バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

日本のエネルギー資源

日本はエネルギー資源として石油や天然ガスを全て外国からの輸入に頼っています。原子力発電所は再稼働の見込みが立たないため、国内電力の8割以上を火力発電に依存しています。

近年はマレーシアやインドネシアから天然ガスの輸入量が増えていますが、燃料資源の輸入のために年間数兆円の貿易赤字が出ており、電気料金も値上げされています。経済界からは原子力発電所の再稼働を求める声も高まる中、世論の反発も強い。今回は日本のエネルギー政策の現状と今後の方針を考察します。

 

原子力発電

原子力発電はウラン235を低レベルの核分裂状態におき、発生した熱で水を沸騰させて蒸気タービン発電機を回す構造です。構造だけ見ると理科の実験並みに単純なのですが、核分裂したウラン235は「消えないマッチ」なのです。

石油や天然ガスなど、酸素と化学反応で熱エネルギーを出す物質は一度燃えるとそれ以上熱エネルギーを出しません。しかし核分裂反応は一度始まると一ヶ月以上燃料を交換しなくても熱エネルギーを放出します。化学反応より遥かに高エネルギーですが、ウラン核分裂反応を止める方法がありません。

使用済み核燃料は原子炉から取り出した後も高熱と放射能を数百年放出するため、核燃料の処理はどの国も悩みのタネです。放射能半減期が来るまで保管するしかないのですが、核燃料が外部に流出するとテロリストに渡る危険があるため、保管施設は厳重な警備が必要です。

日本国内には原子炉稼働時からの使用済み核燃料が処理されることなく溜まっています。国は地層処分の候補地を探していますが、地震リスクのない土地はどこにもなく、人の住まない場所も何処にもありません。使用済み核燃料を受け入れる自治体がない現状では、原子力発電の本格的な再稼働は見通しが立たないのです。

 

水力発電

ダム湖にためた水を、高低差を利用して滝のように落とし、水の落下エネルギーで水車を回す発電方式です。電力消費量の1割を占めています。燃料が不必要なので半永久的に発電できること、二酸化炭素の排出がないことがメリットです。デメリットは、初期投資として巨大なダムを建設する必要があり、自然環境への負荷も大きいです。夏場などで降水量が減るとダムの貯水量も減るため発電量が安定しません。

日本国内はほぼ全ての河川にダムを建設しており、これ以上水力発電所を増やせない状況です。近年は農業用水路や下水路に小型発電機を設置する小規模水力発電がありますが、発電機が小型のため発電量も少なく、普及してはいません。

 

火力発電

化石燃料を燃やした熱で水を沸騰させ、蒸気タービンを回す発電方式です。やかんで湯を沸かすような単純な原理であることから、火力の調整によって発電量をコントロールしやすく、電力供給が最も安定しています。初期の火力発電には石炭が使用され、現在は天然ガスを燃料とすることが多いです。

火力発電は大量の二酸化炭素を排出するため、温室効果ガス削減に取り組むための京都議定書は発行出来ていません。また、エネルギー資源のない日本では化石燃料を他国からの輸入に頼る他になく、過去には中東戦争イラン革命OPECによる原油価格の決定により石油危機に見舞われています。

東南アジア諸国から天然ガスの輸入量を増やしているのは地政学的なリスクを避けるためでもあるのですが、エネルギー資源を他国に依存する状況は貿易赤字を拡大するため、国産エネルギーの比率を上昇させるかが課題となります。

 

太陽光発電

アルバート・アインシュタインは、光は粒子であり電子の運動エネルギーに変換出来る「光電効果」の発見により、1905年にノーベル物理学賞を受賞しました。光の粒子を二層の半導体に当てると、表層内の電子は裏層に移動して電荷が発生します。この原理を使用したのが太陽光発電であり、シリコンパネルを設置すれば燃料不要で半永久的に発電出来ます。

福島第二原発放射能漏れ事故により電力事業全体が改革される中で、安全性が高く家庭にも設置出来る太陽光発電システムを国も推進しています。

太陽光発電のメリットは、燃料不要で二酸化炭素を排出しない。建物の屋根や休耕地など場所を選ばずに設置出来る。電気を発電する場所と消費する場所が近いため送電コストが低い。発電施設が広範囲に点在するため災害時にも電力を確保出来るなどがあります。

デメリットとしては、シリコンパネルの製造コストが高く発電コストの採算が取れない。日照量に発電が左右されるので電気を安定供給出来ない課題があります。天気が曇りがちで冬場に雪が降る日本海側では向いていません。国は太陽光発電の電力を高く買い取ることで太陽パネルの普及を進めています。また電力を安定供給するために電気を貯める水素電池の研究が続いています。

 

風力発電

風車の回転エネルギーで発電します。風が吹けば半永久的に発電出来ます。風車の製造コストと発電コストは太陽光発電の数分の一であり、海から風を受ける場所に設置が進んでいます。

デメリットとして風が吹かないと発電出来ないため電力の安定供給が難しい。風車の回転で発生する低周波が人体に悪影響となる。人によっては耳鳴りと目眩が起こります。希少な鳥たちが風車の回転翼にぶつかる事故もあります。

近年、低周波の発生を抑えて数倍の発電効率を持つ「風レンズ」という新式の風車が登場しています。常に風が吹いている海上に風車を浮かべる研究も行われています。

 

潮力発電

潮の満ち引きを利用して、干潟にダム型の水力発電設備を設置する方式です。本来のダムは貯水と洪水防止のために造られるもので、水力発電は付属設備です。そのため潮力発電のためだけに大規模施設を作ることが難しく、現在はフランスに一ヶ所だけ稼働しています。津波の危険もある日本には不向きな発電です。現在は実験段階ですが、洋上の海流エネルギーで発電タービンを回す装置が開発されています。

 

