法人ですらない。完全な部外者である私が謝罪している理由は、それが不祥事の危機管理だからです。

企業や大学、アイドルグループなど、組織とは多数の人間が所属しています。そして人間だからこそ過ちを起こす。この場合の過ちとは、単なるミスや説明不足の場合(飲食店の原材料や賞味期限が間違っていた)と、間違いや法令違反を認識しながら業務していた場合、後者は悪質な隠蔽と捉えられてしまいます。

組織の運営を一人で行っていた場合、「これはマズイ」と気付いた段階で立ち止まることができます。しかし組織とは多数の人間が所属する以上に、メンバーの上下関係が存在しており、下の人間は上の立場に逆らえません。そして違法行為を実行しているのは、大概下の立場の人間であることが問題を複雑にしています。

 

結局誰悪いのか?

この度の事件は、チーム監督が一選手にルール違反を指示していたことが問題視されています。アメリカンフットボールのルールでは、相手選手へのタックルは、守備を目的としたものに限定されます。

高い身体能力と体重100kgの巨体に本気の体当たりをくらえば、一般人であれば複雑骨折と内臓破裂をおこします。選手同士の衝突にも怪我がつきものであり、選手たちは捻挫や骨折,肉離れなどの負傷リスクを背負ってプレーをしています。当然選手を監督する立場の大学アメフト協会は、安全にプレーを行うための様々な禁止事項や規定をつくり、各チームに遵守するように指導しています。ルールは選手を守るために存在しており,不要な決まりごとではありません。逆にルール違反によって怪我を負わせるとは、スポーツの範疇から一般社会の傷害事件になってしまいます。

今回の事件で決定的だったのは、悪質プレーの映像がしっかり残っており,何が起こったのか明確であることです。関係者の証言が映像と矛盾すれば嘘をついていることになり、言い逃れ出来ません。映像はテレビで放映されるほかにもyoutubeSNSを通じて拡散しており,本来なら当事者たちの問題であったはずの小さな事件を日本中の誰もが知ることになります。

 

日本大学の戦略

日本大学は首都圏に多数の校舎と学部を持ち,在校生は7万人以上,卒業生は100万人を超えます。国民の100人に1人は日大出身であり、多くの卒業生が自治体や企業で活躍している日本一のマンモス大学です。国内のどの地域,組織にも卒業生がおり,日大と聞けば誰でも知っている知名度が持ち味でした。入学試験の偏差値は中程度であり、学業優秀ではないけれど落ちこぼれでもない「普通の学生」に需要があります。

かつての大学は研究者や文官を養成する高等教育機関でしたが、国民の生活水準と教育需要が上がり,特に学問が好きでもない普通の高校生たちも親は「せめて大学に行かせたい」という需要が生まれました。大学に行きたい人が増えても大学側に教える教員がいなければ学生の受け入れは出来ません。教員の育成には多大な時間とコストが掛かり、入学の門戸を広げれば学生の質が低下するため,歴史ある大学も小規模であることが多いです。

日本大学はそうした中でも理系文系の学部を増設して日本一の規模となった大学です。少子化大学全入時代になって,全国の大学は入学生を取り合っています。ここで重要なのは研究の質を上げるために優秀な学生を取り合っているわけではありません。学問への熱意はないけど社会で活躍したい普通の学生を「学費を払ってくれるお客さん」として扱っているのです。日大に限らず、どの大学でも学生を受け入れるのは、学費を払ってくれるという経営上の理由なのです。だからこそ貧困家庭の子どもに教育機会を与えるという名目で、数百万円の奨学金や教育ローンを無担保で借してくれるのです。

1960年代,大学闘争が激化していた時代には、日大は最も激しい闘争が行われた大学でした。当時の一般家庭はまだ貧しく、学費を滞納する学生が多かったのに対して、日大の経営陣は学費の使い道が不透明であることが問題となりました。「大学とは学問の場でなく経営である」ことが日本大学の戦略です。大学経営を持続するためには学生,企業,高校,保護者などの利害関係者に対して「この大学に入りたい、子どもを入れたい」と思わせるような宣伝と大学ブランドが必要になります。日大は医学部と獣医学部を持っており,理工学部も質の高い研究を行っていますが、理系の学部は進路が明確な学生が入学するため,日大の主要顧客である「自分が何になりたいか分からないからとりあえず大学に行く」モラトリアム学生を文系学部に取り込むためには,学業以外での目立った実績が必要になります。学生ボランティアや地域活動を盛んにしても、実績という概念での評価は難しい。それに対して勝ち負けが明確であるスポーツは大学間の差異が一目で分かります。さらにテレビ放送されることで、大学の宣伝を全国に行える。

地方大学と異なり首都圏の総合大学は日本各地から学生が上京するので、全国的な知名度はとても重要です。学問研究の分野で実績をあげられないならスポーツ分野を強化する。日大の経営陣である理事会は体育会方針を採用し,スポーツ科学部を新設しました。現在は多数のオリンピック選手が在籍しており,アメフト部の選手たちも所属しています。日大経営陣は勝利至上主義の体育会組織である。今回批判の矛先となっているアメフト部の監督は、理事会の常務理事であり理事長のNo2という立場でした。大学経営の中枢におり,アメフト部のコーチたちだけでなく、大学職員の誰もが意見を言えない状況だった。これが事件の下地になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

