バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

赤坂のプリンス:前編(1898〜1945)

2011年に解体された赤坂プリンスホテルは、通称「赤プリ」と呼ばれ、1990年代初頭のバブル期を代表するデートスポットでした。跡地は東京ガーデンシティとして再開発され、ホテルとオフィスビルの複合施設になります。

唯一残っている旧館は赤坂プリンスクラシックハウスとして営業し、今日では多くのカップルが結婚式を挙げています。何故この建物がプリンスホテルであるのか、それはここが朝鮮の皇太子邸宅だからです。

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朝鮮併合政策

明治時代、大日本帝国は富国強兵政策の下に欧米先進国に追い付こうと奮闘していました。中国大陸では清帝国アヘン戦争でイギリスに敗れ、ロシア帝国の軍隊が日本のすぐ近くにいる状況です。ロシアと日本の間には朝鮮半島が位置していますが、当時の朝鮮国は清王朝の傘下にありました。朝鮮国を日本側に取り込まないと、敵国は目と鼻先に来てしまう。

こうして朝鮮半島の日本化政策が始まります。1894年の日清戦争に勝利した日本は朝鮮を保護国とし、李氏朝鮮王朝は大韓帝国となりました。しかし日本政府は度重なる交渉で朝鮮の外交権や軍事権を取り上げてゆき、1910年には国家主権を取り上げて朝鮮半島を自国領土にしてしまいます。これが朝鮮併合であり、現代まで根を引く日韓問題のきっかけです。

現代の日本人は、外国から商品を買ったり、逆に外国の顧客に商品を販売することはパソコン1台あれば出来ます。企業が海外展開して、外国でビジネスをすることは当たり前ですが、その当たり前のことが出来るのは、長年の外交努力によって国家間に経済協定を結んでいるからです。北朝鮮のように国交のない国では、通貨の両替すら出来ないのです。

近代まで世界の外交は経済力より軍事力優先でした。日本は自国民の食糧を賄えないほど生産能力に乏しく、農工業生産力を上げるには鉄と石炭の確保が欠かせません。石炭は北海道や九州で採掘出来ますが、炭鉱労働は落盤事故やガス中毒死が日常茶飯事であり、「命を使い捨て出来る」人間を雇い続ける必要があります。恐怖のブラック鉱業が北九州を中心に広がり、朝鮮半島から大量の労働者が海を渡ってきました。鉄鉱石は日本国内で採掘出来ないため、日本政府は中国大陸の鉄鉱山確保のために中国大陸へ進出します。朝鮮併合はそのための足掛かりでした。

国家を豊かにするには外国から資源と労働力を奪う。そのために軍事力強化が必要だというのが富国強兵の発想です。トンデモ政策に見えますが、欧米諸国がアジア諸国を植民地支配し、外国の言語や習慣は良く分からない時代でした。外国政府の腹の内が全く分からず、国家間の信用がなかったのです。

 

李氏朝鮮の皇太子

日本政府は朝鮮の日本化を進めるために、現地民の氏名を日本式に改名させました。公用語としての朝鮮語とハングル文字の使用を禁じ、学校教育は日本語教育が行われます。

そしてもう一つの政策は、民族象徴の日本化です。大日本帝国天皇を中心とする君主政国家であり、日本国民は天皇のために命を捧げると信じていました。一方で朝鮮民族の君主は16世紀から朝鮮国を統治してきた李王家です。朝鮮民族天皇を崇拝させるには、李王家を皇族に取り込めばよい。国家ぐるみの政略結婚が計画され、1916年に李王家皇太子と梨本宮家内親王の婚約が決定しました。

李垠(イ・ウン)皇太子は1898年に大韓帝国の国王高宗の第7王子として誕生しました。初代朝鮮総督である伊藤博文は、李垠が祖国で成長すれば独立派に与することを警戒しており、彼の世話人となって1907年に留学名目で李垠を日本にで送ります。李垠はわずか11歳で、唯一人異国に渡ったのです。1910年、朝鮮併合時に李垠は皇族の身分となり、学習院初等科を卒業後に陸軍士官学校を出て陸軍内の役職に付きます。皇族の身分を持ち陸軍エリート街道を進んでいた李垠ですが、身辺穏やかでありません。1909年に世話人だった伊藤博文が朝鮮の独立派に暗殺されると、日本政府は独立派を厳しく取り締まり、翌年には併合政策を実行します。1919年には父親である高宗が急死しました。朝鮮国王の崩御は日本政府による暗殺説が濃厚であり、3.1独立運動と呼ばれるソウル市民の大規模デモに発展します。日朝両国の立場に挟まれ、身内が次々と死んでいく状況に李垠は苦悩します。自分の逃げ場はどこにもないことを覚悟するしかありませんでした。当時の李垠は人前で殆ど語りません。自分が日本側の人質という立場にあるため、不用意に発言出来なかったのです。それでも彼は「私はすでに朝鮮人ではない。かとて日本人にもなりきれない。結局私の居場所はどこにもないんだ」と周囲に苦悩の本音を綴っています。

梨本宮家の長女である方子内親王は、一時期は祐仁皇太子(昭和天皇)と婚約するとされた皇女です。しかし典医からは不妊症と診断されており、14歳になったある日、李垠との婚約を新聞で知り大変なショックを受けました。親同士の取り決めによる結婚が当たり前だった時代、皇族身分の女性に恋愛結婚などあり得なかったのです。方子は髪を朝鮮式に結い、18歳で李王家に嫁ぎます。1920年に李垠と方子は正式に結婚しました。1921年には長男李晋が誕生し、一家は喜びに包まれます。しかし翌年、朝鮮に一時帰国した際に李晋は生後8ヶ月で急死します。李王家の後継者に日本の血筋は不要と考えた急進派が毒殺したのではないかと噂されるほど、当時の日朝関係は険悪でした。にも関わらず自分たちの結婚は日朝親善のプロパガンダに利用される。李夫妻は誰も信用出来ない状況で、我が子を失った悲しみに耐えていたのです。やがて次男の李玖が誕生し1930年に東京市紀尾井町に新しい邸宅を構えました。それが李王家東京邸:赤坂プリンスホテル旧館なのです。

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李王家東京邸

江戸時代には紀州徳川家の大名屋敷があった広大な土地を分割し、宮内庁の設計師が手掛けた洋館は5年の歳月をかけて完成しました。外見と内装は近世イギリスのチェダー調を採用。迎賓室やビリヤードをする遊戯室、大食堂や多数の客室を備えた大邸宅でした。

 

1931年の柳条湖事件を契機として、日本は中国東北部満州国を建国します。陸軍は満州国を拠点に中国内陸部に侵攻し、朝鮮籍の軍人たちも日本国のために戦争を続けます。李垠も日本国の皇族軍人として陸軍で働いていました。しかし1945年8月15日、日本の敗戦と朝鮮独立の日を境に李垠の状況は一変します。 

(後編に続く)