燃料電池発電

貴金属の触媒を通じて水素やメタンガスを酸素に反応させてると、電子の負荷と熱エネルギーが発生します。電気と同時に熱エネルギーにより熱水を作る装置が燃料電池です。火力発電では燃料を燃やして電気エネルギーを取り出しても熱エネルギーは捨てるしかありません。燃料の全エネルギーの中で、家庭に電気として供給されるのは10%程度といわれており、熱エネルギーの有効利用が課題でした。燃料電池はその課題を解決するために造られた装置であり、ENEOS社は家庭用燃料電池を発売しています。

 

バイオマス発電

間伐材などの木材を細かく粉砕し、火力発電する方式です。排出した二酸化炭素は元の木が吸収していたと見なされるので、温暖化対策に有効とされていました。木材資源が豊富で既存の発電所が遠い山間部などではエネルギー供給に有効な発電方式です。作物の茎などをバイオエタノールに変換する研究も続いています。

 

地熱発電

地表近くまでマグマで熱せられ水蒸気が噴き出す場所で蒸気タービンを回す方式です。アイスランドでは一般的な発電ですが、日本国内は設置場所が限られるための発電量は僅かです。

 

核融合発電

「地上の太陽」ともいわれる次世代の原子力発電構想です。重い原子核を軽い原子核に分裂させることが核分裂発電ですが、水素などの軽い原子核を光速で衝突させて重い原子核に融合させ、その際のエネルギーを取り出す発電方式です。実現すればエネルギー資源の枯渇はなくなり、どの国も無尽蔵にエネルギーを使えるとされます。

しかし核融合反応は高エネルギー状態でしか起こらないため、核爆発を内部に閉じ込めることができる特殊な融合炉が必要です。日本も参加した国際共同研究をフランスの実験炉で行なっていますが核融合の安定化はできていません。

 

スマートグリッドシステム

これまでは発電方式について述べてきました。電力全体の発電量から見ると自然エネルギー発電は数%です。殆どを火力発電に依存している状況で、自然エネルギー発電への転換は荒唐無稽だという意見は多いです。

しかしここで考えたいのは、そもそも何故これだけの電力が消費されているかということです。人々が活動する日中の電気消費量は増え、夜になると減りますが、発電所はエネルギー効率のために夜間も昼間と同量に発電しています。また、エネルギー量を考える場合、発電以外にも送電コストや燃料の輸送コストを含める必要があります。そして日本国内は生産人口の減少によって消費電力全体が減るのです。

東日本大震災の際には電力供給が追いつかず、各地で計画停電を実施しました。発展途上国には多くの日本企業が工場を作っていますが、それらの地域は1日に何度も停電します。日本では停電が起きないように発電所の供給電力は需要を上回っているのですが、もしも日中の計画停電に地域住民が同意すれば、全体の発電量は1-2割減らせます。

本来私たちが取り組むべきは節電なのです。とはいっても家庭の電気をこまめに消すという話ではありません。契約しているアンペア数そのものを落とすのです。企業も同様に、アンペア数を落とした上でオフィスの照明や冷暖房をコンピュータ上で管理することで生活に支障をきたさなくても節電出来ます。このように電気が必要な場所と不必要な場所をリアルタイムで確認し、コンピュータで必要箇所にのみ電力を供給する方式がスマートグリッドシステムです。

 

「自由」とは何か

ストレスの多い現代社会は、誰もが仕事や人付き合いに振り回され「もっと自由になりたい!」と思います。しかし「自由」とはそもそも何か?今回は自由の意味を考察します。

 

忙しい社会

現代人の毎日は忙しく、社会人であれば仕事、

家庭に入れば家事育児、子どもであれば学習塾や習い事に追われています。成長とは一定の時間内により多くの成果を出すという定義が社会に浸透しているため、向上心の高い人ほど空いた時間に予定を詰めます。

しかし「忙」という漢字は「心を亡くす」と書くように、忙し過ぎる状態では自分が本当に何をやりたいかも良く分かりません。自分が望む状態と今の行動に食い違いが大きければストレスは蓄積し、限界を越えればストレス障害として発症します。

特定の企業に所属せず、パソコン1台でいつでもどこでも働けるノマドワークが注目されたのは、社会人の自由願望の現れです。ストレスの蓄積を避けるために精神的な余裕を持つことは必要ですが、それは自由の実現によって得られるものなのでしょうか?

 

自由の刑

フランスの哲学者:ジャンポール・サルトル実存主義(「世界」と「私」が存在する意味を追求する哲学派)の代表者です。サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と提唱しました。自由の刑とは、自分が生きる意味は自分が行動して見出す必要があり、行動して人類全体に影響を与えた責任が問われるということです。キリスト教の教えが浸透していた時代には、自分が生きる意味は神のためでした。どう生きれば良いかは聖書の教えに従えば良かったのです。

しかしその教えを説くキリスト教会は、組織が拡大する中で国家権力との繋がりを深めていました。キリスト教会は信者から教団本部に布施を集める強力な集金システムがあります。豪華絢爛な寺院が作られる傍で庶民が餓死している状況は、人々に神を信じても救われないと理解させるに足りました。

中世以降のヨーロッパ各国では政治と宗教の分離、科学と宗教の分離が起こり、キリスト教の教理にとらわれない「自由」な構想によって、政治経済・科学・社会制度が整えられます。人々は神の教えを実践するよりも自由を得ることが幸福に近いと考えるようになり宗教離れは加速しました。しかし、人々が神を放棄しすれば、神は「自分が生きる意味」を与えてくれないのです。

 

「異邦人」の自由

サルトルの盟友であるアルベール・カミュは、代表作「異邦人」の中で、自分が行動する理由を自分自身にのみ決定する人間を描いています。主人公の行動は倫理観が全くなく、読者から見ても理解不能ですが、それは自分の人生の解釈は自分だけの自由であるとする主人公の生き方です。主人公は神の赦しを否定して死刑に臨むのですが、それが誰に危害を与えても、誰からも理解されなくても自分の自由を守るのだという「自由」を突き詰めた姿なのです。

 

