バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

孤悲の話

 映画「君の名は」の記録的ヒットにより、新世代の映像作家となった新海誠監督。今回は2013年に製作された「言の葉の庭」を解説します。

 

言の葉の庭

言の葉の庭

 

 

愛よりも昔、孤悲の物語

都内の高校生タカオは、雨の日には1限目の授業をサボり、新宿御苑の東屋で靴のデザインを描いている。彼は靴職人になる夢を抱えていた。ユキノは雨宿りに来る年上の女性。仕事をしている様子もなく、日中からビールとチョコレートを摘んでいる。梅雨の季節に二人は出会い、雨の日に時間を共有していく中で、互いに惹かれあっていく。ユキノは「人生を上手く歩けなくなった」と語り、タカオは「歩き出せるような靴を作ることが夢だ」と語る。

梅雨が明けて、二人が雨の日に会うことはなくなった。ある日タカオは、ユキノが高校に来ている場面に遭遇する。国語教師だったユキノは、学級崩壊と生徒からの中傷に耐え切れず、ストレスから休職中であった。味覚障害によりチョコレートとビールしか口に出来ない自分、出勤しようとしても恐怖で学校に行けない自分、既婚者と密かに交際していた自分、乱雑な部屋に帰るユキノは自分自身を許せず、社会から取り残された孤独を感じていた。自分を深く詮索せずに側に居てくれるタカオの存在は、

ユキノにとって救いでもあった。

晴れた日に再会した二人は、通り雨に逢いユキノの部屋に入る。タカオの作る食事に味覚が戻ってくるユキノ。今の時間が一番幸福だと感じる2人。タカオはユキノに告白するも、ユキノは教師と生徒という立場から一線を引く。ユキノの立場と心情を理解したタカオは、ユキノの部屋を出ていく。ユキノはこのままタカオと別れれば、自分は大切な支えを失うことに気づき、靴も履かずにタカオを追う。

階段の踊り場で呼び止めるユキノに対して、今度はタカオが一線を引くために拒絶する。「俺はあなたのことが嫌いでした。いい大人が昼間からビール片手に仕事をサボって。本当はあなただって、俺のことをガキだと思っているだろ。叶わない夢に縋り付いてるって、そう言ってくれよ!」

タカオは靴職人の夢を追いながら、誰も応援してくれないことに孤独を感じていた。彼もまた、靴を必要としているユキノの存在が救いだった。お互いを必要としながらも、「孤独の悲しみ」を抱えていると理解した時、2人は激しく抱擁し泣き合う。

結局2人はそれで別れたが、それはお互いが自分の道を歩く為であった。ユキノは故郷の高校で教壇に立ち、タカオはユキノのために第1号の自作の靴を作った。

 

言の葉の意味

「言」とはこの世界全体を意味しています。しかし全体といっても、人間一人が認識出来るのは自分が生きている空間と他者との関係性だけです。全体の中から自分が見えている世界を分節するために、個々の物や現象、自身の感情に名をつけていく。大きな樹から葉が伸びているようなイメージで個々の事象を名付けることが「言葉」です。

言葉は世界を理解する上では不可欠なものである反面、「言」の一部を切り取っているため、残りの要素が見えなくなります。映画の世界は雨の中の2人であり、外部の世界とは分節されている。本来は主人公2人の周囲では別の人間関係と物語が動いているのですが、「言の葉の庭=雨の中の東屋」の世界にいるのは2人だけです。背景の雨は外部の世界を隔離し主人公に焦点を当てる働きもありますが、外界との繋がりがない孤独な世界の心象でもあります。「自分の心には孤独の悲しみの雨が止まない」のです。

 

孤独の悲しみ

万葉集は奈良〜平安時代の和歌を編纂した書物です。当時の日本人は庶民から貴族に至るまで異性との関わりが限られており、和歌を交換することが唯一の交際手段でした。この時代は大陸から伝来した漢字を日本語に当てており、現代の「恋」にあたる言葉を「孤悲」と表現した和歌が27編あります。逢いたくても会えない悲しい感情、見えない相手を思う気持ちを言葉に託すことが「孤悲」だったのです。

和歌には表現手法として、掛詞が取り入れられます。意味が2通り取れるような内容を短い言葉に託すのですが、この映画自体が「淡い恋物語」と「言葉を介して他者に救われる」という2重性を持っています。

 

言葉と心の2重性

タカオがユキノを「嫌い」だと言ったのは、ユキノの立場を踏まえて一線を引くために、本心とは逆の言葉を出しています。本当はユキノが好きだけれど、好きだからこそ相手を尊重しなければいけない。次にタカオは「叶わない夢に縋っていると言ってくれ」と話します。タカオは靴職人として自立することの難しさを感じています。そんな彼にとってユキノは靴を作る夢を応援してくれた唯一の人です。ユキノから否定されれば、彼はユキノのことも、夢を追うことも諦めがつく。これは彼の本心そのものなのです。前半は本心を偽り、後半は本心を現しているという台詞の2重性です。

一般に恋愛物語は、「愛してるよ」という言葉は愛する気持ちから出ています。ですが現実では、「愛してるよ」という言葉を、相手を都合よく繫ぎ止めるために使っていることは多いのです。言葉は心と一致してこそ意味があるのに本心を隠すために言葉が使われている。言葉は心を素直に映す訳ではなく台詞の意味を理解するためには物語全体を見る必要があるのです。

 

独りなのは自分一人ではない

タカオにとってユキノの印象は謎めいた大人の女性です。しかしユキノは「27歳の私は15歳の私と比べてちっとも大人じゃない」と感じています。ユキノにとってタカオは自分の夢に邁進する明るい好青年であり、かつての自分の姿でした。しかしタカオは、自分が叶わない夢に拘っていると感じています。彼らは自分にはない相手の魅力に惹かれているのに、相手にとっての自己イメージは全く異なる状態なのです。

これが「孤独」の世界です。タカオの言葉によってユキノは、夢に邁進する彼が、本心では孤独に苦しんでいたことを理解し、自分も社会から取り残された孤独に怯えていたと告白しています。

「孤独」とは自分を理解する人のいない悲しみです。ですが相手も孤独を抱えていたということを知れば、「孤独感を分かってくれる人」が出来ればもう独りではありません。ユキノは「私はあなたに救われた」と語ります。

これは心理の集団療法に使われる手法と同じです。精神疾患を抱えたていたり、犯罪被害にあった人や家族は、世間の偏見から誰にも心の傷を話せない孤独を抱えます。周囲の人から同情は貰えても共感してもらえない。ですが、同じような経験をした人であれば、本心から苦しみに共感してくれるのです。自分の体験は自分一人のもの、でも同じような苦しみを抱えている人がいる。自分の弱さを許してくれるという支えが、回復への力となるのです。 

2人は淡い恋をして別れますが、特に結ばれる必要はありませんでした。「言葉を介して救われた」経験が2人の孤悲を癒したからです。