バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

幸せは権利ではなく義務である

 生きること、それは喜びと悲しみ、自由と孤独

怒りと愛情、日々沸き起こる様々な出来事に対する感情の体験です。

喜びと愛情に包まれる時もあれば、悲しみと絶望で先が見えない時も訪れる。そんな時でもじっと耐えなければならない。生まれつき健康や財力、愛情に恵まれた人もいれば、そうした資質を何一つ持たないで生涯を生きる人々も大勢います。不平等や理不尽が当たり前に存在するこの世界で人は何故生きて行くのか、今回は幸福とは何かを考察します。

 

幸福論 (集英社文庫)

幸福論 (集英社文庫)

 

幸福とは義務

アラン (フランス)は独自の幸福論を説いた哲学者として知られます。高校の哲学教師だったアランは幸福の定義を崇高な哲学ではなく、平易な言葉で解説しました。アラン曰く「幸福とは権利ではなく義務である」

誰もが幸せになりたいと考えても、自分の思う幸せは中々手に入らない。自分も人並みの幸せを得る権利があると考えますが、人は幸せにならなければならない義務があるとしたのです。

「権利」とは自分が受けるもので自分以外の誰かが与えてくれるものです。幸福を与えてくれる誰かとは、恋人、親、或いは国家、哲学的には神のことです。神社に賽銭を入れて神頼みするようなもので、幸福の権利とは誰かが自分を幸せにしてくれるという他力本願な考えです。

「義務」とは自分が果たさなければいけないものです。努力も苦労も伴うために幸せの目標が高いほど達成出来る人は限られますが、自分の成長を幸せに感じることが出来ます。自分の幸せは自分で掴むという発想は、他者に勝手な期待をしないため、暴走しがちな人間の欲望を抑えることにもなります。例えばダイエットの目標体重を達成出来れば嬉しいですが、ダイエットの苦しみは自分以外に誰も換われません。

ここで考えなければいけないのは、明らかに肥満体型なのにダイエットを義務として行わない場合です。痩せる努力をするのは他ならぬ自分であるのに、楽をするために自分の問題から目を背けます。やがて自分が太っているのは遺伝だから、運動出来ない環境だから、お金がなくてジムに行けない、など自分以外に原因と責任を求めるのです。責任を求められた側は「自分が太ってるのはお前のせいだ」と言われているようなものです。ここでの「肥満体型」を「幸福ではない状態」と広く置き換えて考えると、

アランが何故幸福になる義務を唱えたかが見えてきます。要するに「不幸な自分」を放置して「幸福になる権利」を主張することは、嫉妬と不満を撒き散らして、周りの人を不幸に巻き込んでしまう悪循環なのです。

リア充」の爆発

家族や友人に恵まれ、特に恋人と仲睦まじい様子をSNSに投稿することをネット用語で「リア充(現実生活が充実している人)と呼ばれ、「リア充爆発しろ」など僻みの意味合いで使われることが多いです。インターネットは仮想空間なので、実生活の自分を孤独で惨めに感じても、ネット上の繋がりを充実させることは簡単です。その空間に実生活でも充実している様子が入りこむと、自分が手に入れたくても手に出来ないものを見せつけられたと感じて、嫉妬の混じった怒りを表す人が多いのです。

他人の不幸を願う暗い感情は誰しも抱えていますが、自分が他人と比較して恵まれないと感じても、それを不満に出してはいけません。何故なら幸福に見える人たちは、自分たちの必死の努力で幸福を掴んでいるからです。

幸せな人々

私たちが生まれた時、周囲の誰もが祝福してくれました。子供の誕生はおめでたいこととされますが、女性にとって妊娠とは血肉を分けることであり、出産とは現代でも母体死亡を引き起こす命がけの行為です。ですが子供を望む女性にとって、妊娠出産は何よりも幸せな経験です。幸福の努力とはそういうものです。

好きな人に勇気を振り絞って告白すること、試合に勝つために身体を鍛えること、起業のために奔走すること、興味を極めるために勉学すること、どれも自分が幸せになるために自分の努力で行うものです。そうした努力は自分に幸福をもたらしますが、努力を見ていた周囲の人を感化させる力もあります。自分以外の人も幸福にすることが出来るのです。

私たち一人の力は小さく、自分の努力で掴める幸福とは自分の家族を守ることで精一杯です。

そうした細やかな幸せを誰もが必死に守っている。それが社会であり、私たちは自分がどのように境遇にあっても、幸福への義務を果たさなければなりません。自分にとっての幸せとは何かを考え、それを誰かと分かちあえたなら、私たちは楽しく義務を果たせるでしょう。