登戸研究所の秘密
明治大学の生田キャンパスは理工学部と農学部が設置され、日々学生たちが研究を行っています。この場所はかつて誰にも知られてはいけない極秘研究をしていました。今回は大人の社会科見学として、旧登戸研究所を紹介します。
1930年代、日中戦争は激化していました。日本軍は中国東北部に満州国を建国し、中国各地の都市を攻略していましたが、現地民と共産党兵の抵抗に遭い、各都市間の移動と連携が取れない状況でした。都市に駐留する兵師団が孤立してしまうため、本土からいくら援軍と物資を供給しても追い付かず、日中戦争は攻略も撤退も出来ない泥沼状態に陥りました。
状況を打開するためには少ない兵力で戦果を上げるための新たな戦術が求められる。細菌や毒ガスのような生物・化学兵器の研究計画が軍部で持ち上がったのはその頃です。当時の生田丘陵は、南米の日系人に向けて農業の技術支援を行う実験農場があるだけでした。その土地に全国の大学や軍部から研究者が集められ、大本営直轄の極秘研究が始まったのです。
和紙に蒟蒻糊を貼り合わせた紙風船に、爆弾を搭載してアメリカ本土を攻撃していました。日本軍の航空機には、爆弾を搭載してアメリカ本土を空爆できる飛行能力がありません。アメリカ軍はB29爆撃機で日本各地を空襲している状況で、反撃に転じるために開発されました。
見た目は手作りの様な爆弾ですが、上空のジェット気流に乗ってアメリカ本土に到達していました。気球には爆弾以外に、高度計と重りが搭載されています。高度が高いと上空の冷気によって風船の水素ガス体積が減り高度を下げます。高度が下がりすぎると高度計が感知して、重りを落とす構造でした。アメリカに到達した爆弾の多くは人がいない畑や山林を焼く程度でしたが、記録では爆発により6人の民間人が死亡したとされます。
生物兵器開発
登戸研究所は満州国に拠点を置いていた関東軍防疫給水部(通称731部隊)と緊密に連携しており、細菌や毒物の研究開発を行っていました。
1948年の帝銀事件に使用された青酸化合物は、登戸研究所が暗殺用に開発した青酸ニトリルであると証言が出ています。陸軍上層部に納入された青酸ニトリルを何者かが持ち出したとされていますが、陸軍関係者への捜査はGHQの指示で打ち切られており真相は闇の中です。
牛痘ウイルスを風船爆弾に積んで、アメリカ本土を細菌戦で攻撃する計画が立てられますが、細菌兵器による報復の恐れがあるため実践では使用されませんでした。
偽札製造
中国大陸での戦闘が膠着状態にある中、経済を混乱させる目的で法幣(中国の第1通貨)の偽造を
行いました。国家ぐるみで偽札を造ることは国際法上の禁じ手であり、登戸研究所の内部でも
極秘中の極秘研究とされ、同僚の研究者でも何をしているか知りませんでした。
製造された偽札は香港に運ばれ、当時の国家予算規模の偽札が中国内で流通したとされます。蒋介石政権は偽札流通に対抗するために、大量の法幣を発行しました。最終的に通貨全体の偽札流通は1%に留まり、経済への影響は限定的だとされますが、大量の法幣を発行した中国は戦後に極度の通貨安に苦しみます。このインフレーションが中国国民の蒋介石政権への批判を招き、毛沢東の共産党を勢い付かせる原因となったともいわれています。
戦後の研究所
太平洋戦争の終結により、日本は敗北しました。GHQの進駐前に、登戸研究所の研究資料と公文書は軍の命令により全て焼却されました。
そのため登戸研究所の研究内容は公式記録が存在せず、真相は歴史の闇に消えました。研究内容が分かってきたのは、戦後数十年経って当時の研究員達の証言を集めたからです。
GHQは登戸研究所の関係者を一度は公職追放し、いずれは東京裁判にかける予定でした。
しかし朝鮮戦争の勃発により、対ソ連のスパイ工作が必要とされたため、彼らを米軍に協力させました。研究者達はかつての敵国のために、共産圏の公文書偽造を行ったのです。
軍事施設としての役割を失った登戸研究所は、
1950年に明治大学が敷地を取得し、研究所の建物を校舎として活用しました。戦後70年が経過し、老朽化した建物は新校舎に建て替えられて学生たちが勉学と研究に励んでいます。
化学とは人類の進歩に貢献するためにある反面、使い道によっては恐怖の道具となる。登戸研究所はあの戦争は何だったのかを考える貴重な場所であり、化学研究を志す人々が自戒する
場所なのです。
開館時間:水曜~土曜、10:00~16:00
入場無料。