自由と社会規範

人間は一人一人が自由に生きる権利がありますが、自分が他者に与えた影響に対して責任が伴うので、法の下の自由は「公共の福祉」に反しない限り認められています。

表現の自由があっても故意に他者を傷付ける発言は許されないですし、恋愛の自由があっても不倫は社会的に許されません。どれだけ暑くても公然で裸にはなれないですし、お店で写真を撮りたくても被写体の管理者の許可が必要です。公共の福祉と個人の自由とのバランスを取るために法律や倫理などの社会規範はあります。そうした社会規範の上に、会社や地域など自分が所属する集団独自の規範が乗せられます。規範を守らなければ集団から追放されますので、私たちの自由は他者が作ったルールによって大きく制限されています。

 

自分の自由の目的

それでは社会集団に所属せずに生きることは自由なのでしょうか。普段は忙しい社会人が、休日を寝るだけでいることは多いです。疲労回復が目的で積極的に寝ることは充実した時間の使い方です。しかし大半の人は休日にやる事がないから、寝るかインターネットで時間を潰して後悔するのではないでしょうか。

例えば不登校ニート状態の人は毎日が完全に自分の自由時間です。ですが目的のない自由はやる事がないため時間は全て暇になります。すると彼らのやる事は生きる時間全てを暇つぶしにあてるということ。仕事や勉強をしていればその間は思考力を仕事や勉強に使います。しかし目的のない自由はゴール地点がどこにあるか分からないため、思考は空回りします。そこに「自分が生きる意味」が問題になるのです。

目的もなく他者との繋がりもなく時間を潰しているだけという状態は、人間から自信を奪います。自由を手にしているはずなのに、その自由を使う目的がないという逆説に苦しむのです。

 

自己管理は難しい

フリーランスの仕事を選ぶ理由として、自分の時間を他人に管理されることが嫌だという動機がありますが、自分の時間を自己管理することは意外に難しい作業です。

夏休みの宿題を終わらせる作業で例えると、毎日一定時間で課題をコツコツ進める人は少なかったはず。大半の人は中盤まで課題に手を付けずギリギリになって焦るタイプです。時間に余裕があると思えば、問題を先送りするのです。大人に成長してもこの傾向は変わりません。

例えば喫煙者が禁煙を考えるときは「今度こそ禁煙しよう、でもそれは今日じゃない。」と考えます。人間にはタバコを止める自由が選択肢としてあるのに、自分の意思だけで禁煙することは難しい。

時間の使い方も同じ問題を持っており、自分の意思で時間を管理することには休日でも決まった日課をこなすだけの自己管理能力が必要です。一般の人はそれが出来ないからこそ、気分が乗らなくても学校に行き、会社に行くのです。時間を他者に管理されていた方が一般人は有能に動けます。

 

自らに由る

仏教の世界観は、秩序立って見える世界は不変ではなく、認識を変えれば精神は自分を苦しめる思考から自由になるというものです。「由」とは心の拠り所を意味しており、「自由」とは「自分の認識を精神の拠り所にする」ことです。これは「自分が生きる意味」は神や他者にあるにではなく、「目標とする自分」にあることを意味しており、目標達成のためには他律ではない自律の考え、即ち自分ルールを守ることが必要です。

 

自分のルールを守る

要するに自由とは自分が好き勝手に生きることではないのです。好き勝手に生きた時間を無駄にしたと後悔するのは、他ならぬ自分なのですから。人には職業選択の自由言論の自由もあります。しかしその自由が「在るべき自分」を意味しているなら、無責任な仕事や言動は周囲に混乱を招くだけで「在るべき自分」から遠ざかっています。人は何よりも自由を得るために自らを律する必要があるのです。

自由とは何か?それは在るべき自分を生きるために、他人が決めたルールを退け、自分が決めたルールを厳守することなのです。

 

異邦人 (新潮文庫)

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臭いけど旨いもの

夏場は食品が腐り易く、家庭や飲食店が苦労する季節です。食料品の消費期限は余裕を持って設定されていますが、腐りかけた食品は細菌やカビが繁殖しています。

サルモネラO-157ウェルシュ菌などは食中毒の危険が高い上に、菌の毒素は加熱しても分解されない事もあります。危ない食品は安易に火を通さずに廃棄することをお勧めします。今回は何故食品は腐るのか、細菌発生の原理を解説します。

 

細菌学の父:パスツール

細菌とは自然界や他生物の体内に生息する目に見えない微生物であり、動物より植物の仲間です。顕微鏡の発明により細菌の存在は証明されましたが、19世紀まで細菌は空気中から自然発生すると考えられていました。

フランスの細菌学者ルイ・パスツール(1822〜1895)は白鳥フラスコの実験で、加熱処理した食品に空気中の雑菌が入らなければ食品中に細菌は発生せず、腐敗しないことを証明しました。彼は生物は自然発生しないという生物学の基礎原理を証明し、腐敗の原因は細菌汚染であることも証明しました。

医療現場にも病原体を消毒で遮断するという概念が導入されたことで、当時は死亡率30%と言われた外科手術は、死亡率5%以下に改善したのです。パスツール狂犬病予防接種の開発など医学分野でも大きな功績を残しています。

パスツールはある時、ワインが発酵せずに酢酸になってしまう原因解明を依頼されます。顕微鏡でワインを観察すると、通常のワインに酵母菌がいること、酢酸化したワインには乳酸菌がいることを発見しました。食品の化学変化は微生物によって発生する大発見だったのです。パスツールはワインや牛乳に低温殺菌法を用いることで腐敗や酸化を防ぐ技術を確立しました。

 

細菌と生物の腐敗

生物は生きている状態では、細胞内に様々な化学変化が起きており、細菌が侵入しても免疫細胞によって排除されます。口の中や腸内には大量の細菌が生息していますが、宿主生物が生きている限り細菌は生体で大繁殖はしません。

