バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

裸の王様は誰?

「裸の王様」      C・アンデルセン

ある国の国王のもとに、二人の詐欺師が服の仕立屋を装って訪れた。「聡明な王よ。貴方様のために最上の衣装を仕立てます。この服の価値は愚か者には理解出来ません。その目で服を見ることすら出来ないのです。」二人はその日から、必死に服を仕立てる(振りをしていた)。

やがて完成した服は王宮で披露されるが、王が目を凝らしても二人が説明する服が見えない。

己の無知を晒したくなかった王は、服を褒め称え、家臣たちも同調してしまう。新しい服で市中を凱旋した時、国民たちも服が見えないとは

言えなかった。しかし子どもが「王様は裸だ」

と叫んだ時、王様は自分が何も着ていないことを自覚してしまう。

 

 「裸の権力者」

企業の経営者が、役員をイエスマンで固めているワンマンタイプである場合、社員にサービス残業を強要したらどうなるか。社員が異議を唱えても、経営陣は「俺たちの時代はもっと働いた」と言うでしょう。

経営者も違法性は認識していますが、社内で反対する人がいなければ組織の論理が通用します。社員は退職するか、会社の論理に同調するしかありません。

しかしサービス残業の実態が外部に報道されれば、経営者は態度を一変させます。自分たちの正しさは、一般社会で通用しないことに向き合わされるからです。経営者は「我が社にサービス残業はない」と答え、社員にも口裏を合わせるよう求めるでしょう。「社長は裸の王様」であることが露呈してしまうのです。

「あの人は裸の王様だ」という場合には上記の話が当てはまるでしょう。ですがこの童話は権力者を揶揄した単純な話ではないのです。ここでは登場人物の視点を詳しく見ていきます。

 

主観と客観のジレンマ

王様の視点:服が見えない。

「どうしても服が見えない。自分は愚か者なのか?バカな、余は王だぞ。あの仕立て屋が自分を欺いているのか?だがもしも家臣たちに服が見えていて自分だけ見えなければ、自分の愚かさを晒してしまう。自分は国を治める王なのだ。家臣たちに愚かな姿など見せられない。とりあえず服が見えてる前提で褒めておこう。」

 

家臣の視点:服が見えない

「服が見えないではないか。自分は愚か者なのか?王様は服が見えているというのに。ここで服が見えないことがバレたら、自分は無能ということになり、役職を解任させられるかも知れない。王様の服を褒め称えて、見えない事は他の家臣たちにも隠さなければならない。」

 

国民の視点:服が見えない

「王様は裸で行進しているように見える。

でもそんなこと言えば不敬罪で捕まるかも。

とりあえず周りに合わせておこう。」

 

子どもの視点:服が見えない

「王様は裸だ!」

 

詐欺師の視点:王様も家臣も服が見えないこと  

                          を理解している。

「王様も家臣も服が見えていないことを共有出来れば、自分達の詐欺はバレる。しかし彼らは自分が愚かであると、認めるリスクを負わないだろう。“自分が相手にどう見られたいか”にこだわる限りバレる心配はない。」

 

以前に解説した囚人のジレンマに似た構図になりますが、ここで王様と家臣は自己利益の最大化を考えつつも、「自分だけ愚か者に見られる」事がもっと不利益となるため、情報の共有が出来ていません。

自分がどのような人間であるかを理解するには、自分を客観視することは欠かせません。しかしこの「客観」が問題なのです。客観を他者の視点と考えると、それは相手にとっての「主観」になるからです。自分自身が客観的にどう見えるかを自分で知る方法はなく、しかし他人が本当のことを言う保証もないのです。

 

自己イメージの世界

「自分はどうしたいか」が主観。「自分が人からどう見えるか」が客観になりますが、私たちは「自分が他人にどう見られたいか」という主観と客観が混じった思考をしています。そして

ファッション服とは「自分が着るため」よりも、「他人からどう見えるか」が主体の使用目的なのです。

誰だって人から認められたい。「可愛くなりたい」「いい人に見られたい」「優秀だと思わせたい」動機は様々ですが、自己イメージには承認欲求が入り混じっています。一方で自分を貶めるイメージは受け入れがたい。

例えば、男性にとって髪が禿げることはデリケートな問題であり、禿げを隠すために精巧なカツラを被ります。しかし周りにバレないと思っていても、そこには「バレたくない・バレないはずだ」という主観が入っており、実際には周囲にはバレているかもしれません。ですが誰も正面から指摘出来ないのです。言えばコンプレックスを刺激してしまうから、相手からどう見られるかを考えるほど指摘出来ない。これが王様と家臣の関係であり、カツラが喜劇のネタに

なりやすい理由です。禿げること自体が問題ではないのです。誰しも髪は薄くなりますし、坊主頭をファッションとして捉える男性は何も可笑しくありません。禿げを隠そうとする心理が

