バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

色彩の科学・色覚の世界

私たちの日常世界には様々な色が溢れています。しかしそもそも「色」とは何なのでしょう。今回は色と光の関係から、自然界の色彩の秘密、人間は色をどう認識しているかを紹介します。

 

虹色のプリズム

光の正体は、光子という極小粒子と一定の波運動で表現されます。光子は1秒間に地球を7周半という文字通りの光速で運動し、その動きは一定の振幅を持った波です。この波長が長いと光は赤くなり、短いと紫の光となります。赤よりもさらに波長の長い光は赤外線という熱エネルギーとなり、紫よりも波長の短い光は紫外線となって、生物の細胞を壊すエネルギーがあります。人間の目で捉えられる光は赤〜紫の波長であり、赤外線・紫外線は目に見えません。

雨上がりに浮かぶ虹は、赤色、オレンジ色、黄色、緑色、青色、藍色、紫色で構成されています。虹は雲のカーテンに写った太陽光なのですが、白色の太陽光が光の波長に応じて分解されています。

分光器(プリズム)の原理

大気とガラスは太陽光を通しますが、物質の密度が異なるため光がガラスを出る時に進路が折れ曲ります。この時、波長の長い赤い光が先に出て、一番波長の短い紫の光が最後に出ます。太陽光自体は様々な波長の光が合成された白色ですが、波長の長い光から短い光に分光されることで虹色に光ります。空気中の雨粒がプリズムとなった現象が空に架かる虹であり、赤〜紫光の波長をスペクトルと呼びます。

ニュートンの光学色彩論

万有引力の発見で知られる物理学者アイザック・ニュートンは、微積分の発明や錬金術の研究など様々な分野で活躍しますが、彼の研究にプリズムを使用した光学色彩論があります。元々は天体望遠鏡を使う時に、レンズによる分光の誤差を計算するための研究でした。紙に投射したプリズム光を計測し、太陽光は7原色で構成されており、各色の光には固有のスペクトルがあることを発見したのです。

 

物体の性質と色の関係

私たちの身の周りの物は自ら発光しません。物が見えるのは物体が反射した光が目に入るからなのですが、物体は素材の性質によって一定のスペクトルの光を吸収するため、反射した光だけが物体の色として見えるのです。

宝石のダイヤモンドは、高密度の炭素の結晶体です。そのため光の屈曲は石英の結晶であるガラスよりも高く、内部に入った光は分光して乱反射するので、キラキラと輝いて見えます。

結晶化しない炭素は全ての光を吸収する性質があるため、炭は黒く見えます。黒色は、全ての光を吸収した状態であり、白色は全ての光を反射しています。

水は光を透過するために無色透明であり、氷は表面で光を一定方向に反射するので鏡像が映ります。雪は本来透明ですが、微小の氷が光を乱反射するために白く見えます。雪原や白い砂浜では、太陽光は紫外線も含めて全て反射してしまいます。そのため紫外線による雪焼けや日焼けを起こしやすいのです。

 

自然界の色

色鮮やかな花が咲く植物も葉は全て緑色です。植物は大気中の二酸化炭素光合成によって糖分に変えますが、太陽光を効率よく吸収するには赤色のスペクトルが必要なのです。そのために光合成を行う葉緑体は緑色のスペクトルを反射し、葉は緑色に見えます。秋から冬になると、落葉樹の葉は葉緑体が抜けてゆき、緑色が薄くなるために色付きます。特にカエデ科の植物は葉の凍結を防ぐために糖分を蓄えるので、紅葉は赤くなります。

植物の花は色鮮やかですが、これは観賞用として品種改良を重ねたためで、原種の花は小ぶりで色も薄いことが多いです。元々の花は昆虫たちを寄せるために色付いており、地味な色調の花も紫外線カメラで映すと、全く違う色が見えます。人間の視覚では見えない紫外線ですが、昆虫には見えており、昆虫たちの色の世界は人間とは異なると考えられています。