火垂るの眠り

 

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日本を代表するアニメ監督、高畑勲氏への追悼として、不朽の名作「火垂るの墓」を解説します。映画公開から30年以上を経て、海外からの評価が極めて高く、国際映画祭での常連作品となっています。「余りにも悲しくて二度と見られない」と評される映画を高畑監督が制作した理由、それは商業主義や反戦主義とは一線を課した、死者の鎮魂のためなのです。

 

あらすじ

1945年9月、終戦直後の兵庫県三ノ宮駅にて、浮浪児の遺体が発見された。サクマドロップスの缶に妹:節子の遺骨を抱えた少年:清太の死から、幽霊となった二人は過去を巡る。

太平洋戦争が激化する時代に育った清太と節子であるが、海軍少尉の父親の存在により物資の配給を優遇され苦労のない生活をしていた。しかし1944年9月の神戸大空襲により、兄弟は自宅と母親を失う。数時間前まで元気だった母親が、焼夷弾で全身を焼かれ変わり果てた姿を見た清太は、妹に母親の死を隠し通そうとした。

親戚の叔母宅に居候することになった兄弟だが、日を追う毎に配給が少なくなる中で、叔母は仕事をしない清太と、母恋しさに泣き止まない節子を疎ましく扱うようになる。

清太は自分たちの暮らしを守るため、防空壕の中で妹と暮らし始める。清太は水遊びや蛍とりをして節子を楽しませるが、蛍の死骸を埋葬していた節子は、母親が既に死んだことを理解していた。無邪気な少女だった節子に、笑顔は二度と戻らなかった。

叔母の家を出た兄弟に配給はなく、食料事情は益々悪化する中で、いくら金を出しても食べ物は売っていない。清太は昆虫や蛙を採り、農作物を盗んででも食料確保に奔走するが、不衛生な環境と栄養失調で節子の健康状態は悪化していた。

医者を受診しても薬一つない状況で、清太は貯金を全額叩いて食料を買うが、その時すでに戦争は終わっていた。大日本帝国が戦争に負け、頼りの父親はとっくに戦死したことを知った清太は生きる支えを失い、唯一の家族である節子のもとに駈けもどる。衰弱していた節子は意識が混濁しており、スイカを一口含んで息を引き取る。そして清太の心は死んだ。

節子の遺体を燃やす清太を、節子と清太の幽霊が回想している。サクマドロップスを舐めながら、蛍の舞う草原で永遠の子どもとして彷徨う二人は、戦争から数十年経ち、大都会に変貌した神戸の街を見下ろしている。

 

大人になれない清太

火垂るの墓を読み解く上で、妹を守る清太の行動には問題が多くあります。清太は15歳になれば学生動員される年齢であり、叔母からは隣組の消火活動を手伝わないことで疎まれています。叔母の家を出たことで食料の配給がなくなったのですから、「清太が叔母に謝罪して、妹のために働けば、節子は死ななかった。清太は大人気ない」という意見はとても多いです。清太は何故「間違った行動」をしているのか、それは彼が「子ども」だからです。

清太は現代の中学2年生、大多数の中学生は完全に親の保護下にあり、働くことはおろか授業もろくに聞いていません。自分一人の生活基盤すら立たない子どもに、幼い妹の面倒も見ながら働けといっているようなものです。

シングルマザーの困窮が社会問題になっているように、食料や仕事が整った現代社会の大人ですら、育児と仕事を同時に行うことは困難なのです。母親を失い、信頼出来る大人が誰もいない状況で、14歳の少年が「正しい」行動をとることは現実としてあり得ません。

清太を大人びた少年として描けば、ハッピーエンドの映画になるでしょう。ですが戦争当時、清太と同じような浮浪児たちは全国に溢れていました。高畑監督が追求したリアリズムとは、主人公の清太をヒーローではなく普通の少年として描くことで「大人がいないから、子どもたちは間違い、死んでいった」と主張します。

この時代の大人とは、「御国の為に死ぬ」ことが「正しい」行動であると子どもたちに教えていました。そして終戦の日を境に、昨日までの敵国を敬うことが「正しい」と教えを変えたのです。ここには清太の行動を過去、現在、未来の時間軸で読み解く鍵があります。

 

蛍の生命

ラジオの天気予報が、今日の降水確率50%を予報していると考えます。私たちは傘を携帯しても外出はします。雨が降りそうだから会社に行かないと言う者は怠けているだけでしょう。

でも、空襲確率50%の予報が出ていたらどうでしょうか?外出したら1/2の確率で死ぬ状況ですが、これが戦時下の日常なのです。私たちは未来に繋がるからこそ、現在の苦しい状況を我慢するのです。誰もが老後の為に勤労に励むことは当然だと思って考えていますが、末期癌などで余命宣告を受けた人には老後も未来も存在しません。未来に備えて今を我慢することは無意味になるため、他人からはどれだけ馬鹿馬鹿しく無計画に見えても、自分自身のために生きるでしょう。

