幽霊は生きている:恐怖編
前回は、身体的な死を迎えた人が、社会的には
死なないことで、人々の意識を「幽霊」として彷徨っていると解説しました。
今回はその逆で、身体的には生きているのに、人々の意識から消され、社会的には存在しない「幽霊」を解説します。
「葬式ごっこ」
1986年、東京都中野区の中学2年生、鹿川裕史さんが盛岡市内で自殺した。遺書には仲間内でのイジメの苦痛が記されており、その後の調査でクラスメイトと担任が「葬式」を、生きている裕史さんに行っていたことが判明した。
裕史さんが自殺したのは「葬式」の3ヶ月後であり、生前には「俺はあの時死んだんだ。」と話していた。
「葬式ごっこ」と呼ばれるイジメ自殺事件の概要です。以降、学校でのイジメは悪ふざけではなく、犯罪として認識されはじめました。
この事件の大きな特徴は、身体的には生きてる人を「葬式」によって、学級という社会で死者として扱ったことです。クラスメイトから裕史さんへのメッセージは「死ね」ではなく、「お前は死んだからもう存在するな」です。
人間は承認欲求がありますが、「人間」とは「人と人の間」を意味するように、誰しも自分一人では存在を認めてもらえません。フェイスブックの「イイね」のように、自分の行為と存在を他者に認めてもらうことで、社会との繋がりを実感できます。そのため個人としては生きているのに、他者から存在を否定されることは、社会の中で生きる人間に深刻なダメージを与えます。
子どもにとっての社会とは家庭と学校だけです。その小さな社会集団で存在を否定されれば、個人はどれだけ生きたくても集団には戻れません。裕史さんは確かに生きているのに、クラスの誰からも存在を認めてもらえない「幽霊」にされてしまったのです。
1988年、東京都豊島区のマンションの一室で、
3人の子どもが保護された。母親は数ヶ月前から家を出ており、長男は学校にもいかず兄弟たちの世話をしていた。しかし食糧品が殆どない状況で、長男は当時2歳の三女を虐待死させてしまう。保護された時、兄弟たちは誰も出生届が出されておらず、戸籍上は存在していないことが判明した。
映画「誰も知らない」のモデルとなった巣鴨置き去り事件の概要です。事件が明るみになるまで、子どもたちの存在は誰も知りませんでした。付近の住民も異変に気付かず、行政も把握していない。彼らもまた、生きているのに地域社会から存在を消され、「幽霊」となって
しまったのです。血縁と地縁をなくした都市型住民の悲劇とされますが、近年このような
孤立した人々が都市部に増加しています。
無縁社会の人々
2000年代になって、社会の高齢化とともに、日常生活で誰とも交流がない独居老人の存在が
問題になりました。高齢者たちは慎ましくもしっかり生きています。ですが周囲の誰も存在を知らないのです。体調を崩しても介助してくれる人がおらず、やがて死を迎えても看取る人がいない。こうした孤独死や身元不明者の死が全国で拡大しています。
その理由は有縁社会である地方から都会に移住しているからです。地方集落の生活は、祭りから消火活動まで、地域のメンバーだけで行わなければいけないため、何処までも人間関係を切れません。これが有縁社会であり、個人の生活やプライバシーを重視する現代人の感覚では
窮屈なのです。
人々は都会の自由を求めて移住しますが、都会には地域の繋がりがありません。会社や家族の縁がきれると、社会的には存在していないことになってしまう。単身者住宅では隣の住民が誰かもよく知らないでしょう。
人は幽霊や怪談話を怖がりつつも楽しんでいます。そうしてホラー映画を楽しんでいるうちに、知っていたはずの級友、同僚、近所の人が「幽霊」になっていませんか?
本当の恐怖は幽霊を目撃することではなく、自分が誰からも存在してない「幽霊」になること
かも知れません。