一方で、傷口を不潔な状態で放置すると外部からの細菌侵入を食い止められず、体内の免疫力が負けてしまうことがあります。これが敗血症であり、身体中に細菌の毒素が回るため致死率が高い危険な状態です。腐った組織は二度と戻らないため切り取らなければなりません。糖尿病性壊疽や蛇毒性壊疽で足先などの組織が腐ると、毒の巡りを防ぐために足を切断しなければいけないほど、腐敗とは死に近いのです。

 

生物が死んで腐敗するとは、食べ物が糞便になったと考えると分かりやすいです。便は体内に吸収出来ない食べ物の残りカスを排泄していると思われがちですが、実際には死んだ体内細胞の集まりであり、茶色なのは赤血球が死んだ色です。生体は蛋白質を分解した毒素を尿として排泄し、死んだ細胞を便として排泄するからこそ生きていられるのです。死んだ細胞は化学変化せず、免疫機能もありません。しかし栄養成分は豊富なため、便中の細菌は大繁殖し便を分解して土に還します。

死体も基本は同じです。生体活動の停止によって内臓や筋組織は消化酵素によって液状に溶かされます。そして活性化した体内の細菌によって食い尽くされます。

 

蝿と蛆の食事

蝿は腐った食品や死体に集る昆虫として嫌われていますが蝿は何故腐った物を食べるのか、それは独自の消化能力にあります。蝿は口吻というストロー状の器官から消化液を分泌し、食料を溶かしてから吸い込みます。そのため腐敗によってある程度分解が進んだ死体は、消化吸収し易いのです。

蝿や蛆は細菌に対して独自の抗生物質を持っており、腐った物を食べても生きられます。蛆の食性を利用して、糖尿病性壊疽にはマゴットセラピー(腐敗組織を蛆に除去させる治療)が行われています。

 

腐った食品は食べられるか

蝿などの昆虫に限らず、多くの生き物は腐った食料や排泄物を食べることが出来ます。野生環境では食料や水が得られる保障がないため、身体の免疫機能をあげて細菌や毒を含む食料や水でも吸収出来る体質になっています。

東南アジアの河川にはコレラ赤痢菌が大量にいますが、現地民は飲料水にできるほど抵抗力が強いです。現代人には腐った食品を食べるなど考えにくいことですが、日本は高温多湿の気候で食品は腐り易く、日本人は昔から食品の保存に悩んできました。細菌発生を防ぐために塩漬けや燻製、乾物などの保存方法が生まれましたが、それとは逆に敢えて食品に細菌を発生させる方法も使われます。それが「発酵」です。

 

腐敗と発酵

腐敗と発酵は、どちらも食品を微生物が分解する過程であり、人間にとって毒になるものが腐敗、人間にとって栄養となるものを発酵としています。発酵食品の内部は酵母菌や麹カビが大量発生している状態なので腐敗に進みません。

そのため味噌や酒類に消費期限はないのです。食品の冷蔵技術が進歩し、いつでも食料が手に入る現代においても、発酵食品は大量に生産されています。それは発酵で食品を分解することで、従来の食品にはない独自の旨味成分が発生するからです。

蛋白質は分解・合成することで様々なアミノ酸が出来ます。このアミノ酸が旨味成分であり、大豆の発酵食品である味噌や醤油、納豆などがあります。味噌と醤油は麹カビが発酵しますが、納豆は納豆菌が発酵します。納豆菌の発酵臭は腐敗と似ているため、臭くて食べられない人は多くいます。一方で好きな人には旨味成分が美味しく感じられます。

動物性蛋白質の発酵食品としてヨーグルトとチーズがあります。ヨーグルトは穀物が取れない中央アジア地域では特に重要な食品であり、ヒンドゥー教では神々への捧げ物として扱われます。乳糖を乳酸菌が分解して出来るヨーグルトは腸内環境を保つ働きが強く、パキスタンブルガリアなどの地域は高度医療がなくても長寿の人が多いです。

チーズは牛乳や山羊乳の蛋白質酵素で固め、青カビや白カビで発酵させた食品です。カビ臭さが強烈なチーズは好き嫌いの分かれる食品ですが、世界中に愛好家がいます。

魚類を発酵させた食品は腐敗と変わらないほど臭いが強烈であり、好む人や地域が限られるために一部にしか出回りません。くさやの干物や琵琶湖の鮒寿司などが知られています。スウェーデン産のシュールストレミングは世界一臭い缶詰として有名です。ニシンを乳酸発酵させた食品ですが、屋内で開封すると臭いが取れなくなります。

 

酒と酵母

米や麦などの穀物酵母菌で発酵させた食品が酒です。アルコールには脳を麻痺させて多幸感をもたらす作用があるため、人間にとって酒は大切な飲み物になりました。人類が麦の栽培を始めたのはビールを作るためだったとも言われるほど農耕と醸造の歴史は関係が深いです。

初期の酒造りは酵母菌の存在が知られていなかったため、穀物に天の恵みがもたらされるのを待つという状態でした。映画「君の名は」に登場する口噛み酒は米を咀嚼して唾液中のアミラーゼで分解し、空気中の酵母菌の着床させるという方法で造られます。

酒造りの始まりは酵母菌次第という神の頼みであり、そのため醸造した酒を地域の神社に奉納する慣習が現代まで続いています。酵母菌や酒樽の管理が進んだ現代でも、酒造りを完全にコントロールすることは出来ていません。

 

 

愛情と殺意の本能

今回は愛情と殺意の関係を考察します。両者は対局にあるようで、人間社会の基本はこの2形態しかありません。

 

殺人と戦争

日本国内での殺人事件は年々減少しており年間300件程です(2012:警察庁)。これが1950年代には2000件前後となります。しかし殺人事件とはあくまで私情であり、殺す相手も基本的に一人です。これが国家や政治組織単位での殺人=戦争や内戦になると、犠牲者は数百万人になります。戦争は殺人に国家のお墨付きが出ますから基本的に歯止めがかかりません。普通に考えれば人を殺すことはとても恐ろしいことです。なのに国や家族などの共同体を守るという名目があれば人間は恐怖も倫理も易々と越える。そもそも人間は何故他人を殺したいのか?それは殺戮本能の働きによるものです。

