バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

赤坂のプリンス:後編(1945〜2011)

皇家離脱とプリンスホテルの誕生

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敗戦を機に日本はアメリカを中心とした連合軍の支配下となります。日本の軍国主義化を防ぐためには資金源と人員を断つ必要があると考えたGHQは、皇族や華族(旧大名家)の地位を徴収し巨額の資産税をかけます。更に公職追放を行い、日本陸軍と海軍を解体しました。
李垠は陸軍の役職を失業すると同時に、方子夫人も皇家の身分を失ったのです。李王家は戦後数年間を困窮で過ごします。持てる家財は全て売却しますが資産税を払うことが出来ず、最後には邸宅を売るしかありませんでした。邸宅は国土計画興行(現在の西武鉄道グループ)が購入し、西武創業者の堤康次郎社長は高輪や軽井沢旧皇族邸と共にホテル営業を始めます。

1955年、赤坂プリンスホテルが開業しました。初代ホテルは李王家邸宅の洋館を使用し、1987年に新館を建設します。丹下健三氏(近代建築の代表者:フジテレビ本社や東京都庁を設計)の設計により建てられた新館は、旧館とは全く異なるガラス屏風の高層タワーであり「赤プリ」と呼ばれ多くの人々に親しまれました。

李夫妻の帰国
1945年に朝鮮半島は日本の帰属を離れたことで、朝鮮民族は朝鮮国籍に戻りました。しかし日本にいる李垠に朝鮮国籍は与えられないまま、日本国籍だけ失ってしまい彼は無国籍となります。朝鮮の皇子である自分が日本のために働き、利用された挙句に見捨てられた。李垠の心情は伺いしれません。方子夫人だけが、彼の孤独と悲しみを理解していました。国家の思惑に翻弄される運命が、政略結婚で結ばれたはずの夫婦の愛を強くしていたのです。

公職追放され国籍も抹消された李垠は職に就けず、方子夫人の実家である梨本宮家も皇家離脱していたため、生活費を援助する余裕がありませんでした。皇族として邸宅暮らしだった李垠夫妻は、それまで電車に乗ることはおろか小銭を使った経験すらありません。貧困の中で少しずつ生活に慣れていくしかありませんでした。困窮していた李夫妻を援助していたのは、昭和天皇祐仁陛下でした。昭和天皇皇后は方子夫人の従兄弟にあたり、皇族との交流が続いていました。昭和天皇は祖父である明治天皇が李垠の来日を推奨した経緯があるため、天皇家が李垠の運命を狂わせたとも感じていたようです。他にも吉田茂首相をはじめ朝鮮総督府の勤務経験がある政治家たちは、個人的に李垠夫妻の生活を援助していました。

朝鮮半島は併合政策が終わったことで主権を取り戻しますが、臨時政府は中国の上海に置かれており、朝鮮国内に統治体制がなかったため権力の空白地帯となります。日本はアメリカを初めとする資本主義陣営に付きますが、朝鮮半島ソビエト連邦と中国に接しており、共産主義陣営と資本主義陣営どちらを国策とするか決着がつかず、空席となった統治権を巡って内戦となります。1950年に朝鮮戦争が始まり、朝鮮半島は北緯38度の軍事境界線を境に大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に分裂します。


李垠は、駐日特使を通じて韓国政府に自分たちの帰国と国籍回復を何度も要望します。しかし韓国大統領:李承晩(イ・スンマン)は、皇太子である李垠が帰国すれば、国民から王政復古を求める声が上がって自分の立ち位置が危うくなると考えました。李承晩は活動家であった頃に高宗国王の退陣活動をしており、王政こそが韓国の近代化を阻害していると考えていました。初代大統領である現政権は立ち上げたばかりで権力基盤は薄く、王族が支持を受ければ民族は更に分断されてしまう。