清太は母親の死に立ち会った時、自分と節子もいつ爆撃で死ぬか分からないことを理解しました。仮に叔母に従った場合でも、空襲は叔母の家を襲うかもしれませんし、消火活動を行う自分は死ぬ可能性が高い。そして兵隊に召集されれば確実に生きて戻れない。その場合、残された節子は保護者が誰もおらず、人買いに売られるか捨てられるだけなのです。

母親が死んだ時点で、清太はどの選択を取ってもいずれ死ぬのです。死んだら我慢も無意味になる。ならばせめて生きている間は、自分と節子が生きたいように生きよう。失われた子どもの時間を取り返そうという清太の行動なのです。物語は非情な現実と、蛍の舞う幻想風景が交互に進行しており、それが悲劇性を強調していますが、同時に生命の輝きに満ちています。まるで蛍が生命を燃やしているように、清太と節子は未来の為に現在を犠牲にするのではなく、この一瞬のために生きているのです。

 

循環する時間

この映画は、清太の死から始まり、節子と清太の幽霊が自分たちの過去を辿って死を見届ける場面で終わります。物語の終わりに死んだ節子と清太は、幽霊となって映画の冒頭に戻るという、循環する時間軸に閉じ込められているのです。この循環する時間軸こそが、映画のテーマである彷徨える魂を意味しています。何故二人は時間軸を繰り返しているのか?それは自分たちがどの時点で決断を間違えたのか、探し続けているのです。

生まれてから死ぬまで、私たちの人生とは選択の連続であり、現在の状態は選択の結果です。就職先を後悔した、結婚相手を間違えた、など人間は誰もがあの時こうしていればという決断に対する後悔を抱えています。しかし「あの時」の自分は、それが最善の選択肢だと考えており、後悔しているのは未来の結果が分かった時なのです。「現在」から「未来」は絶対に分からない。だからこそ、あれこれと未来予測を立てた上で選択するのですが、ゲームの世界で何度も同じ場面で躓くように、どの選択肢を選んでも既に詰んでいるという状況が現実には起こり得る。清太と節子にとっての状況とは「子どもだけで戦火にいる」ことです。

二人の死因が、空襲で焼かれることであれば、悪者はアメリカであり、清太が兵隊として戦死すれば、日本の軍国主義が悪者となります。しかし実際の死因は、清太の選択が裏目に出たことによる餓死でした。誰が悪者か、加害者が明確であれば結末が良い映画になりますが、この物語の登場人物は、全員が自分勝手さと選択ミスを示しており、二人の死はその結果なのです。後味の悪い結末になるはずが、死んだ二人は映画の冒頭に戻りますから、物語も最初に戻ります。映画が清太と節子が死ぬまでの過程を繰り返し上映することになります。一度見ただけでも救いようのない物語を、何故繰り返しているのか?それこそが死者の鎮魂なのです。

 

火垂るの眠り

太平洋戦争は、戦死者、民間人の死者を含めて未だに全容判明していないほど多くの人が死にました。誰もが身内を失っており、戦火を生き延びた人々は、何故自分だけが生き残ったのか分からない「サバイバー」なのです。火垂るの墓の原作者である野坂昭如氏は、幼い妹を餓死させた実体験を元に小説を書いていますが、その理由は死者の生きた証を語ることによる鎮魂です。

日本の伝統芸能である能楽の主な演目は、恨みを遺して死んだ死者が怨霊となる内容であり、数百年間同じ内容を演じています。能楽の舞は芸術というよりお祓いに近く、死者を鎮める呪術的な性格をもっています。人が生きて理不尽に死ぬまでの過程を物語るのは、未練を残して彷徨う死者の魂を鎮め、生きている人を後悔という時間の循環から解くためにあるのです。

戦後70年経ち、日本は敵国であったアメリカ側につく選択をしたことで経済大国となりました。しかし今日の世界で戦火が絶えることはなく、途上国の村では、家の庭先に地雷が埋まったまま生活しています。世界人口の半数、35億人は貧困ラインにあり、一つの選択ミスで生命を落とす状況に置かれているのです。確かに火垂るの墓は悲しい映画です。そしてもっと悲しい現実が今日も世界各地で起きている。戦争、災害、貧困、異常な事態は人間の判断を狂わせ、間違った結末に導いてしまう。清太と節子と同じ運命を辿った、彷徨う火垂るたちに安らかな眠りは訪れるのか。今を生きる私たちは繰り返し問われているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「IT:あいつ」の正体

 

 

 


アメリカを代表する世界的作家スティーブン・キング。「スタンドバイミー」「グリーンマイル」「シャイニング」など、半世紀近くベストセラーを刊行し、「ホラー小説の帝王」の異名を持つ彼の代表作から2017年に映画化された「IT」を読み解きます。

 

