バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

「自由」とは何か

ストレスの多い現代社会は、誰もが仕事や人付き合いに振り回され「もっと自由になりたい!」と思います。しかし「自由」とはそもそも何か?今回は自由の意味を考察します。

 

忙しい社会

現代人の毎日は忙しく、社会人であれば仕事、

家庭に入れば家事育児、子どもであれば学習塾や習い事に追われています。成長とは一定の時間内により多くの成果を出すという定義が社会に浸透しているため、向上心の高い人ほど空いた時間に予定を詰めます。

しかし「忙」という漢字は「心を亡くす」と書くように、忙し過ぎる状態では自分が本当に何をやりたいかも良く分かりません。自分が望む状態と今の行動に食い違いが大きければストレスは蓄積し、限界を越えればストレス障害として発症します。

特定の企業に所属せず、パソコン1台でいつでもどこでも働けるノマドワークが注目されたのは、社会人の自由願望の現れです。ストレスの蓄積を避けるために精神的な余裕を持つことは必要ですが、それは自由の実現によって得られるものなのでしょうか?

 

自由の刑

フランスの哲学者:ジャンポール・サルトル実存主義(「世界」と「私」が存在する意味を追求する哲学派)の代表者です。サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と提唱しました。自由の刑とは、自分が生きる意味は自分が行動して見出す必要があり、行動して人類全体に影響を与えた責任が問われるということです。キリスト教の教えが浸透していた時代には、自分が生きる意味は神のためでした。どう生きれば良いかは聖書の教えに従えば良かったのです。

しかしその教えを説くキリスト教会は、組織が拡大する中で国家権力との繋がりを深めていました。キリスト教会は信者から教団本部に布施を集める強力な集金システムがあります。豪華絢爛な寺院が作られる傍で庶民が餓死している状況は、人々に神を信じても救われないと理解させるに足りました。

中世以降のヨーロッパ各国では政治と宗教の分離、科学と宗教の分離が起こり、キリスト教の教理にとらわれない「自由」な構想によって、政治経済・科学・社会制度が整えられます。人々は神の教えを実践するよりも自由を得ることが幸福に近いと考えるようになり宗教離れは加速しました。しかし、人々が神を放棄しすれば、神は「自分が生きる意味」を与えてくれないのです。

 

「異邦人」の自由

サルトルの盟友であるアルベール・カミュは、代表作「異邦人」の中で、自分が行動する理由を自分自身にのみ決定する人間を描いています。主人公の行動は倫理観が全くなく、読者から見ても理解不能ですが、それは自分の人生の解釈は自分だけの自由であるとする主人公の生き方です。主人公は神の赦しを否定して死刑に臨むのですが、それが誰に危害を与えても、誰からも理解されなくても自分の自由を守るのだという「自由」を突き詰めた姿なのです。

 

自由と社会規範

人間は一人一人が自由に生きる権利がありますが、自分が他者に与えた影響に対して責任が伴うので、法の下の自由は「公共の福祉」に反しない限り認められています。

表現の自由があっても故意に他者を傷付ける発言は許されないですし、恋愛の自由があっても不倫は社会的に許されません。どれだけ暑くても公然で裸にはなれないですし、お店で写真を撮りたくても被写体の管理者の許可が必要です。公共の福祉と個人の自由とのバランスを取るために法律や倫理などの社会規範はあります。そうした社会規範の上に、会社や地域など自分が所属する集団独自の規範が乗せられます。規範を守らなければ集団から追放されますので、私たちの自由は他者が作ったルールによって大きく制限されています。

 

自分の自由の目的

それでは社会集団に所属せずに生きることは自由なのでしょうか。普段は忙しい社会人が、休日を寝るだけでいることは多いです。疲労回復が目的で積極的に寝ることは充実した時間の使い方です。しかし大半の人は休日にやる事がないから、寝るかインターネットで時間を潰して後悔するのではないでしょうか。

例えば不登校ニート状態の人は毎日が完全に自分の自由時間です。ですが目的のない自由はやる事がないため時間は全て暇になります。すると彼らのやる事は生きる時間全てを暇つぶしにあてるということ。仕事や勉強をしていればその間は思考力を仕事や勉強に使います。しかし目的のない自由はゴール地点がどこにあるか分からないため、思考は空回りします。そこに「自分が生きる意味」が問題になるのです。

目的もなく他者との繋がりもなく時間を潰しているだけという状態は、人間から自信を奪います。自由を手にしているはずなのに、その自由を使う目的がないという逆説に苦しむのです。

 

自己管理は難しい

フリーランスの仕事を選ぶ理由として、自分の時間を他人に管理されることが嫌だという動機がありますが、自分の時間を自己管理することは意外に難しい作業です。

夏休みの宿題を終わらせる作業で例えると、毎日一定時間で課題をコツコツ進める人は少なかったはず。大半の人は中盤まで課題に手を付けずギリギリになって焦るタイプです。時間に余裕があると思えば、問題を先送りするのです。大人に成長してもこの傾向は変わりません。

例えば喫煙者が禁煙を考えるときは「今度こそ禁煙しよう、でもそれは今日じゃない。」と考えます。人間にはタバコを止める自由が選択肢としてあるのに、自分の意思だけで禁煙することは難しい。

時間の使い方も同じ問題を持っており、自分の意思で時間を管理することには休日でも決まった日課をこなすだけの自己管理能力が必要です。一般の人はそれが出来ないからこそ、気分が乗らなくても学校に行き、会社に行くのです。時間を他者に管理されていた方が一般人は有能に動けます。

 

自らに由る

仏教の世界観は、秩序立って見える世界は不変ではなく、認識を変えれば精神は自分を苦しめる思考から自由になるというものです。「由」とは心の拠り所を意味しており、「自由」とは「自分の認識を精神の拠り所にする」ことです。これは「自分が生きる意味」は神や他者にあるにではなく、「目標とする自分」にあることを意味しており、目標達成のためには他律ではない自律の考え、即ち自分ルールを守ることが必要です。

 

自分のルールを守る

要するに自由とは自分が好き勝手に生きることではないのです。好き勝手に生きた時間を無駄にしたと後悔するのは、他ならぬ自分なのですから。人には職業選択の自由言論の自由もあります。しかしその自由が「在るべき自分」を意味しているなら、無責任な仕事や言動は周囲に混乱を招くだけで「在るべき自分」から遠ざかっています。人は何よりも自由を得るために自らを律する必要があるのです。

自由とは何か?それは在るべき自分を生きるために、他人が決めたルールを退け、自分が決めたルールを厳守することなのです。

 

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)