 

アインシュタインフロイトの見解

1932年、国際連盟の誘いに応じた物理学者アルバート・アインシュタインは、一番対話したい人物として精神分析学の創始者ジクムント・フロイトを指名し、「人間は何故戦争をするのか」を尋ねました。両者の見解は一致しています。戦争の原因は経済格差や宗教対立などといわれますが、こうした理由は後付けです。人間は本来「他者を殺したい」欲望に動かされているために戦争を正当化する理由を持ってきているのです。宗教や法律、倫理において殺人を禁じているのは、禁止しなければ人間は勝手に殺し合いを始めるからです。

 

殺戮本能の起源

私たち人間:ホモ・サピエンスは、数百万年前にチンパンジーなどの類人猿と別れた存在です。ジャワ原人北京原人ネアンデルタール人など他の原人族は絶滅しており、アフリカの黒人からアラスカのイヌイット族まで、全く異なるように見える人種もDNAを辿ると数万年前は全て一つの人類種であったことが分かっています。他の原人族が何故絶滅したのかは人類史の大きな謎です。

ホモ・サピエンスが他の原人族や類人猿と何が同じで何が異なるか、人類学や霊長類研究はそれを解明するための学問ですが、一つ分かっている事として、高度な社会性を持つ動物は社会集団を保つ手段として同族殺しを行うのです。

 

 チンパンジーの殺戮社会

チンパンジーは人間とのDNAが99%同じである類人猿です。人間の3歳程度の知能を持っていますが性格は極めて凶暴です。群れは一頭のオスに数頭のメスが連なる一夫多妻制であり、弱いオスは群れに入れず子孫を残せません。群れのオスが余所者に負けると群れのオスは交代しますが、以前のオスの間に誕生した子どもは新しいオスによって全て殺されます。

メスは子どもを抱えている間は妊娠出来る状態ではないので、オスが自分のDNAを残すためには他のオスの子どもを排除するしかありません。群れの中には1位、2位、3位などの個体としての序列があり、序列の高い個体に歯向かえば殺し合いになります。厳しい野生に生きるチンパンジーにとって「弱肉強食」が集団を保つための戒律なのです。

 

人間の戒律社会

ホモ・サピエンスは集団内部の私情による殺人を戒律で禁止しています。もしも人を殺せばその人物はアウトロー(破戒者)として集団から排除されます。現代においても殺人犯を刑務所という社会の外に置くという構図は同じです。

しかし、集団と他集団の殺し合いは公共の意味合いを持つため基本的に推奨されています。南米アマゾンやパプアニューギニアの原始部族は数千年前から近隣の部族と戦争しています。部族社会であるアフリカ諸国も常に紛争状態ですし、戦争と決別すると主張している先進国が、最も強力な軍隊を配備しています。

法律や戒律とは社会集団内部の合意事項であるため、外部の集団には適用されません。国際法には戦争そのものを禁止する規定がなく、他国と交戦する場合は戦線布告などの手続きを行うことが定められているだけです。

 

ボノボの愛情社会

ボノボ(ピグミーチンパンジー)はチンパンジーの亜種属です。体格が小型である以外にチンパンジーと外見上の違いがないのですが、性格が全く違います。集団内部で揉め事が起きた場合、チンパンジーは殺し合いにより解決しますが、ボノボは性行為による愛情確認によって解決します。多くの猿属は集団のコミュニケーションを図るために毛繕いを行いますが、ボノボはオスとメスだけでなく、オス同士・メス同士でも違いの性器を愛撫する行動が見られます。

生物にとって性行為とは生殖のみを目的としています。しかし人間は子どもを作る予定がなくてもセックスすることを当然としている。性行為をコミュニケーションの一環として行う生物は、人間とボノボだけです。

 

本能のあるべき姿

生物は他の生物を殺して食べなければ生きていけません。現代人にとって食肉とはスーパーの商品ですが、野生の生物や原始部族にとっての食肉とは他生物の命そのものです。生きるために殺すこと、殺戮本能は動物たちが生きるために身に付けたものです。

そして次世代を生かすためには愛情本能が必要です。基本的に生物は愛情と殺意の本能を宿していますが、高度な社会性を維持する必要があると、愛情と殺意を仲間集団にも適用するようになります。チンパンジーとボノボは最も人間に近い存在です。人間は社会を維持するために両者の本能を引き継いでいるのです。

しかし本能のままに行動しても集団は維持出来ない。ホモ・サピエンスは数万年の歴史で試行錯誤しながら様々な社会集団の規範をつくりました。そして現代まで残っているのが、戦争でのみ殺人を認めること、性行為を結婚したカップルにのみ推奨することです。これ以外で殺戮と性行為を行うことは、法律で禁止されているいないに関わらず、どの社会集団でも公に認められません。

自分の幸せのために他人を犠牲にしても良いという考えを誰もが知らずにしています。性行為を婚姻・カップル関係に留める必要性は誰もが「常識」として知っているのに、誰も守る気がありません。社会規範と本能の関係を両立させるためには、人間社会の制度は発展途上なのです。

 

 

 

孤悲の話

 映画「君の名は」の記録的ヒットにより、新世代の映像作家となった新海誠監督。今回は2013年に製作された「言の葉の庭」を解説します。

 

言の葉の庭

言の葉の庭

 

 

愛よりも昔、孤悲の物語

都内の高校生タカオは、雨の日には1限目の授業をサボり、新宿御苑の東屋で靴のデザインを描いている。彼は靴職人になる夢を抱えていた。ユキノは雨宿りに来る年上の女性。仕事をしている様子もなく、日中からビールとチョコレートを摘んでいる。梅雨の季節に二人は出会い、雨の日に時間を共有していく中で、互いに惹かれあっていく。ユキノは「人生を上手く歩けなくなった」と語り、タカオは「歩き出せるような靴を作ることが夢だ」と語る。

