バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

火垂るの眠り

 

Grave of the Fireflies / [Blu-ray] [Import]

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日本を代表するアニメ監督、高畑勲氏への追悼として、不朽の名作「火垂るの墓」を解説します。映画公開から30年以上を経て、海外からの評価が極めて高く、国際映画祭での常連作品となっています。「余りにも悲しくて二度と見られない」と評される映画を高畑監督が制作した理由、それは商業主義や反戦主義とは一線を課した、死者の鎮魂のためなのです。

 

あらすじ

1945年9月、終戦直後の兵庫県三ノ宮駅にて、浮浪児の遺体が発見された。サクマドロップスの缶に妹:節子の遺骨を抱えた少年:清太の死から、幽霊となった二人は過去を巡る。

太平洋戦争が激化する時代に育った清太と節子であるが、海軍少尉の父親の存在により物資の配給を優遇され苦労のない生活をしていた。しかし1944年9月の神戸大空襲により、兄弟は自宅と母親を失う。数時間前まで元気だった母親が、焼夷弾で全身を焼かれ変わり果てた姿を見た清太は、妹に母親の死を隠し通そうとした。

親戚の叔母宅に居候することになった兄弟だが、日を追う毎に配給が少なくなる中で、叔母は仕事をしない清太と、母恋しさに泣き止まない節子を疎ましく扱うようになる。

清太は自分たちの暮らしを守るため、防空壕の中で妹と暮らし始める。清太は水遊びや蛍とりをして節子を楽しませるが、蛍の死骸を埋葬していた節子は、母親が既に死んだことを理解していた。無邪気な少女だった節子に、笑顔は二度と戻らなかった。

叔母の家を出た兄弟に配給はなく、食料事情は益々悪化する中で、いくら金を出しても食べ物は売っていない。清太は昆虫や蛙を採り、農作物を盗んででも食料確保に奔走するが、不衛生な環境と栄養失調で節子の健康状態は悪化していた。

医者を受診しても薬一つない状況で、清太は貯金を全額叩いて食料を買うが、その時すでに戦争は終わっていた。大日本帝国が戦争に負け、頼りの父親はとっくに戦死したことを知った清太は生きる支えを失い、唯一の家族である節子のもとに駈けもどる。衰弱していた節子は意識が混濁しており、スイカを一口含んで息を引き取る。そして清太の心は死んだ。

節子の遺体を燃やす清太を、節子と清太の幽霊が回想している。サクマドロップスを舐めながら、蛍の舞う草原で永遠の子どもとして彷徨う二人は、戦争から数十年経ち、大都会に変貌した神戸の街を見下ろしている。

 

大人になれない清太

火垂るの墓を読み解く上で、妹を守る清太の行動には問題が多くあります。清太は15歳になれば学生動員される年齢であり、叔母からは隣組の消火活動を手伝わないことで疎まれています。叔母の家を出たことで食料の配給がなくなったのですから、「清太が叔母に謝罪して、妹のために働けば、節子は死ななかった。清太は大人気ない」という意見はとても多いです。清太は何故「間違った行動」をしているのか、それは彼が「子ども」だからです。

清太は現代の中学2年生、大多数の中学生は完全に親の保護下にあり、働くことはおろか授業もろくに聞いていません。自分一人の生活基盤すら立たない子どもに、幼い妹の面倒も見ながら働けといっているようなものです。

シングルマザーの困窮が社会問題になっているように、食料や仕事が整った現代社会の大人ですら、育児と仕事を同時に行うことは困難なのです。母親を失い、信頼出来る大人が誰もいない状況で、14歳の少年が「正しい」行動をとることは現実としてあり得ません。

清太を大人びた少年として描けば、ハッピーエンドの映画になるでしょう。ですが戦争当時、清太と同じような浮浪児たちは全国に溢れていました。高畑監督が追求したリアリズムとは、主人公の清太をヒーローではなく普通の少年として描くことで「大人がいないから、子どもたちは間違い、死んでいった」と主張します。

この時代の大人とは、「御国の為に死ぬ」ことが「正しい」行動であると子どもたちに教えていました。そして終戦の日を境に、昨日までの敵国を敬うことが「正しい」と教えを変えたのです。ここには清太の行動を過去、現在、未来の時間軸で読み解く鍵があります。

 

蛍の生命

ラジオの天気予報が、今日の降水確率50%を予報していると考えます。私たちは傘を携帯しても外出はします。雨が降りそうだから会社に行かないと言う者は怠けているだけでしょう。