あらすじ

1989年、アメリカ中部の町で子供たちが行方不明になる事件が多発していた。主人公は、弟が雨の日に行方不明となり、友人たちと町の排水溝を調べている。調査に乗り気でなかった彼らの目に、「あいつ」の恐怖が見え始める。ペニーワイズと名乗るピエロは、見た人間によって最も恐いものに変化していた。恐怖に負けたら排水溝に引きずり込まれる事を悟った彼らは、「あいつ」と闘うことを決意する。

 

1:あの頃の、得体の知れない何か

この映画の主人公は15歳前後の少年たちです。そして映画自体が、少年たちの視点だけでなく、生きている世界を描いています。少年期の懐かしさを現すのでなく、思春期にしか分からない息苦しさの世界観なのです。いじめや仲間外れ、大人たちの無理解、セクシャリティへの違和感といった誰もが通ったはずの薄暗い青春時代を背景としています。

少年たちはクラスメイトからのイジメや親からの支配に怯えていますが、被害を加えるのは自分たちと同じ普通の人間です。その加害者たちも別の人間から被害を受けている。

日本国内でも毎年イジメ事件が発生していますが、自殺に至ったイジメ被害はごく一部であり、身体的には生きていても精神を破壊され、在るべき居場所を失った子どもたちはいくらでもいます。

イジメ事件は、見て見ぬ振りをしていた周囲も加害者だと指摘されるように、「悪役が明確でない」ことが特徴です。イジメの加害者は、自分もイジメられるのが怖くて被害者を殴っているのかも知れないのです。ここには被害者と加害者の二項対立を超える恐怖が構造されています。誰が敵で味方なのか?得体の知れない恐怖が蔓延している。その正体と対処法がわからないという難題に少年たちは向き合っているのです。

学校ではイジメがあり人種差別が蔓延し、大人たちは守ってくれない。現実の世界は在るべき姿から遠く、理不尽な世界から身を守るには信頼出来る仲間と結束するしかない。確かに世界が理不尽なのは大人たちの怠慢です。しかし「安全を確保するのが大人の責任だから自分は外に出ない」と自分を正当化しても、事態は何も解決しません。大人に成長するとは「危険な目にあうのは納得いかないけど、外に出るために自分が動くしかない」と自覚することなのです。

 

2:ペニーワイズの正体

恐怖のピエロ、ペニーワイズは子供たちにとって最も恐い対象に姿を変え、その恐怖心を喰らう存在です。原作においてペニーワイズ自身が「俺はお前の恐怖そのものだ」と語っており、ペニーワイズとは小さい頃の心傷(トラウマ)が具現化したものだと考えられます。

人間には外傷を治す能力と同時に、精神的ストレスを強制的に忘れる能力があります。心理的なトラウマは別の記憶に置き換えられ、当時の出来事は無意識領域に隠されています。しかしトラウマは心から完全に消えた訳ではなく、時に恐怖として表面化する。ペニーワイズが見えた時とは、自分の内なる恐怖との対峙でもあるのです。だからこそ、主人公たちは必死で逃げるのですが、やがて自分自身からは逃げられないと悟るのです。

 

3:父親殺しの通過儀礼

キングの代表作である「スタンドバイミー」は、少年たちが死体探しの冒険を通して線路の向こうの「死の世界」に旅立ち、「生の世界」に戻ることで大人に成長するという物語です。ホラー版スタンドバイミーと評される「IT」において、少年たちの成長は親殺しに示されます。

イジメ役のリーダーはペニーワイズから渡されたナイフで警察官の父親を殺し、ヒロインは、父親からの性的虐待から逃れようと、陶器で撲殺してしまいます。いずれも共通するのは、絶対的な父親の支配から逃れるために、自分の意思を示していることです。

子どもたちにとっての恐怖とは、ペニーワイズだけではありません。イジメをするクラスメイト、支配的で子どもを道具扱いする親たち、親から性的な目で見られることへの嫌悪と女性らしく成長する身体。本来守られるものから狙われているという恐怖があり、恐怖に打ち勝つためには「親を殺す」必要があります。

エディプスコンプレックスと呼ばれる、ギリシア神話のオディプス王物語を題材にした親殺しの成長物語は、多くの小説や漫画の共通テーマとなっています。自分の成長のためには支配的な親と対峙して「殺す」ことで、親を乗り越えて精神的な自立を果たす。物語の中で親は圧倒的な恐怖として立ち塞がります。

私たちにとって親とは、幼い自分を育ててくれた絶対的な存在です。しかしいずれは誰もが、親の庇護を離れて独り立ちしなければなりません。自立するとは親からの受け売りではない自分の考えを表明することであり、精神的な意味での「親殺し」を果たす必要がある。映画や小説で親殺しの構造が繰り返されるのは、私たちが大人になる上での通過儀礼だからです。

 

4:「あいつ」との対峙

映画の終盤において、主人公は弟に扮したペニーワイズと対峙します。自分が作った紙船で遊んで弟が排水溝に落ちたことから、罪悪感に囚われた主人公は弟の死を受け入れられません。頭では死んだと分かっていても、認めることがどうしても怖かった。だからこそペニーワイズは弟の姿で現れます。