梅雨が明けて、二人が雨の日に会うことはなくなった。ある日タカオは、ユキノが高校に来ている場面に遭遇する。国語教師だったユキノは、学級崩壊と生徒からの中傷に耐え切れず、ストレスから休職中であった。味覚障害によりチョコレートとビールしか口に出来ない自分、出勤しようとしても恐怖で学校に行けない自分、既婚者と密かに交際していた自分、乱雑な部屋に帰るユキノは自分自身を許せず、社会から取り残された孤独を感じていた。自分を深く詮索せずに側に居てくれるタカオの存在は、

ユキノにとって救いでもあった。

晴れた日に再会した二人は、通り雨に逢いユキノの部屋に入る。タカオの作る食事に味覚が戻ってくるユキノ。今の時間が一番幸福だと感じる2人。タカオはユキノに告白するも、ユキノは教師と生徒という立場から一線を引く。ユキノの立場と心情を理解したタカオは、ユキノの部屋を出ていく。ユキノはこのままタカオと別れれば、自分は大切な支えを失うことに気づき、靴も履かずにタカオを追う。

階段の踊り場で呼び止めるユキノに対して、今度はタカオが一線を引くために拒絶する。「俺はあなたのことが嫌いでした。いい大人が昼間からビール片手に仕事をサボって。本当はあなただって、俺のことをガキだと思っているだろ。叶わない夢に縋り付いてるって、そう言ってくれよ!」

タカオは靴職人の夢を追いながら、誰も応援してくれないことに孤独を感じていた。彼もまた、靴を必要としているユキノの存在が救いだった。お互いを必要としながらも、「孤独の悲しみ」を抱えていると理解した時、2人は激しく抱擁し泣き合う。

結局2人はそれで別れたが、それはお互いが自分の道を歩く為であった。ユキノは故郷の高校で教壇に立ち、タカオはユキノのために第1号の自作の靴を作った。

 

言の葉の意味

「言」とはこの世界全体を意味しています。しかし全体といっても、人間一人が認識出来るのは自分が生きている空間と他者との関係性だけです。全体の中から自分が見えている世界を分節するために、個々の物や現象、自身の感情に名をつけていく。大きな樹から葉が伸びているようなイメージで個々の事象を名付けることが「言葉」です。

言葉は世界を理解する上では不可欠なものである反面、「言」の一部を切り取っているため、残りの要素が見えなくなります。映画の世界は雨の中の2人であり、外部の世界とは分節されている。本来は主人公2人の周囲では別の人間関係と物語が動いているのですが、「言の葉の庭=雨の中の東屋」の世界にいるのは2人だけです。背景の雨は外部の世界を隔離し主人公に焦点を当てる働きもありますが、外界との繋がりがない孤独な世界の心象でもあります。「自分の心には孤独の悲しみの雨が止まない」のです。

 

孤独の悲しみ

万葉集は奈良〜平安時代の和歌を編纂した書物です。当時の日本人は庶民から貴族に至るまで異性との関わりが限られており、和歌を交換することが唯一の交際手段でした。この時代は大陸から伝来した漢字を日本語に当てており、現代の「恋」にあたる言葉を「孤悲」と表現した和歌が27編あります。逢いたくても会えない悲しい感情、見えない相手を思う気持ちを言葉に託すことが「孤悲」だったのです。

和歌には表現手法として、掛詞が取り入れられます。意味が2通り取れるような内容を短い言葉に託すのですが、この映画自体が「淡い恋物語」と「言葉を介して他者に救われる」という2重性を持っています。

 

言葉と心の2重性

タカオがユキノを「嫌い」だと言ったのは、ユキノの立場を踏まえて一線を引くために、本心とは逆の言葉を出しています。本当はユキノが好きだけれど、好きだからこそ相手を尊重しなければいけない。次にタカオは「叶わない夢に縋っていると言ってくれ」と話します。タカオは靴職人として自立することの難しさを感じています。そんな彼にとってユキノは靴を作る夢を応援してくれた唯一の人です。ユキノから否定されれば、彼はユキノのことも、夢を追うことも諦めがつく。これは彼の本心そのものなのです。前半は本心を偽り、後半は本心を現しているという台詞の2重性です。

一般に恋愛物語は、「愛してるよ」という言葉は愛する気持ちから出ています。ですが現実では、「愛してるよ」という言葉を、相手を都合よく繫ぎ止めるために使っていることは多いのです。言葉は心と一致してこそ意味があるのに本心を隠すために言葉が使われている。言葉は心を素直に映す訳ではなく台詞の意味を理解するためには物語全体を見る必要があるのです。

 

独りなのは自分一人ではない

タカオにとってユキノの印象は謎めいた大人の女性です。しかしユキノは「27歳の私は15歳の私と比べてちっとも大人じゃない」と感じています。ユキノにとってタカオは自分の夢に邁進する明るい好青年であり、かつての自分の姿でした。しかしタカオは、自分が叶わない夢に拘っていると感じています。彼らは自分にはない相手の魅力に惹かれているのに、相手にとっての自己イメージは全く異なる状態なのです。

これが「孤独」の世界です。タカオの言葉によってユキノは、夢に邁進する彼が、本心では孤独に苦しんでいたことを理解し、自分も社会から取り残された孤独に怯えていたと告白しています。

「孤独」とは自分を理解する人のいない悲しみです。ですが相手も孤独を抱えていたということを知れば、「孤独感を分かってくれる人」が出来ればもう独りではありません。ユキノは「私はあなたに救われた」と語ります。

これは心理の集団療法に使われる手法と同じです。精神疾患を抱えたていたり、犯罪被害にあった人や家族は、世間の偏見から誰にも心の傷を話せない孤独を抱えます。周囲の人から同情は貰えても共感してもらえない。ですが、同じような経験をした人であれば、本心から苦しみに共感してくれるのです。自分の体験は自分一人のもの、でも同じような苦しみを抱えている人がいる。自分の弱さを許してくれるという支えが、回復への力となるのです。 