でも、空襲確率50%の予報が出ていたらどうでしょうか?外出したら1/2の確率で死ぬ状況ですが、これが戦時下の日常なのです。私たちは未来に繋がるからこそ、現在の苦しい状況を我慢するのです。誰もが老後の為に勤労に励むことは当然だと思って考えていますが、末期癌などで余命宣告を受けた人には老後も未来も存在しません。未来に備えて今を我慢することは無意味になるため、他人からはどれだけ馬鹿馬鹿しく無計画に見えても、自分自身のために生きるでしょう。

清太は母親の死に立ち会った時、自分と節子もいつ爆撃で死ぬか分からないことを理解しました。仮に叔母に従った場合でも、空襲は叔母の家を襲うかもしれませんし、消火活動を行う自分は死ぬ可能性が高い。そして兵隊に召集されれば確実に生きて戻れない。その場合、残された節子は保護者が誰もおらず、人買いに売られるか捨てられるだけなのです。

母親が死んだ時点で、清太はどの選択を取ってもいずれ死ぬのです。死んだら我慢も無意味になる。ならばせめて生きている間は、自分と節子が生きたいように生きよう。失われた子どもの時間を取り返そうという清太の行動なのです。物語は非情な現実と、蛍の舞う幻想風景が交互に進行しており、それが悲劇性を強調していますが、同時に生命の輝きに満ちています。まるで蛍が生命を燃やしているように、清太と節子は未来の為に現在を犠牲にするのではなく、この一瞬のために生きているのです。

 

循環する時間

この映画は、清太の死から始まり、節子と清太の幽霊が自分たちの過去を辿って死を見届ける場面で終わります。物語の終わりに死んだ節子と清太は、幽霊となって映画の冒頭に戻るという、循環する時間軸に閉じ込められているのです。この循環する時間軸こそが、映画のテーマである彷徨える魂を意味しています。何故二人は時間軸を繰り返しているのか?それは自分たちがどの時点で決断を間違えたのか、探し続けているのです。

生まれてから死ぬまで、私たちの人生とは選択の連続であり、現在の状態は選択の結果です。就職先を後悔した、結婚相手を間違えた、など人間は誰もがあの時こうしていればという決断に対する後悔を抱えています。しかし「あの時」の自分は、それが最善の選択肢だと考えており、後悔しているのは未来の結果が分かった時なのです。「現在」から「未来」は絶対に分からない。だからこそ、あれこれと未来予測を立てた上で選択するのですが、ゲームの世界で何度も同じ場面で躓くように、どの選択肢を選んでも既に詰んでいるという状況が現実には起こり得る。清太と節子にとっての状況とは「子どもだけで戦火にいる」ことです。

二人の死因が、空襲で焼かれることであれば、悪者はアメリカであり、清太が兵隊として戦死すれば、日本の軍国主義が悪者となります。しかし実際の死因は、清太の選択が裏目に出たことによる餓死でした。誰が悪者か、加害者が明確であれば結末が良い映画になりますが、この物語の登場人物は、全員が自分勝手さと選択ミスを示しており、二人の死はその結果なのです。後味の悪い結末になるはずが、死んだ二人は映画の冒頭に戻りますから、物語も最初に戻ります。映画が清太と節子が死ぬまでの過程を繰り返し上映することになります。一度見ただけでも救いようのない物語を、何故繰り返しているのか?それこそが死者の鎮魂なのです。

 

火垂るの眠り

太平洋戦争は、戦死者、民間人の死者を含めて未だに全容判明していないほど多くの人が死にました。誰もが身内を失っており、戦火を生き延びた人々は、何故自分だけが生き残ったのか分からない「サバイバー」なのです。火垂るの墓の原作者である野坂昭如氏は、幼い妹を餓死させた実体験を元に小説を書いていますが、その理由は死者の生きた証を語ることによる鎮魂です。

日本の伝統芸能である能楽の主な演目は、恨みを遺して死んだ死者が怨霊となる内容であり、数百年間同じ内容を演じています。能楽の舞は芸術というよりお祓いに近く、死者を鎮める呪術的な性格をもっています。人が生きて理不尽に死ぬまでの過程を物語るのは、未練を残して彷徨う死者の魂を鎮め、生きている人を後悔という時間の循環から解くためにあるのです。

戦後70年経ち、日本は敵国であったアメリカ側につく選択をしたことで経済大国となりました。しかし今日の世界で戦火が絶えることはなく、途上国の村では、家の庭先に地雷が埋まったまま生活しています。世界人口の半数、35億人は貧困ラインにあり、一つの選択ミスで生命を落とす状況に置かれているのです。確かに火垂るの墓は悲しい映画です。そしてもっと悲しい現実が今日も世界各地で起きている。戦争、災害、貧困、異常な事態は人間の判断を狂わせ、間違った結末に導いてしまう。清太と節子と同じ運命を辿った、彷徨う火垂るたちに安らかな眠りは訪れるのか。今を生きる私たちは繰り返し問われているのです。