正体を暴かれたペニーワイズは、次々と恐怖の対象に変化して襲いかかります。ペニーワイズは恐怖心を餌に成長する。逆に言えば、恐怖を感じなければ全く非力なのです。仲間を助けるために内なる恐怖と対峙した少年たちはペニーワイズを追い詰めて行き、井戸の底に突き落とします。

この物語のタイトル「IT」とは、殺戮ピエロを意味するだけでなく、もっと広い概念、「あいつ」としか言い表せない得体の知れない恐怖のことです。私たちは恐怖を乗り越えたことで大人になったけれど、恐怖自体が消えた訳ではない。原作では、大人になった主人公たちが「あいつ」が帰ってきたことを知る場面から、現代の戦いと少年期の戦いが交錯します。来年公開予定の次作では、大人になった主人公たちが再び「あいつ」と対峙します。内なる恐怖と対峙することが大人への成長の階段だとする「IT」は、大人にとっての暗黒童話であり、恐怖の本質を描いた物語なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恐怖の正体

誰もが経験する「怖い」という感情は「関わりたくない」と「味わってみたい」という相反する二面性を持っています。何故人間は恐怖を感じつつも、恐怖体験を求めるのか、恐怖の正体を考察します。

臆病な遺伝子

人間を始めとする高等生物は、喜び・悲しみ・愛情・怒り・嫉妬・孤独など、様々な思いを感じて生きています。意識は感情と結びついており、人間の行動は感情の決定によっている。「感じる」ことは生きることと同じだけの意味を持っています。そのため感情を持たない人工知能には生きている概念がありません。人間の場合でも、うつ病など脳が強いストレスに晒されて感情が想起されにくい状態では、生きる意欲も極端に低下しており、自殺リスクが高いのです。

全ての生物は知能の高低に関わらず「生きたい」という感情:生存本能を持っています。生きるためには食物からエネルギーを得る必要があるため、「食べたい」という食欲は最も基本的な欲求です。草食性動物は草木から炭水化物を得ていますが、肉体を構成するタンパク質は微量なので、一日中大量の草木を食べる必要があります。そのため一部の動物は、効率的に栄養を取るために他生物を喰い殺す肉食性に進化しました。

自然界の生態系サイクルにいる生物たちは、強い肉食動物に追われる立場です。外敵から身を守るには、危険を察知して素早く逃げる必要がある。弱肉強食と言われる自然界ですが、強い動物であっても身体に傷をつくれば細菌感染による壊死や失明で簡単に死んでしまいます。生き残るために必要なのは立ち向かう強さではなく、危険を避けたい臆病な心であり、「恐怖」とは食欲と同じく生存に関わる感情なのです。

 

恐怖の対象

恐いものは何かと考えた場合、一般的には死霊やゾンビなど、「死の概念が具現化したもの」が浮かびます。生物は生存を脅かすものに恐怖を感じますが、感情機能が複雑な人間は様々なものが恐怖の対象になります。

1:生命を脅かす存在

ライオンやクマなど、人間を襲うこともある大型肉食獣も恐いですし、蜂や蜘蛛などの毒性虫も恐怖を感じます。また銃や刃物など、殺傷能力のある武器も脅威ですし、単純に殺されるより切り刻まれる方が恐怖が増すため、ホラー映画の殺人鬼は電動ノコギリで襲ってきます。

 

2:生命を脅かす状況

現代人が安心して生きるためには衣食住とプライバシーが確保された生活空間が必要です。災害や戦争などで、生活環境が破壊されることは深刻な恐怖となります。災害大国である日本では、津波や土砂崩れに巻き込まれた経験のある人々も多く、危機管理体制が繰り返し問われています。そして危機管理とは正に、災害がどれだけ恐ろしいのかを知ることなのです。

古来より日本では、天災に対する「畏れ(人知を超えた破壊力を荒ぶる神の怒りとする概念)」を持っており、京都の祇園祭(平安時代の祟り神を鎮める祭事)に代表されるように、神社の祭りとは荒ぶる神を鎮める祭事が始まりでした。国内で毎年多数の死者が出ている状況にあって、地震津波・雷・集中豪雨・大雪・火事・火山噴火などあらゆる自然災害に個人で立ち向かうことは無謀です。生き延びるには早く逃げる必要があり、災害の兆候を恐れることは恥ずかしいことではありません。

 

3:日常への侵入者

殆どの人間はゴキブリが嫌いですが、昆虫のゴキブリ属の大半は森林に生息しており、危害はおよびません。にも関わらず私たちが恐怖を感じるのは、「自然」が「私」の領域に侵入するからです。

生物は住処で休んでいる状態が最も無防備であり、外敵を意識なくて良いため緊張が解けています。都市文明の発達と共に、人間は安全を手に入れるため住宅の密閉度を高めてきました。家の中では素足であり、部屋着の状態で生活しています。そこに外部からの侵入者である虫類が出現すると、人間は外部の自然が自分のテリトリーを脅かしていると感じてしまうのです。実害が有る無しに関係なく、侵入者を排除しなければ安心して暮らせません。