2人は淡い恋をして別れますが、特に結ばれる必要はありませんでした。「言葉を介して救われた」経験が2人の孤悲を癒したからです。

障がい者と生きること

2016年7月26日、神奈川県相模原市の重度障がい者施設が襲撃され、19名の入居者が殺されました。あれから一年経過した中でも、事件は社会における障がい者の立場に重い宿題を残しています。それは容疑者の犯行動機に少なからず理解を示す人々が存在しているからです。

 

障がい者と健全者の立場

事件で犠牲になった方々は、匿名でしか報じられていません。その人たちには固有の名前があり人生があります。ですがそれを報道すれば遺族に対して「被害者が施設で生活しているのは家族が面倒を見きれないからだろ?結局障がい者を見捨てたのは同じだ」「生まれてから働くことはおろか一言も話してない、その人生に何の意味があるの?」などの意見が全国から殺到してしまうのです。

 

障がい者には障害年金や各種手当が保障されます。そして財源は健全者が労働して納めた税金から出ている。発展途上国には物乞いするために自分の手足を切断して障がい者に「なりたがる」人もいます。自らは働かずに社会保障だけ受け取る障がい者は、不当に富の分配を受けているフリーライダー(タダ乗り)だとする意見は確かに一理あるのです。

給与が生活保護の水準であったり、逆に高所得であるため大半を所得税に引かれる立場の人は、富の分配は明らかに不適切だと不満に思っています。彼らにとってフリーライダーは不当に得をしている人間であり、障がい者の福祉とは自分の富を削る口実に思えてしまう。「障がい者はいない方が自分たちの金と時間と労力を浪費しなくて済む」と考えている人々が、この社会には一定の割合でいます。

ですが、人々の障がい者に関する見解が対立しているだけなら話はまだ簡単です。本当は、私たち一人一人の中に、障がい者の権利を尊重する気持ちと、存在を否定したい・関わりたくない気持ちが対立しているのです。

 

容疑者の意見

「常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。
今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。」

 

上記したのは、容疑者が事件前に衆議院議長に送った手紙の内容です。文面からは、障がい者が生きていることは社会にとっての損失であり、社会の負担をなくすためには重度障がい者安楽死させる方が良いという内容になっています。この手紙の恐ろしさは人権を顧みないことではありません。「介助者の残酷な心理」を暴いているからです。

 

障がい者の権利と介護者の立場

生まれつきの重度心身障がい者は、精神発達が子どもの状態で止まっています。介助者が家族であっても施設職員でも、こちらの意思を汲んでくれることはありません。一次反抗期が始まった子どもに向き合うような状態が続いていきます。

通常の育児ですらストレス過多になる親は大勢います。障がい者の介助はその何倍もストレスがかかる。家族も職員も介助者である以前に一人の人間です。嬉しいこともあれば、怒ることもあるのです。「いっそいなくなれば良いのに」と考えることは、介助者であれば当然に感じることなのです。犯人の主張は許せないのに、心の隅で共感している残酷な自分もいる。残された遺族と介護施設職員、そして多くの障がい者の家族は心が張り裂けることに苦しんでいるのです。

人間一人を介護するのは絶対に綺麗事では済みません。誰しも義理の親の介護はしたくないですし、実の親の介護すら出来ない場合も多いでしょう。障がい者の兄弟たちは友人にも家族に障がい者がいることを話せないことが多く、結婚などで離籍する場合もあります。

障がい者に生きる権利はあっても、その権利を保障するためには誰かが時間と労力を払う必要があります。それを家族にだけに負担させれば、家族は自分の時間全てを介護に費やすことになる。それを許容出来るかは当事者に委ねられているのです。

重度障がい児を自宅で育てる親もいますが、生まれてすぐに施設に預けて二度と面会しない親もいます。妊娠中に胎児に障害があると判明すれば、大半の親は人工中絶を選択するのです。彼らは残酷でも自分勝手だからでもありません。悩んで苦しんで、自分たちには介助出来る余裕がないとの結論に達しただけです。

事件が残した宿題は、社会と私たちの心に障がい者に対する思いやりと残酷さという矛盾する感情が存在することを浮き彫りにしました。ですが大切なのは気持ちではありません。残酷な気持ちを抱えながら、それを実行に移さなかった「行動」です。

容疑者は遺族に対して「嘆き悲しんでいるようで、何処かで安心しているだろ」と語ります。それならば多くの障がい者家族は、将来に不安を抱えながらどうして介助を続けて来れたのですか。愛情とは行動でしか示せません。悩みながらも介助を続けてきたということが、どんな意見にも勝る行動なのです。

お金が紙屑になる日

 

ジンバブエの悲劇

アフリカ大陸の南端、南アフリカ共和国の隣にジンバブエという国があります。アフリカ諸国は多民族が統治権を巡って内戦状態にある国が多い中で、1980年にムカベ大統領の下で独立したジンバブエ穀物の輸出と欧米資本の取り入れにより安定した経済成長を遂げ、医療や教育は高い水準を誇っていました。

しかし1992年、南アフリカアパルトヘイトを撤廃して、黒人と白人とアジア移民の民族融和政策を掲げます。それと対照的に、ムカベ大統領は黒人優位政策を掲げ、2000年には土地徴収法により欧米人から農場を取り上げました。

ムカベ政権はジンバブエ国益として、黒人たちが欧米の植民地支配を受けなければ、農場の土地や資源は本来自分たちの所有物だと主張したのです。こうして農場は黒人たちの所有地となりますが、黒人たちには穀物の栽培技術がありませんでした。かつてはアフリカの穀物庫と呼ばれたジンバブエの食料自給率は急激に悪化します。

一方で土地と財産を取り上げられて、ジンバブエを追放された欧米人たちは西欧社会にムカベ政権の無法を訴えました。次いで2007年には外資系企業の株式の半分を黒人に譲渡する法案が成立しています。それまでジンバブエに投資していた欧米人も、株式が没収される恐れがあるため資本を引き揚げました。

こうしてジンバブエは、保有する外貨が殆どなくなり、外国から商品を輸入することが出来なくなりました。その結果起きたのがハイパーインフレです。

 