蝶やコガネムシなど、昆虫は色鮮やかな種類がいます。昆虫は触覚などの感覚器が発達していますが、寿命が数ヶ月しかなく繁殖の機会は僅かです。短い時間に雌雄が出会うために、身体の色を目立たせています。一方で哺乳類の体色は殆どが白、黒、茶色です。サル族以外の哺乳類の視覚は色を見分ける機能がなく、モノクロの世界に住んでいるのです。

良く誤解されがちですが、スペインの闘牛士が牛に赤い布を振るのは、牛を興奮させるためではありません。赤い色は人間である観客へのパフォーマンスであり、牛には黒い布が見えています。

哺乳類に色覚がないのは、明暗を感じる機能に特化しているためです。日中は外敵に見つかる危険があるため、哺乳類の大半は夜行性です。夜目を効かせるために微小な明暗を捉えられますが、暗闇の中を動くために色が分からなくても良くなったと考えられます。一方でサル族や鳥類は植物の果肉を食べます。未熟な果実は毒成分があるので、完熟した実を見分けるために眼の色覚が備わりました。

 

色覚の世界

色とは光の波長の違いであることを説明しましたが、光は私たちの視覚が捉えて初めて「色」に見えます。そしてこの捉え方、色覚の世界は個々の人間によって異なるのです。

色覚が人によって異なるとはどういうことか、分かりやすいのは「青」と「緑」です。年配の人は緑色を「青色」と言い表わすことがありますが、これは昔と今で色の定義が異なったためと、加齢による視力低下で色の見分けが曖昧になっていることによります。

白い雪は北方民族には数種類の異なる色に見え、七色の虹はアメリカの先住民には3色に見えるとされます。色覚は生まれた土地の風景色を元に発達するため、人々の見えている色概念は異なっています。私たち日本人も「藍色」や「桜色」など、独自の色概念を持っています。

色盲の世界

人間の男性はおよそ20人に1人の割合で、色覚異常(色盲)を持っています。これは遺伝子の欠損が原因であり、XXの染色体を持つ女性には極めて稀です。赤色が判別しにくい赤色盲と、緑色が判別しにくい緑色盲が代表的ですが、色の見え方や程度は個人によって全く異なります。軽度の色弱であれば、原色が薄く見えているので、一般人の見え方と変わりません。重度の色盲では、風景は赤一色や白黒に見えています。色覚が異なっても他人からは分からず、本人も気が付かないことが多いため、自分が色盲であることを知らずに生活している男性は大勢います。

かつての日本では小学校で色覚検査が実施され、色覚異常ありと判定されると運転免許や就職試験で不合格となりました。色覚異常の男性は社会に出る上で大きなハンディを負っていたのですが、色覚異常は色の見え方が異なるだけで視力は正常です。交通信号の色が判別しにくいため、当事者は自動車の運転には気を使っています。

左利きの人は日常生活の上で不便なことがありますが、それは社会の構造が多数派である右利きを基準に造られているからであり、左利き自体は異常ではありません。もしも左利きが多数派であれば、右利きが不便になっていたのですから。色覚異常も同様の構造があり、もしも多数派が赤色スペクトルの光を「緑色」と認識すれば、それは「自然」なことになるのです。

当事者の男性たちが社会に訴えたことで、現在では運転免許の色覚検査は不合理差別として廃止され、学校での色覚検査も差別を助長するとして行われていません。ですが、電車の運転手や航空機パイロットなど、運転責任が重大で運行指令部との正確な意思疎通が求められる仕事には、現在も色覚検査が行われています。色覚異常は日常生活で自覚することが少ないので、気になる方は眼科を受診する必要があります。ただし色覚異常は根本的な治療法がなく、色の見方が異なるのは異常ではなく個性の一部であり、治療の必要性がないとする見解が一般的です。

色盲の男性は決して珍しくないのですが、染色体遺伝子が発症に関係するため、かつては婚約が破談となることもありました。当事者にとって自分が色盲であるかを公表するかは非常にデリケートな問題のため、身内以外は知らない場合が殆どです。色盲の世界は他人からは分からないこと、生まれつき色盲の世界を見ている人にとってはそれが自然であること。自分が見えている色の概念は言葉では共有出来ないため、他人の理解が難しいのです。軽度の色弱であれば、近視で眼鏡をかけた人と変わりなく、自分は障害者ではないと考えている当事者は多いです。一方で重度の色盲は色の判別が殆ど出来ないため、周囲の手助けが必要となります。