良く分からないものを自分たちの領域に入れるのは怖いという感情は、生物としての縄張り本能によるものですが、人間同士の場合では外国人や異教徒に対する拒否感として現れてしまうのです。先進国においても人種差別が根深い問題でなのは、誰を仲間と認める上で「国も肌の色も関係ある」のが現実だからです。

 

4:見知らぬ領域への侵入

他人の領域への侵入者は怖いと言いましたが、逆に自分が他人の領域に侵入してしまった場合はさらに恐ろしいです。パスポートを持たずに言葉の通じない異国に来てしまったような、自分を保護してくれるものが何もない状況では、誰かが襲ってきても、助けを求められないのです。あり得ない話に聞こえますが「拉致被害者」とはそういう状況にあるのです。身近な家庭に置き換えると、夫が味方してくれない妻が、義理の両親を訪ねるような状況です。

 

5:情報監視社会

フェイスブックツイッターなどのSNSが若い世代を中心に広がっています。誰もが気軽に自分の写真や意見をアップ出来る反面、こうした意見や画像が一人歩きする事態も起きています。一般にSNSへの投稿に著作権は認められません。誰もが簡単に複製できることで、拡散するのがSNSだからです。

そのためSNSに写真を投稿する場合、被写体の肖像権に配慮することが必要です。写真にはGPS機能がついており、投稿を辿ればその人がいつ何処で誰と一緒であったか、一瞬で検索出来ます。探偵の尾行で1週間かかる身辺調査が、一般人でも数分で出来てしまうのです。

別れた恋人の投稿をSNSで検索する程度なら通常の使用範囲ですが、ストーカー化した場合、SNSの投稿によってその人の行動は全て監視されてしまいます。投稿を見られたくない人間がいる場合は、過去の投稿も含めて全て消去した方が安全です。

ツイッターは誰もが気軽に意見を呟けるSNSですが、仲間内と会話する感覚で他人を中傷している人もいます。自分のツイートは仲間内にしか公開していないと安心しているのかもしれないですが、ツイートの転載は個人ブログでも掲示板にも簡単に出来ます。

最も危険なのは若い頃の悪自慢をして、過去の違法行為を書き込むことです。「現在の地位が高い奴ほど過去の違法行為やモラル違反を暴き立てて、地位から引きずり降ろすのが面白い」大手マスコミをはじめ、メディアとは大衆のルサンチマン(強者に対する鬱屈)を晴らすことが正義であるという基本方針があります。それは一般人も同様であり、反社会的な投稿が炎上すると、投稿主が削除しても攻撃を続け、過去の投稿を遡って投稿主の実名や住所を特定するケースもあります。

悪い事を追求することの何処が問題なのか?と思う方もいるかもしれませんが、相手は私たちと同じ一般人であり家庭を持っていることもあるでしょう。報道被害は当事者の家族にも及びます。その人たちの生活を壊す権利など誰にもありません。ましてや私たち、警察権を持たない一般人が、自分を正義だと考えて他人を追い詰めること自体が恐ろしいことです。

 

 

 

生命の氷

地球で最も南に位置する南極は、一年を通して氷に覆われた場所であり、人間が定住できない唯一の地でもあります。それ故に南極大陸は、世界のどの国にも属していない氷の聖域でもあります。

 

地球で最も寒い場所

地表の気温は、太陽熱で大地と海が温められることで上昇します。そのため太陽熱が当たりやすい赤道付近は常夏の気候であり、太陽熱から遠い極地では寒冷気候になります。

北極の氷下は海であり、水面だけが凍っているため、水中温度は1℃以上あります。一方で南極は大陸の上に厚さ1500mを超える氷が覆っています。永久凍土の底冷えと高所の強風により熱が失われるため、北極よりも南極の気候が寒くなります。

地球は1日1回自転することで、その土地に夜と昼が訪れます。また、大地の自転と上空の大気とのズレが気流を生み、気象をつくっています。この自転軸が北極と南極であり、南極の夏は太陽が24時間同じ位置ある白夜の状態になります。冬は反対に、日中でも太陽が登らないために常に暗く、南極点では−70℃を下回る極寒の世界なのです。

 

極寒の世界

氷結とは物体の分子運動エネルギーがなくなることで、水分子が固体化することです。水の氷結温度を0℃と基準にしており、水分を含んだ物質は内部温度が0℃を下回れば凍ります。

そして−70℃の世界では自然界の全てが凍りつきます。大気中の水分が凍るため南極の湿度は低く、空気中では病原体が生存できません。意外なことに南極で風邪を引くことはないのです。汗をかけば一瞬で皮膚が凍り、深呼吸をすれば肺の奥まで凍りついて死に至ります。

熱伝導の良い金属製の機材や足場に素手で触れてしまうと、手が凍りついて離れなくなります。素早く処置をしなければ凍傷で手足や鼻先を落としてしまう。防寒着を何重に着込んでも、野外で活動出来るのは日中だけであり悪天候や夜間に外出することは出来ません。