ハイパーインフレ

インフレとは、お金の価値より物の価値が上がることであり、120円のジュースが150円に値上げされることです。国際為替市場において自国通貨の価値が下がると、同じ額でも購入出来る輸入品は少なくなるため、国内は品不足になります。

原材料が値上げされている上に、商品を必要とする人が多ければ、商品の値段は釣り上がる。こうして物価が上昇します。人々の給与は一定なので、物価が上がれば買える商品は減り生活が貧しくなります。

主なインフレの原因は経済政策の失敗により国債・為替市場で、通貨の価格が下落していることです。しかし、戦争や革命勃発、経済制裁で国家そのものが危うくなると、どの国も支払い不履行を恐れて貿易しなくなります。外国からのエネルギー資源や商品が全く輸入されず、国内が極端な物不足に陥ります。するといくら金を積んでも商品は足らず、物価は天井知らずに上昇する。これがハイパーインフレです。

経済制裁を受けたジンバブエは、国内の品不足によって物価は急上昇しました。朝に買ったパンの値段が、夕方には2倍になっていたというエピソードもあります。2008年には商品価格を強制的に下げる法律が出来ますが、それでは企業の利益が出ないため、国内企業の撤退と倒産が相次ぎます。もはや品不足と物価上昇に歯止めがかからなくなり、2009年にインフレ率は2億%に達しました。100ドルのパンが2億ドルに値上がりしたという状況です。

通貨価値の下落に対応するためにムカベ政権は額面の大きな紙幣を発行しました。それが冒頭に載せた100兆ジンバブエドル札です。一見凄い金額ですが発行当時でも日本円にして30円程の価値です。ジンバブエ政府はその後500兆ドル札まで発行しましたが、結局自国通貨を放棄したため、ジンバブエドルは通貨としての価値を持たない紙屑になりました。

 

国家経済と通貨

一万円札には、一万円までの商品と交換する価値があるという認識を、私たちは当たり前としています。しかし一万円札の製造コストは30円もかかりません。なぜ紙券に1万円の価値があるのか、それは円の価値を日本銀行と政府が保証しているからです。

日本は外国に様々な製品を輸出し、資源を輸入する貿易大国です。その支払いは日本円で行われるため、外国も日本円を外貨準備高として保有しており、日本も他国の通貨を外貨準備として多数保有しています。このように両国間の通貨を持ち合うことでお互いの通貨の価値を担保しているのです。

 

通貨の価値と変動相場制

アメリカ合衆国の連邦準備理事会は、米ドルの価値を担保している機関です。貿易ルールや金融システムが整備される以前の世界貿易においては、各国の通貨にどの程度信用がおけるのかの格付けがなく、唯一確かな価値を持つのは金(ゴールド)だけでした。

そして連邦準備理事会の保管庫は世界一金を保有しており、ドル紙幣を金と交換することを保証したことで、米ドルは世界一信用出来る通貨となり、貿易市場の決済で最も使用されるようになりました。

しかし1971年のニクソンショック(米ドルと金の交換停止)により、通貨の価値はその国の経済力と貿易力、外貨準備高などで分析されるようになります。これにより為替市場では毎日通貨の価値が変わる変動相場制になりました。

関税の撤廃や特許権の制定など、資本主義国の間で経済協定を結ぶと、企業はその国と貿易や投資を行い易くなります。経済活動にはその国の通貨が使用されるので、貿易や投資の拡大は通貨の価値を上げます。日本が環太平洋パートナーシップ協定(TPP)加盟を目指しているのは円の価値を上げる目的があり、逆にアメリカのトランプ政権は自国優先を掲げてTPPを脱退しています。

アメリカはシュールガスの開発が進み、他国からのエネルギー輸入の見通しが減りました。対ドルの貿易赤字が続くアメリカにとって、国際市場におけるドルの価値はある程度下がった方が輸出に有利ですし、2050年までに国内人口は4億人に達すると予測されるアメリカは、内需拡大によって経済ルールを自国優先にしても外国からの投資は見込めるからです。

 

日本円が紙屑になる日

冒頭でジンバブエの事例を挙げましたが、世界史を見るとフセイン体制下のイラク、旧ユーゴスラビア、旧ソビエト連邦第一次大戦後のドイツなど戦争や革命によって政府が崩壊した国は深刻なインフレとなり、政府による信用を失ったお金は紙屑となっています。1997年のアジア通貨危機の際にはタイ王国と韓国の通貨が暴落しており、南米アルゼンチンは1989年と2001年に国債債務不履行となりました。

日本でハイパーインフレが起きたのは、太平洋戦争の敗戦によりアメリカの占領下に入った時です。敗戦国である日本円の価値はなく、どの国も貿易しないため国内は極端な品不足になりました。米軍の物資を横流しした闇市が乱立し、国中に浮浪者と餓死者が溢れた時代です。それから70年、貿易大国となった現代の日本では円の価値は不変に見えます。しかし人口減少による内需の縮小と生産力低下、国家財政の半分を国債に頼っている財務状況で、為替市場における円の価値は低下しています。円安が進むことでアジア圏からの訪日外国人が増加する利点もありますが、石油を始めとするエネルギー資源を輸入に依存している日本経済の貿易赤字は拡大しています。

最大の問題は、国債を国内銀行だけで買いきれなくなり、国際市場での格付けが下がることです。日本国債を他国が買ってくれるうちは良くても、国債の発行残高は増える一方なのです。返す見通しが立たないのに借金を増やしていると評価されれば国債の価値は暴落し、円の価値も暴落する危険があります。

企業の株式の価値は企業利益によって決定し、株式市場で評価されます。企業が倒産すればどれだけ値段の高い株も紙屑になります。事情は国の通貨でも同じなのです。お金の価値を保証しているのはあくまでもその国の政府です。政府が崩壊したり他国から見限られればその国の通貨は価値がなくなる。過去には実際にあったことであり、これからの未来に起こらないとは言い切れないのです。