 

光と色彩の科学―発色の原理から色の見える仕組みまで (ブルーバックス)

光と色彩の科学―発色の原理から色の見える仕組みまで (ブルーバックス)

 

 

 

 

 

 

 

赤坂のプリンス:後編(1945〜2011)

皇家離脱とプリンスホテルの誕生

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敗戦を機に日本はアメリカを中心とした連合軍の支配下となります。日本の軍国主義化を防ぐためには資金源と人員を断つ必要があると考えたGHQは、皇族や華族(旧大名家)の地位を徴収し巨額の資産税をかけます。更に公職追放を行い、日本陸軍と海軍を解体しました。
李垠は陸軍の役職を失業すると同時に、方子夫人も皇家の身分を失ったのです。李王家は戦後数年間を困窮で過ごします。持てる家財は全て売却しますが資産税を払うことが出来ず、最後には邸宅を売るしかありませんでした。邸宅は国土計画興行(現在の西武鉄道グループ)が購入し、西武創業者の堤康次郎社長は高輪や軽井沢旧皇族邸と共にホテル営業を始めます。

1955年、赤坂プリンスホテルが開業しました。初代ホテルは李王家邸宅の洋館を使用し、1987年に新館を建設します。丹下健三氏(近代建築の代表者:フジテレビ本社や東京都庁を設計)の設計により建てられた新館は、旧館とは全く異なるガラス屏風の高層タワーであり「赤プリ」と呼ばれ多くの人々に親しまれました。

李夫妻の帰国
1945年に朝鮮半島は日本の帰属を離れたことで、朝鮮民族は朝鮮国籍に戻りました。しかし日本にいる李垠に朝鮮国籍は与えられないまま、日本国籍だけ失ってしまい彼は無国籍となります。朝鮮の皇子である自分が日本のために働き、利用された挙句に見捨てられた。李垠の心情は伺いしれません。方子夫人だけが、彼の孤独と悲しみを理解していました。国家の思惑に翻弄される運命が、政略結婚で結ばれたはずの夫婦の愛を強くしていたのです。

公職追放され国籍も抹消された李垠は職に就けず、方子夫人の実家である梨本宮家も皇家離脱していたため、生活費を援助する余裕がありませんでした。皇族として邸宅暮らしだった李垠夫妻は、それまで電車に乗ることはおろか小銭を使った経験すらありません。貧困の中で少しずつ生活に慣れていくしかありませんでした。困窮していた李夫妻を援助していたのは、昭和天皇祐仁陛下でした。昭和天皇皇后は方子夫人の従兄弟にあたり、皇族との交流が続いていました。昭和天皇は祖父である明治天皇が李垠の来日を推奨した経緯があるため、天皇家が李垠の運命を狂わせたとも感じていたようです。他にも吉田茂首相をはじめ朝鮮総督府の勤務経験がある政治家たちは、個人的に李垠夫妻の生活を援助していました。

朝鮮半島は併合政策が終わったことで主権を取り戻しますが、臨時政府は中国の上海に置かれており、朝鮮国内に統治体制がなかったため権力の空白地帯となります。日本はアメリカを初めとする資本主義陣営に付きますが、朝鮮半島ソビエト連邦と中国に接しており、共産主義陣営と資本主義陣営どちらを国策とするか決着がつかず、空席となった統治権を巡って内戦となります。1950年に朝鮮戦争が始まり、朝鮮半島は北緯38度の軍事境界線を境に大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に分裂します。


李垠は、駐日特使を通じて韓国政府に自分たちの帰国と国籍回復を何度も要望します。しかし韓国大統領:李承晩(イ・スンマン)は、皇太子である李垠が帰国すれば、国民から王政復古を求める声が上がって自分の立ち位置が危うくなると考えました。李承晩は活動家であった頃に高宗国王の退陣活動をしており、王政こそが韓国の近代化を阻害していると考えていました。初代大統領である現政権は立ち上げたばかりで権力基盤は薄く、王族が支持を受ければ民族は更に分断されてしまう。

