バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

105歳の先生

7月18日、聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生が亡くなりました。享年105歳、その生涯は波乱に満ちながら最後まで現役の医師であり続け、理想の医療を追求していました。

 

聖路加勤務時代

1911年、山口県に生まれた日野原先生は、京都帝国大学医学部を卒業後、1941年に聖路加国際病院に循環器内科医として勤めます。

当時は戦時中であり、聖路加のある中央区江東区は激しい空襲に晒されました。この時の戦争体験が後の災害医療構築に影響しています。1951年にアメリカ留学し欧米の最新医療を身につけた先生は、循環器や電解質理論を専門に臨床と研究を行うだけでなく、予防医療の考え方をいち早く着目し、高血圧や糖尿病など「成人病」と呼ばれていた疾患を、生活習慣の乱れが病気をもたらす「生活習慣病」であると提唱しました。

またチーム医療の重要性に着目し、聖路加看護大学の学長を勤めるなど、看護師の育成に力を注ぎました。現在も看護学生向けに出版された教科書の多くは日野原先生が編集しています。

 

よど号事件

1970年に福岡の学会出席のために日野原先生が乗った飛行機「よど号」は、日本赤軍にハイジャックされました。先生は機内で乗客の診察にあたりながら、4日後に韓国の金浦空港で解放されています。自分が死の瀬戸際にいた経験は、医療に対する先生の考えを大きく変え、それ以来の先生は与えられた命をどう生きるかについて思索と創作を続けます。この頃から医学書以外にも、一般向けの書籍出版が増えています。

地下鉄サリン事件

聖路加国際病院の新館を建設するにあたって、先生はまず、隅田川に面した敷地を高層ホテルと高層マンションに貸し出しました。これにより土地の賃料が数億円単位で入り、病院の経営が安定します。また全国から患者が訪れる聖路加国際病院にとって、患者の家族が病院近くに滞在する施設としてホテルが必要でした。

新病院のデザインとして、1階部分に広大なロビーと礼拝堂を設置しています。先生は東京大空襲を経験しながら十分な医療を行えなかったという思いから、災害時には大規模応急施設として機能するように広大なロビーを計画しています。当初は広大なスペースが無駄になっているという意見が大きかった新病院ですが、1995年に事態は動きます。

3月20日、地下鉄日比谷線霞ヶ関日比谷駅間で発生した地下鉄サリン事件は乗客6000人以上が未知の化学兵器のテロ攻撃を受けた前代未聞の事件でした。神経ガスは呼吸機能を止めてしまうため、救命は一刻を争います。被害を受けた乗客は築地駅から地上に出て、多数が聖路加病院に搬送されました。日野原院長は通常診療を停止し、ロビーフロアを応急施設として患者を無制限に受け入れました。結果として多くの人々に迅速な治療が行われ、聖路加病院の災害対応は高く評価されます。

 

命の授業

晩年の日野原先生は診療を続ける傍で、全国の小中学校に出張し、命とは何かを語り続けました。命とは生きている時間であること、時間を誰かのために使うことは尊いこと、医療とは自分の生きる時間を使って、他者の生きる時間を

伸ばすことなのだと。

先生は80年近く医療を行なっていますが、それは長年に渡って日本の医療を牽引してきたという意味にとどまりません。日本の戦争、過激派の闘争、宗教テロという「殺人を正当化する人間」に関わってしまう人生の中で、医師として生きる道を模索していたのです。

先生とは「先に生きる人」です。激動の時代に生きながら、医療とはどうあるべきか、自分は声高な正義を叫ぶ人間と何が違うのか、生きることと死ぬことの意味を身をもって示していました。

日野原先生、ご冥福をお祈りします。