独立後の韓国は軍事政権が国民を統制していており、反発する自国民を軍が虐殺する事件も発生しています。李承晩大統領は政権の正統性を示すために、自分たちは大日本帝国から朝鮮民族を解放したことを強調し、反日政策を強化していました。儒教文化圏である韓国は家柄や身分を重視する国であり、李氏朝鮮の正統な皇太子である李垠を国民は歓迎するでしょう。しかし少年期から日本社会で育った陸軍軍人である李垠と、日本の皇族である李方子は反日路線にさし障ってしまう。李承晩政権が李垠夫妻の帰国を認めることはありませんでした。
1961年、李承晩政権は崩壊します。後任の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は日韓国交化正常に乗り出し、李夫妻の韓国籍回復と帰国が認められます。しかし翌年に脳梗塞が再発した李垠は意識が戻らない状態で、1963年に半世紀ぶりに祖国に帰ってきました。方子夫人は祖国の地を踏んだことを李垠に呼びかけますが、彼の意識は戻らないまま帰国から7年後に息を引き取りました。李垠の遺体は准国葬扱いとなり、多くの韓国民に見送られながら祖国に眠りました。


李垠と一緒に韓国に渡った李方子夫人は、夫の死後も日本に戻らずにソウルの昌徳宮で生活します。現地では在韓日本人団体代表として日本人女性の支援活動を行いました。また韓国初の身体障害児学校、知的障害児学校を設立するなど韓国での活動を広げています。日本の統治時代を生きた人々が多数だった韓国社会は反日感情が吹き荒れており、方子夫人は肩身を狭くして暮します。道行く韓国民から非難を浴びても彼女は韓国に留まり、日本には活動資金を集めるために一時帰国するだけでした。1989年、昭和天皇崩御して元号が変わった年に、李方子夫人はソウルで亡くなります。葬儀の沿道には数万人の韓国人が見送り、第2の祖国に眠りました。

赤坂のプリンス
李王家唯一の子息である李玖は、日本の敗戦後にGHQ司令マッカーサーの支援でアメリカに留学します。アメリカは日本の天皇制廃止が出来なかったため、韓国の国民までが王政を支持すると、アメリカの支援を受けている現政権の統治が危ういと考えていました。そのため伊藤博文が李垠を日本に送ったように、李玖をアメリカ本土に送ったのです。

アメリカに渡った李玖はボストン郊外のMIT(マサチューセッツ工科大学)に留学し、現地ではアメリカ人女性と結婚しました。両親の帰国を機に彼も韓国に渡って会社経営や建築学講義をしていましたが、晩年になって経営が傾いた会社は倒産し、妻とも離婚しています。李玖が妻と別れたのは、夫婦の間に李王家の後継となる子どもが出来なかったためとも言われますが、李玖自身は名ばかりとなった王家の肩書きを疎ましく考えていました。「私はすでに李王家の人間ではなく、李玖という1人の人間なのだ」と彼は度々発言しています。

母親である李方子の死後、李玖は生まれ故郷である東京に移住しました。梨本宮家の援助を受けながら渋谷区のマンションに独りで暮します。2005年7月、李玖は赤坂プリンスホテルに長期滞在します。滞在から1ヶ月を過ぎても連絡がつかないことから、梨本宮家の親類がホテルを訪ねてたとき、李玖はすでに心不全で亡くなっていました。ここに李氏朝鮮王家は滅亡したのです。

朝鮮皇子でありながら日本に尽くし、祖国を見ないまま生涯を終えた李垠。

日本皇族でありながらどんな時も李垠を愛し続け、最後は韓国人として生き抜いた李方子。

王族でありながら自分が何者か分からず、最後は生まれた家に戻った李玖。

赤坂のプリンスたちは、運命という言葉が軽いほどに波乱の生涯を生きてきたのです。

 

雪解けは遠く

日本と韓国の関係は従軍慰安婦問題、領土問題ともに平行線を続けています。北朝鮮情勢は核開発を巡って軍事衝突の緊迫を増しています。どの様な形で国際問題を解決出来るか誰も分かりません。古代も現代も文化や人の交流は盛んだった日韓関係ですが、時代ごとに戦争も起こっており関係改善は手探りです。対話努力を続ければ、次の世代には険悪と不信は氷解するのでしょうか。確かなことは、現在よりもはるかに日韓関係が悪かった時代に、国と民族の違いを超えて愛し合い、お互いを理解しようとしたプリンスたちがいたのです。

今日もまた、赤坂プリンスホテルでは結婚式が行われます。お姫様と皇子様になりきって、愛する人と共に生きることを誓うのです。平成時代の終わりに、夫婦となる人々も新たな歴史をつくるのでしょう。そんな時に少しだけ思いを馳せて欲しいのです。この家は激動の時代に愛が生まれた場所なのだと。

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