独立後の韓国は軍事政権が国民を統制していており、反発する自国民を軍が虐殺する事件も発生しています。李承晩大統領は政権の正統性を示すために、自分たちは大日本帝国から朝鮮民族を解放したことを強調し、反日政策を強化していました。儒教文化圏である韓国は家柄や身分を重視する国であり、李氏朝鮮の正統な皇太子である李垠を国民は歓迎するでしょう。しかし少年期から日本社会で育った陸軍軍人である李垠と、日本の皇族である李方子は反日路線にさし障ってしまう。李承晩政権が李垠夫妻の帰国を認めることはありませんでした。
1961年、李承晩政権は崩壊します。後任の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領は日韓国交化正常に乗り出し、李夫妻の韓国籍回復と帰国が認められます。しかし翌年に脳梗塞が再発した李垠は意識が戻らない状態で、1963年に半世紀ぶりに祖国に帰ってきました。方子夫人は祖国の地を踏んだことを李垠に呼びかけますが、彼の意識は戻らないまま帰国から7年後に息を引き取りました。李垠の遺体は准国葬扱いとなり、多くの韓国民に見送られながら祖国に眠りました。


李垠と一緒に韓国に渡った李方子夫人は、夫の死後も日本に戻らずにソウルの昌徳宮で生活します。現地では在韓日本人団体代表として日本人女性の支援活動を行いました。また韓国初の身体障害児学校、知的障害児学校を設立するなど韓国での活動を広げています。日本の統治時代を生きた人々が多数だった韓国社会は反日感情が吹き荒れており、方子夫人は肩身を狭くして暮します。道行く韓国民から非難を浴びても彼女は韓国に留まり、日本には活動資金を集めるために一時帰国するだけでした。1989年、昭和天皇崩御して元号が変わった年に、李方子夫人はソウルで亡くなります。葬儀の沿道には数万人の韓国人が見送り、第2の祖国に眠りました。

赤坂のプリンス
李王家唯一の子息である李玖は、日本の敗戦後にGHQ司令マッカーサーの支援でアメリカに留学します。アメリカは日本の天皇制廃止が出来なかったため、韓国の国民までが王政を支持すると、アメリカの支援を受けている現政権の統治が危ういと考えていました。そのため伊藤博文が李垠を日本に送ったように、李玖をアメリカ本土に送ったのです。

アメリカに渡った李玖はボストン郊外のMIT(マサチューセッツ工科大学)に留学し、現地ではアメリカ人女性と結婚しました。両親の帰国を機に彼も韓国に渡って会社経営や建築学講義をしていましたが、晩年になって経営が傾いた会社は倒産し、妻とも離婚しています。李玖が妻と別れたのは、夫婦の間に李王家の後継となる子どもが出来なかったためとも言われますが、李玖自身は名ばかりとなった王家の肩書きを疎ましく考えていました。「私はすでに李王家の人間ではなく、李玖という1人の人間なのだ」と彼は度々発言しています。

母親である李方子の死後、李玖は生まれ故郷である東京に移住しました。梨本宮家の援助を受けながら渋谷区のマンションに独りで暮します。2005年7月、李玖は赤坂プリンスホテルに長期滞在します。滞在から1ヶ月を過ぎても連絡がつかないことから、梨本宮家の親類がホテルを訪ねてたとき、李玖はすでに心不全で亡くなっていました。ここに李氏朝鮮王家は滅亡したのです。

朝鮮皇子でありながら日本に尽くし、祖国を見ないまま生涯を終えた李垠。

日本皇族でありながらどんな時も李垠を愛し続け、最後は韓国人として生き抜いた李方子。

王族でありながら自分が何者か分からず、最後は生まれた家に戻った李玖。

赤坂のプリンスたちは、運命という言葉が軽いほどに波乱の生涯を生きてきたのです。

 

雪解けは遠く

日本と韓国の関係は従軍慰安婦問題、領土問題ともに平行線を続けています。北朝鮮情勢は核開発を巡って軍事衝突の緊迫を増しています。どの様な形で国際問題を解決出来るか誰も分かりません。古代も現代も文化や人の交流は盛んだった日韓関係ですが、時代ごとに戦争も起こっており関係改善は手探りです。対話努力を続ければ、次の世代には険悪と不信は氷解するのでしょうか。確かなことは、現在よりもはるかに日韓関係が悪かった時代に、国と民族の違いを超えて愛し合い、お互いを理解しようとしたプリンスたちがいたのです。