野生動物の生息も厳しく、寒さに弱い昆虫類はいません。土中に微生物が存在せず土に栄養がないため、植物は苔類が生えるだけです。陸の生態系が存在せず、氷の大地には一滴の水もないため、南極は世界最大の砂漠に分類されています。

 

南極海の生命

氷に覆われた不毛の大地である南極ですが、氷河の下にある海の中は地上よりは暖かく、豊かな生命が生きています。魚類や甲殻類は変温動物であり、海水温が1℃でも活動できます。

北極の氷は海水が凍ったものですが、南極の氷は雪が積もって氷河となり、海に落ちて氷山となります。真水を成分とする氷河が溶けると、比重の異なる海水とはすぐに混ざりません。冷たく重い水は深層海流となり、海底の泥を巻き上げます。この時に泥の中の栄養も含まれており、海水と混ざり合うことで植物プランクトンが爆発的に発生します。

南極海には体長2~3cmのオキアミというエビの仲間がいます。オキアミは植物プランクトンを餌としており、海中を紅く染めるほど大量に発生します。このオキアミは海中生物の主食であり、一日数トンのオキアミを食用するクジラたちが南極海に集まります。他にもアザラシやペンギン類、大型魚類が南極海に集まるため、南極海は世界有数の漁場でもあります。

 

氷下の世界

南極大陸は夏でも気温が0度を超えません。そのため南極の雪は溶けることがなく、毎年降った雪が氷となって積み重なります。100万年という膨大な時間をかけて形成されたのが地表の氷であり、過去数十万年の大気が時代ごとに閉じ込められたタイムカプセルなのです。南極は人間の生活圏から離れており、大気中の塵や水分が殆どないため、空気は清潔に保たれています。地球の気候変動メカニズムを研究する上で重要な場所であり、世界各国は南極に観測所を設置しています。

南極大陸はかつてオーストリア大陸とつながっており、地表プレートの変動により極地まで移動しました。氷の下の大地は、数百万年前まで他の大陸と同様に多くの動植物が生息したと考えられています。

 

地球最後の聖域

不毛の大地である南極は、過去数十万年に渡って人間の進出を阻んできました。そのために地上も海も大気も環境汚染されず、天然のクリーンルームになっています。

近年の国際社会では、地球温暖化による気候変動が人間の生活圏を脅かしており、温暖化防止は緊急の国際問題として挙げられています。欧米各国では、経済全体の枠組みで二酸化炭素の削減を掲げており、これまでは温暖化対策に否定的であった中国なども対策を打ち出しています。しかし、実は地球が温暖化するメカニズムは解明されていません。

地球の気候は、世界全体が寒冷化する氷河期と、温暖化する間氷期を繰り返してきました。現在は間氷期であり、地球はこれから氷河期になるという見解も多いのです。温暖化の主因も二酸化炭素濃度上昇だけでなく、太陽活動の活発化、海水温の上昇、極地の氷解、海底のメタンガス放出、火山活動など様々な主張がされています。

「地球は温暖化している」「地球は寒冷化する」、「温暖化は人間の活動が原因」「温暖化は自然の摂理」、「温暖化は人間を含めた生態系全体を破壊する」「地球は温暖化と寒冷化を繰り返しており、生物は環境変化に適応してきた。生物は気温上昇により活性化するのだから、地球全体が温暖化すれば生態系は豊かになる」。世界中の気象学研究では、地球温暖化の真偽から結果に至るまで議論が入り乱れており、温暖化メカニズムも仮説の段階です。そのために国際会議では、各国は自国の利害に一致した気象データを引用している状態で、国際協定の足枷となっています。各国の足並みを揃えるためには科学的に正しい気象理論と、根拠となるデータが必要なのです。

南極の氷は、温暖化と寒冷化を繰り返した地球大気の記録レコーダであり、南極の空気は地球規模での大気汚染や気温変化を観測できます。日本から遠く離れた南極は気象学研究にとって大変重要な場所であり、国立極地研究所昭和基地を拠点に毎年多くの研究者を南極に派遣しています。南極には国境線がなく、研究基地の外に人間は誰もいません。各国の基地では研究データの共有を通じて国際交流しています。食料も燃料も研究資材も、必要最小限しか持ち込めない南極は極限世界のサバイバルであり、国を超えて助け合わなければ生活できません。

 

地球の氷嚢

南極大陸は地球全体の氷の7割が集中しています。夏場の飲み物に氷を入れるように、氷には水や空気から熱を吸収して温度を下げる働きがあります。火照った身体を氷嚢で冷やすように、南極の氷は大気や海水温度の上昇を緩和する働きがあります。

局地的な海水温上昇はエルニーニョ現象ラニーニャ現象などがあり、大量の水蒸気が上空で大型低気圧となって台風を発生させます。海水温上昇は豪雨や干ばつなどの異常気象を引き起こすことが分かっており、南極の氷が溶ければ温度上昇は加速します。