周囲にバレているのに、当の本人が気付かないという状況が可笑しいのです。

 

 読者の視点は俯瞰的

俯瞰とは主観とも客観とも離れて、物語の外部から全体像を見ることです。「裸の王様」では、王様が裸であることを知っているのは詐欺師と子供、そして読者である私たちだけです。しかし現実世界を一つの物語だと考えた場合、私たちは読者の立場になく、「王様」「家臣」「国民」の立場なのです。誰も読者の立場で全体像を俯瞰出来ない。

新聞などのメディアを読む時、私たちの視点は俯瞰的になりますが、それは外国や政府など、

自分とは外部の世界を見ているからです。もしも自分が取材される立場であればとても俯瞰など出来ません。「国民」の立場からしか考えられないでしょう。

 

リーダーとは俯瞰する人

物語の渦中にありながら、詐欺師は全体像を

俯瞰出来ていました。これは詐欺師が最初から全てを仕組んだ、作者と同じ立場だったから

ですが、現実世界で物語の中にいながら全体を俯瞰することは出来るでしょうか。

例えばサッカーの試合では、観客席からはピッチの全体が見えており、自軍の選手、相手選手、ボールの位置関係から、次にどこにパスを出せば良いか分かります。一方で選手一人一人に全体像は見えませんが、パスを出す位置は分かっています。これは自分たちの試合を映像で

振り返って、過去の試合の全体像を俯瞰することで、現在の全体像を想像する訓練を積んでいるからです。

企業においても経営者や管理職はリーダーとしての経験を積んでいます。そしてリーダーの資質とは、主観とも客観とも離れて、物語の中にいながら全体を見れる俯瞰的能力です。王様が裸なのは、物語の主人公でありながら読者の視点を持つ俯瞰的視野:リーダーの素質がなかったからなのです。

 

王様の思考法

主観も客観もあてにならない状況で、王様はどうすれば俯瞰的視野を持てるのか。手掛かりの

一つは数字です。1+1は誰が計算しても答えは

2であり、反論の余地はありません。数学は主観や客観といった人間の認識と無関係な世界であり、だからビジネスの場では数字が重視されます。これと近い考え方に論理学があります。全ての前提条件を洗い出した上でX、Y、Zなどの要素に分解し、一つずつ証明するのです。

 

〔前提条件:服が見えない〕

1:王様に見えないが、家臣には見える

  方法:家臣たちに「服が何色に見えるか」個別に尋ねる。

証明:服が見えている家臣の答えは一致する。=服は確かに存在するが、自分には見えない。結論:自分は愚か者である。

服の色が様様である場合、

方法:「余には白く見える」と答える。

証明:家臣が「赤です」「金色です」と反論した。

結論:見る者によって異なる服が存在するが自分には見えない=自分は愚か者である。

 

2:王様に見えない、家臣にも見えない

方法:1と同様。

証明:家臣たちが答えられない、王に同調して「やはり白く見えます」と回答した。

結論:両者とも愚か者、服は存在しないの二択となる。

 

3:賢い者だけに見える。

方法:国外から賢者と称される学者数名を呼び、ここに何が見えるかを個別に尋ねる。その際に「愚か者には見えない服」であることは伝えない。

証明:美しい服がありますと回答する。

結論:自分たちは愚か者である。

 

4:仕立て屋だけに見える。

3の方法で学者たちが「何もありません」と回答した場合、服は誰にも見えないが、仕立て屋には本当に見えている可能性は残る。しかし、

ファッションとしての服とは「自分が楽しむ」よりも「他人に見せる」ための道具であり、

仕立て屋にしか見えない服は、仕立て屋にしか

披露出来ない。服として意味をなさず、彼らの

言い分は詭弁である。

 

「裸なのは自分」

王様は服を見た時、1~4までの展開を想定出来れば、全体像を見れたと言えます。俯瞰的視野とは自分が「こうありたい」という主観を一度捨てて、自分が間違っている可能性も含めて

検証することです。実際にはここまで考えて行動出来る人は殆どいません。だからこそ、これが正しいと考えて行動しても失敗するのです。

一度失敗すること自体はそこまで問題ではありません。問題なのは失敗を恥と考えて隠そうとすること、王様が裸で街を凱旋したように、自分の間違いを認めたくないという心です。ですが、周囲にバレたくない・バレないはずだという気持ちは、実際には他人にバレておりそれを指摘されないだけです。自分に悪いイメージを持たれたくないという気持ちは他人も一緒であり、そのままでは気付かないうちに信用を落とすだけになります。

自分の立ち振る舞いを客観的に見ることは出来ても、俯瞰的に見ることは不可能です。しかし、リーダーの役割を持った人はチーム全体の動きを見ており、メンバーの働きを俯瞰的に

見ています。物語の子どものように、自分の利害を離れて「あなたは裸だ」と指摘する人がれば、その人は場の状況における自分の本当の姿を伝えているのです。