今日もまた、赤坂プリンスホテルでは結婚式が行われます。お姫様と皇子様になりきって、愛する人と共に生きることを誓うのです。平成時代の終わりに、夫婦となる人々も新たな歴史をつくるのでしょう。そんな時に少しだけ思いを馳せて欲しいのです。この家は激動の時代に愛が生まれた場所なのだと。

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赤坂のプリンス:前編(1898〜1945)

2011年に解体された赤坂プリンスホテルは、通称「赤プリ」と呼ばれ、1990年代初頭のバブル期を代表するデートスポットでした。跡地は東京ガーデンシティとして再開発され、ホテルとオフィスビルの複合施設になります。

唯一残っている旧館は赤坂プリンスクラシックハウスとして営業し、今日では多くのカップルが結婚式を挙げています。何故この建物がプリンスホテルであるのか、それはここが朝鮮の皇太子邸宅だからです。

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朝鮮併合政策

明治時代、大日本帝国は富国強兵政策の下に欧米先進国に追い付こうと奮闘していました。中国大陸では清帝国アヘン戦争でイギリスに敗れ、ロシア帝国の軍隊が日本のすぐ近くにいる状況です。ロシアと日本の間には朝鮮半島が位置していますが、当時の朝鮮国は清王朝の傘下にありました。朝鮮国を日本側に取り込まないと、敵国は目と鼻先に来てしまう。

こうして朝鮮半島の日本化政策が始まります。1894年の日清戦争に勝利した日本は朝鮮を保護国とし、李氏朝鮮王朝は大韓帝国となりました。しかし日本政府は度重なる交渉で朝鮮の外交権や軍事権を取り上げてゆき、1910年には国家主権を取り上げて朝鮮半島を自国領土にしてしまいます。これが朝鮮併合であり、現代まで根を引く日韓問題のきっかけです。

現代の日本人は、外国から商品を買ったり、逆に外国の顧客に商品を販売することはパソコン1台あれば出来ます。企業が海外展開して、外国でビジネスをすることは当たり前ですが、その当たり前のことが出来るのは、長年の外交努力によって国家間に経済協定を結んでいるからです。北朝鮮のように国交のない国では、通貨の両替すら出来ないのです。

近代まで世界の外交は経済力より軍事力優先でした。日本は自国民の食糧を賄えないほど生産能力に乏しく、農工業生産力を上げるには鉄と石炭の確保が欠かせません。石炭は北海道や九州で採掘出来ますが、炭鉱労働は落盤事故やガス中毒死が日常茶飯事であり、「命を使い捨て出来る」人間を雇い続ける必要があります。恐怖のブラック鉱業が北九州を中心に広がり、朝鮮半島から大量の労働者が海を渡ってきました。鉄鉱石は日本国内で採掘出来ないため、日本政府は中国大陸の鉄鉱山確保のために中国大陸へ進出します。朝鮮併合はそのための足掛かりでした。

国家を豊かにするには外国から資源と労働力を奪う。そのために軍事力強化が必要だというのが富国強兵の発想です。トンデモ政策に見えますが、欧米諸国がアジア諸国を植民地支配し、外国の言語や習慣は良く分からない時代でした。外国政府の腹の内が全く分からず、国家間の信用がなかったのです。

 

李氏朝鮮の皇太子

日本政府は朝鮮の日本化を進めるために、現地民の氏名を日本式に改名させました。公用語としての朝鮮語とハングル文字の使用を禁じ、学校教育は日本語教育が行われます。

そしてもう一つの政策は、民族象徴の日本化です。大日本帝国天皇を中心とする君主政国家であり、日本国民は天皇のために命を捧げると信じていました。一方で朝鮮民族の君主は16世紀から朝鮮国を統治してきた李王家です。朝鮮民族天皇を崇拝させるには、李王家を皇族に取り込めばよい。国家ぐるみの政略結婚が計画され、1916年に李王家皇太子と梨本宮家内親王の婚約が決定しました。