生物の住めない南極大陸は、海水温を低く保つことで地球全体の生物を守っている、かけがえのない地球の氷嚢なのです。

 

 

 

 

生命のタマゴ

スーパーの卵は食卓に最も身近な食材です。和食、洋食、お菓子まで、どんな料理にも使える万能食材であり、生命維持に必要な栄養素を全て持った完全食品でもあります。今回は卵の秘密を生物学の視点から解説します。

 

卵とは生命の原型

一般的には食品としての鶏卵がイメージされる卵ですが、私たち人間を含めて鳥も魚も生物は卵から生まれてきます。卵の黄身である卵子は生命の原型であり、哺乳類の胎児が子宮内で発育する代わりに卵の殻に包まれて発育します。

強固な殻は、内部の生命を守る構造をしています。悪天候や衝撃から内部を保護する構造であるため、近代建築物や自動車の形状は卵をモデルとした物があります。

殻は通気性が良いにも関わらず、汚染物や病原体を通しません。一見滑らかな卵の殻はカルシウムとタンパク質の微細構造であり、フィルターの役目をしています。

卵の白身には病原体に対する抗体が含まれており、幼胎の栄養源と同時に防御の役目もあります。一般の生鮮食品は消費期限が3日程度であり、日数が経つと病原体が発生してしまいます。しかし卵は冷蔵保存して加熱料理すれば1ヶ月は持つとされます。他の生鮮食品は生物の破片であり、細胞レベルでは死んでいますが、卵は一個体の生命が眠った状態だからです。

卵が細胞レベルの機能を保っているという特性を生かして製造されるのが、インフルエンザワクチンです。細菌と異なりウイルスには生命維持機能がなく、生物の細胞内でなければ増殖出来ません。弱毒性ウイルスを純粋培養するには「生きた容器」である鶏卵が使われるのです。一個の鶏卵からは2単位のワクチンが製造出来ますが、インフルエンザの大流行に備えるためには数十万単位のワクチンを事前に製造する必要があります。近年では一度に50単位製造出来るダチョウの卵を使用したワクチンも研究されています。

卵のカタチ

鶏卵を始め、鳥の卵は偏った楕円形をしています。亀やトカゲの卵は球形、ヘビの卵は完全な楕円形です。卵細胞の形は球形なので、卵の形状も球形が本来の形状です。しかしヘビは胴体が細長いため、卵管を通れるように卵も細長くなりました。爬虫類の卵は形状が丸型であり、恐竜の卵化石も楕円形です。恐竜から進化した鳥類は、樹上や崖など高い場所に巣を作るため、卵が転がらないよう歪な形状になっているのです。

魚類の卵は殆ど球形ですが、ネコザメなどの小型のサメ類は、海藻のように不思議な形状の卵を産みます。卵を周囲の海藻に巻きつけることで、潮に流されないようにしています。大型のサメ類は卵を母胎内で孵化させる、胎生の種が多いです。

 

鶏卵の誕生

食品としての代表格である鶏の卵ですが、食品用の卵は全て無精卵であり、ひよこが羽化することはありません。野生の鳥が産卵するのは子育ての時期だけですが、鶏を改良して作られたブロイラーという品種は、1日1回は無精卵を産みます。餌やりから採卵までを効率化するために、鶏たちはA4用紙と同サイズの狭いケージに集団で飼われています。

経済成長に合わせて様々な食品が値上がりする中、1個10円程度の価格を保ってきた鶏卵は「物価の優等生」と呼ばれましたが、それは鶏たちを「卵を産む機械」として採卵の効率化を追求したからです。鳥は本来警戒心が強く、野生の鶏は広範囲を単独で行動します。ケージで身動き出来ないことも、集団でいることもストレスをかけており、鶏たちの健康を損ねていると指摘されます。

家畜の餌には抗生物質を混ぜているのですが、ウイルスには効果がありません。一羽でも鳥インフルエンザに感染すると、狭いケージに集団飼いされた鶏には一瞬で蔓延します。鳥インフルエンザの感染爆発が恐れられているのは飼育システムの事情があり、ウイルスの陽性反応が一羽でも出れば鶏舎全部、数十万羽の鶏を処分しなければなりません。

鶏は総排泄孔と呼ばれる肛門と卵管が繋がった器官から卵を産むため、産みたての卵は便汚染された状態です。日本には生卵を食べる習慣があるため、採卵は洗浄消毒して品質管理を経た上で出荷されますが、大腸菌サルモネラ菌による食中毒が毎年発生しています。外国の場合、スーパーの卵は生食用に製造していないために、必ず加熱料理する必要があります。

また、卵はアレルギーの出やすい食品であり、食品アレルギーを発症しやすい子どもは特に注意しなければなりません。卵白は小麦粉の繋ぎとして、パンや麺類など多くの食品に使用されていますが、鶏の抗体(免疫系タンパク質)が含まれているので人体の抗体と反応しやすいのです。スーパーの食料品には卵使用が表示されていますが、地域や一般家庭で作ったお菓子などを子どもに渡す際には配慮が必要になります。