バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

恐怖の正体

誰もが経験する「怖い」という感情は「関わりたくない」と「味わってみたい」という相反する二面性を持っています。何故人間は恐怖を感じつつも、恐怖体験を求めるのか、恐怖の正体を考察します。

臆病な遺伝子

人間を始めとする高等生物は、喜び・悲しみ・愛情・怒り・嫉妬・孤独など、様々な思いを感じて生きています。意識は感情と結びついており、人間の行動は感情の決定によっている。「感じる」ことは生きることと同じだけの意味を持っています。そのため感情を持たない人工知能には生きている概念がありません。人間の場合でも、うつ病など脳が強いストレスに晒されて感情が想起されにくい状態では、生きる意欲も極端に低下しており、自殺リスクが高いのです。

全ての生物は知能の高低に関わらず「生きたい」という感情:生存本能を持っています。生きるためには食物からエネルギーを得る必要があるため、「食べたい」という食欲は最も基本的な欲求です。草食性動物は草木から炭水化物を得ていますが、肉体を構成するタンパク質は微量なので、一日中大量の草木を食べる必要があります。そのため一部の動物は、効率的に栄養を取るために他生物を喰い殺す肉食性に進化しました。

自然界の生態系サイクルにいる生物たちは、強い肉食動物に追われる立場です。外敵から身を守るには、危険を察知して素早く逃げる必要がある。弱肉強食と言われる自然界ですが、強い動物であっても身体に傷をつくれば細菌感染による壊死や失明で簡単に死んでしまいます。生き残るために必要なのは立ち向かう強さではなく、危険を避けたい臆病な心であり、「恐怖」とは食欲と同じく生存に関わる感情なのです。

 

恐怖の対象

恐いものは何かと考えた場合、一般的には死霊やゾンビなど、「死の概念が具現化したもの」が浮かびます。生物は生存を脅かすものに恐怖を感じますが、感情機能が複雑な人間は様々なものが恐怖の対象になります。

1:生命を脅かす存在

ライオンやクマなど、人間を襲うこともある大型肉食獣も恐いですし、蜂や蜘蛛などの毒性虫も恐怖を感じます。また銃や刃物など、殺傷能力のある武器も脅威ですし、単純に殺されるより切り刻まれる方が恐怖が増すため、ホラー映画の殺人鬼は電動ノコギリで襲ってきます。

 

2:生命を脅かす状況

現代人が安心して生きるためには衣食住とプライバシーが確保された生活空間が必要です。災害や戦争などで、生活環境が破壊されることは深刻な恐怖となります。災害大国である日本では、津波や土砂崩れに巻き込まれた経験のある人々も多く、危機管理体制が繰り返し問われています。そして危機管理とは正に、災害がどれだけ恐ろしいのかを知ることなのです。

古来より日本では、天災に対する「畏れ(人知を超えた破壊力を荒ぶる神の怒りとする概念)」を持っており、京都の祇園祭(平安時代の祟り神を鎮める祭事)に代表されるように、神社の祭りとは荒ぶる神を鎮める祭事が始まりでした。国内で毎年多数の死者が出ている状況にあって、地震津波・雷・集中豪雨・大雪・火事・火山噴火などあらゆる自然災害に個人で立ち向かうことは無謀です。生き延びるには早く逃げる必要があり、災害の兆候を恐れることは恥ずかしいことではありません。

 

3:日常への侵入者

殆どの人間はゴキブリが嫌いですが、昆虫のゴキブリ属の大半は森林に生息しており、危害はおよびません。にも関わらず私たちが恐怖を感じるのは、「自然」が「私」の領域に侵入するからです。

生物は住処で休んでいる状態が最も無防備であり、外敵を意識なくて良いため緊張が解けています。都市文明の発達と共に、人間は安全を手に入れるため住宅の密閉度を高めてきました。家の中では素足であり、部屋着の状態で生活しています。そこに外部からの侵入者である虫類が出現すると、人間は外部の自然が自分のテリトリーを脅かしていると感じてしまうのです。実害が有る無しに関係なく、侵入者を排除しなければ安心して暮らせません。

良く分からないものを自分たちの領域に入れるのは怖いという感情は、生物としての縄張り本能によるものですが、人間同士の場合では外国人や異教徒に対する拒否感として現れてしまうのです。先進国においても人種差別が根深い問題でなのは、誰を仲間と認める上で「国も肌の色も関係ある」のが現実だからです。

 

4:見知らぬ領域への侵入

他人の領域への侵入者は怖いと言いましたが、逆に自分が他人の領域に侵入してしまった場合はさらに恐ろしいです。パスポートを持たずに言葉の通じない異国に来てしまったような、自分を保護してくれるものが何もない状況では、誰かが襲ってきても、助けを求められないのです。あり得ない話に聞こえますが「拉致被害者」とはそういう状況にあるのです。身近な家庭に置き換えると、夫が味方してくれない妻が、義理の両親を訪ねるような状況です。

 

5:情報監視社会

フェイスブックツイッターなどのSNSが若い世代を中心に広がっています。誰もが気軽に自分の写真や意見をアップ出来る反面、こうした意見や画像が一人歩きする事態も起きています。一般にSNSへの投稿に著作権は認められません。誰もが簡単に複製できることで、拡散するのがSNSだからです。

そのためSNSに写真を投稿する場合、被写体の肖像権に配慮することが必要です。写真にはGPS機能がついており、投稿を辿ればその人がいつ何処で誰と一緒であったか、一瞬で検索出来ます。探偵の尾行で1週間かかる身辺調査が、一般人でも数分で出来てしまうのです。

別れた恋人の投稿をSNSで検索する程度なら通常の使用範囲ですが、ストーカー化した場合、SNSの投稿によってその人の行動は全て監視されてしまいます。投稿を見られたくない人間がいる場合は、過去の投稿も含めて全て消去した方が安全です。

ツイッターは誰もが気軽に意見を呟けるSNSですが、仲間内と会話する感覚で他人を中傷している人もいます。自分のツイートは仲間内にしか公開していないと安心しているのかもしれないですが、ツイートの転載は個人ブログでも掲示板にも簡単に出来ます。

最も危険なのは若い頃の悪自慢をして、過去の違法行為を書き込むことです。「現在の地位が高い奴ほど過去の違法行為やモラル違反を暴き立てて、地位から引きずり降ろすのが面白い」大手マスコミをはじめ、メディアとは大衆のルサンチマン(強者に対する鬱屈)を晴らすことが正義であるという基本方針があります。それは一般人も同様であり、反社会的な投稿が炎上すると、投稿主が削除しても攻撃を続け、過去の投稿を遡って投稿主の実名や住所を特定するケースもあります。

悪い事を追求することの何処が問題なのか?と思う方もいるかもしれませんが、相手は私たちと同じ一般人であり家庭を持っていることもあるでしょう。報道被害は当事者の家族にも及びます。その人たちの生活を壊す権利など誰にもありません。ましてや私たち、警察権を持たない一般人が、自分を正義だと考えて他人を追い詰めること自体が恐ろしいことです。