李垠(イ・ウン)皇太子は1898年に大韓帝国の国王高宗の第7王子として誕生しました。初代朝鮮総督である伊藤博文は、李垠が祖国で成長すれば独立派に与することを警戒しており、彼の世話人となって1907年に留学名目で李垠を日本にで送ります。李垠はわずか11歳で、唯一人異国に渡ったのです。1910年、朝鮮併合時に李垠は皇族の身分となり、学習院初等科を卒業後に陸軍士官学校を出て陸軍内の役職に付きます。皇族の身分を持ち陸軍エリート街道を進んでいた李垠ですが、身辺穏やかでありません。1909年に世話人だった伊藤博文が朝鮮の独立派に暗殺されると、日本政府は独立派を厳しく取り締まり、翌年には併合政策を実行します。1919年には父親である高宗が急死しました。朝鮮国王の崩御は日本政府による暗殺説が濃厚であり、3.1独立運動と呼ばれるソウル市民の大規模デモに発展します。日朝両国の立場に挟まれ、身内が次々と死んでいく状況に李垠は苦悩します。自分の逃げ場はどこにもないことを覚悟するしかありませんでした。当時の李垠は人前で殆ど語りません。自分が日本側の人質という立場にあるため、不用意に発言出来なかったのです。それでも彼は「私はすでに朝鮮人ではない。かとて日本人にもなりきれない。結局私の居場所はどこにもないんだ」と周囲に苦悩の本音を綴っています。

梨本宮家の長女である方子内親王は、一時期は祐仁皇太子(昭和天皇)と婚約するとされた皇女です。しかし典医からは不妊症と診断されており、14歳になったある日、李垠との婚約を新聞で知り大変なショックを受けました。親同士の取り決めによる結婚が当たり前だった時代、皇族身分の女性に恋愛結婚などあり得なかったのです。方子は髪を朝鮮式に結い、18歳で李王家に嫁ぎます。1920年に李垠と方子は正式に結婚しました。1921年には長男李晋が誕生し、一家は喜びに包まれます。しかし翌年、朝鮮に一時帰国した際に李晋は生後8ヶ月で急死します。李王家の後継者に日本の血筋は不要と考えた急進派が毒殺したのではないかと噂されるほど、当時の日朝関係は険悪でした。にも関わらず自分たちの結婚は日朝親善のプロパガンダに利用される。李夫妻は誰も信用出来ない状況で、我が子を失った悲しみに耐えていたのです。やがて次男の李玖が誕生し1930年に東京市紀尾井町に新しい邸宅を構えました。それが李王家東京邸:赤坂プリンスホテル旧館なのです。

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李王家東京邸

江戸時代には紀州徳川家の大名屋敷があった広大な土地を分割し、宮内庁の設計師が手掛けた洋館は5年の歳月をかけて完成しました。外見と内装は近世イギリスのチェダー調を採用。迎賓室やビリヤードをする遊戯室、大食堂や多数の客室を備えた大邸宅でした。

 

1931年の柳条湖事件を契機として、日本は中国東北部満州国を建国します。陸軍は満州国を拠点に中国内陸部に侵攻し、朝鮮籍の軍人たちも日本国のために戦争を続けます。李垠も日本国の皇族軍人として陸軍で働いていました。しかし1945年8月15日、日本の敗戦と朝鮮独立の日を境に李垠の状況は一変します。 

(後編に続く)

王族は辛いよ…サウード家の受難

サウード家のアラビア

現代の王政国家は、国王を国家元首と定めつつも、国政は国民議会が決定し、首相がトップを務めています。しかし21世紀の今日でも、王族が国政を担い、国家の立法、行政、財産を独占している国があるのです。それが中東のサウジアラビアです。 

中東のアラビア半島は紀元前3000年頃に誕生したメソポタミア文明(現在のイラク)を中心にとして、エジプトやエチオピアとの交易路として発展しました。半島全体が砂漠地帯であり農業が出来ないため、人々は遊牧民として暮らしてきました。中東地域はヨーロッパとアジア、アフリカ地域を繋ぐ文明の十字路であり、古代から現代まで戦争が絶えません。軍事・交易要所の支配を巡って様々な国家が領土を取り合っています。

古代イスラエルで誕生したナザレ派の教義がキリスト教としてヨーロッパに伝道されるのに対して、6世紀に成立したイスラム教は中東全域から北アフリカ、インドに伝道しました。イスラム教の開祖である預言者ムハンマドは、支配領域を広げるなかでアラビア半島の交易都市であったメッカを制圧し、イスラム教の聖地としました。コーランには一生に一度のハッジ(メッカへの巡礼)をイスラム教徒の義務と定められているため、メッカは国際的な宗教都市となります。イスラム教の伝統を守るために、メッカは自治権を持った独立都市であり、アラビア半島を支配する勢力が代々の守護者となりました。そして20世紀になってメッカの守護者に就いたのがサウード家です。 

サウード家は18世紀からアラビア半島を戦闘支配して交易を担う有力部族でした。19世紀にアラビア半島全体がオスマン帝国(現在のトルコ)の領土になると、部族の力は弱体化し、他部族との争いで消滅しかけます。若き族長アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードは、オスマン帝国解体を目論むイギリスの支援を受けて各地を奪還し、他部族を従えることに成功しました。1932年にサウード家のアラビア王国が成立し、アブドゥルアズィーズは初代国王に就任します。

イスラム圏では一夫多妻が認められており、アブドゥルアズィーズ王は側室も迎えたため、第2世代の王子だけで50人近くいるとされています。アブドゥルアズィーズ王の死後、歴代の国王は彼の息子たちが就任しており、2015年に就任した7代目国王サルマン・サウードは、初代国王の25番目の息子です。

 

油田の発見と石油王の誕生

サウジアラビアの成立初期、経済の中心は交易による利益であり、農業が出来ないサウジアラビアは外国に売るものがない貧しい国でした。この土地に石油があることは古代から知られていましたが、原油の状態ではランプの灯り以外に使用価値がなかったのです。

やがてアメリカを中心に自動車や工業エンジンの燃料としてガソリンの需要が起こり、人工繊維やプラスチックを石油から合成する研究が進むと、工業の中心として石油は不可欠な資源となりました。第一次世界大戦で登場した戦車や軍艦などの近代兵器の燃料となったことで、石油の確保は戦争の勝敗を左右するようになります。

1950年代に原油をガソリンや軽油に精製するプラントの開発、油田探索と石油採掘の技術が進歩しました。有望な油田を探すには高度な技術と莫大な費用がかかりますが、石油が出れば採掘コストはさほどかかりません。各国は石油の採掘権を国有化したことで、豊富な石油埋蔵量を持つ中東地域はオイルマネーで潤います。

サウジアラビアは世界第2の石油埋蔵量があります。そして石油を輸出するためにアメリカと手を結びました。1950年代に新生イスラエルが国家として成立すると、周辺のイスラム諸国は猛反発し、第4次まで中東戦争が起こっています。アメリカは戦争拡大を防ぐとともに石油を確保するため、イランとサウジアラビアに同盟関係を持ち掛けます。

1979年のイラン革命によって、イランは徹底的な反米路線を取り、欧米諸国に石油の販路を失います。イランはイスラムシーア派の国であり、スンニ派サウジアラビアにとっては宿敵でした。ここでアメリカと手を組めば、イランの国力は低下し自国は石油の販路を独占出来る。サウジアラビアは聖地を抱えるイスラム教国でありながらアメリカと同盟を結び、自国内にアメリカ軍基地を設置する二重外交を国策としたのです。

石油販路を独占したサウジアラビアは、石油価格を有利に交渉することで巨額の利益を手にします。1980年代にかけて先進国に石油製品が溢れるようになると、石油の生産調整を外交上の武器として持ち出し、国際社会での発言力を増していきます。

アメリカと同盟を結んだことに対しては、イスラムの教えに反するという意見が国内外から沸き起こりました。日本のような民主制国家であれば米軍基地の撤退要請も出ますが、軍事と警察を独占していたサウード家は、反対派の意見を完全に潰し、政権の中枢を側近たちで固めました。国民に対しては王政を批判する人物を逮捕すると同時に、税金を撤廃、教育や医療、住居を無償で提供するなど、オイルマネーをばら撒いて反発を抑えました。こうしてサウード家は21世紀になっても国家の政治、財産、情報を独占する石油王となったのです。

 

サウード家の内紛

サルマン国王の個人資産は300億ドル(およそ3.5兆円)とも言われますが、そもそもサウード家がどのような形態の資産を持っているのか情報がない上に、国王は国家予算を個人口座に移せる立場にいます。サウード家が世界有数の大金持ちであることは間違いなく、国王が来日した際には、都内の高級ホテルと高級ハイヤーは全て王族関係者に使われました。

湯水の如くオイルマネーを使ってきたサウード家ですが、2017年から国政を巻き込む内紛状態になっています。きっかけは、サルマン国王の第7王子ムハンマドの皇太子就任でした。ムハンマド・サウードは、従兄弟にあたる旧皇太子を退けて新皇太子に就任し、サルマン国王とともに閣僚や大企業重役の汚職摘発を始めました。逮捕者にはサウード家の身内も多く、これまで政治的にも特権階級とされてきた王族が逮捕されたことは国内外に衝撃を与えました。

何故国王は身内の王族を逮捕しているのか、それはムハンマド皇太子を次期国王にするために、有力候補者を排除しているというのが大筋の見解です。

これまで王位継承は、初代アブドゥルアズィーズ国王の息子たちに行われ、王位継承権は国王の弟たちにあります。しかしサルマン国王は80歳を超えており、弟にあたる王位継承者も国政から引退しています。次期国王は第3世代から選出する必要があるため、サルマン国王は、ムハンマド皇太子を擁立しているのです。これまでの王位継承を変更すれば当然サウード家内部から不満が出ます。特に前国王の息子である王子たちは、自分こそ正当な王位継承権があると主張します。第3世代の王子は200人以上、第6世代まで誕生している現在では、サウード家は1万人を超える大家族なのです。

中枢にいる王族だけでも数百人おり、王位継承争いが起きれば収集がつかなくなります。潤沢なオイルマネーがあるサウジアラビア政府の財政は、ある意味でどんぶり勘定であり予算の横領と私物化が当たり前です。財源は豊富な上に国民は税金を払っていないため、国家予算を可視化する必要がなかったのです。王族であるサウード家の閣僚は特に、国家予算と個人資産の区別がつかない状態で、最も国庫を私物化していたのはサルマン国王自身でした。国王は息子に王位を継承させるため、サウード家を敵に回しているのです。

 

サウジアラビアの改革

サウード家の内紛は、国王と皇太子が権力強化のために暴走しているように見えますが、サルマン国王は国政に危機感を抱いており、改革を進めるために行ってもいます。これまでサウジアラビア産油国の中心として発展しましたが、埋蔵石油の枯渇説は度々取り沙汰されており、石油が尽きれば経済は機能停止します。実際には今世紀中に資源が枯渇することはないとされますが、石油産業に依存しているサウジアラビアの経済基盤は意外と弱く、需要不足で原油価格が低迷すれば採掘コストが採算を超えてしまい年間で数兆円規模の赤字となります。

採掘技術の進歩でアメリカのシェールオイル採掘やカナダのサンドオイル採掘が可能になり、北米からの石油需要と投資が減っています。一方でサウジアラビアの石油採掘は年々コストが上がっており、原油価格を維持しなければ石油を掘るだけ損失が出てしまうのです。

2015年にイランはアメリカとの国交を回復し、核開発放棄と引き換えで経済制裁を解除されました。莫大な埋蔵量のイラン石油が国際市場に出回れば、サウジアラビアは石油価格の主導権を取れなくなります。これまでの石油政策全てに逆風が吹いている状況であり、サウジアラビア政府は脱石油経済を推進することになりました。サルマン国王の訪日も新たな産業を興すために日本と経済協定を結びに来たのです。

これまでは厳格なイスラムの教義を法律としてきたサウジアラビアですが、ムハンマド皇太子の主導で2017年に女性の自動車運転を解禁し、公共機関での女性の雇用を始めました。今後の政策として観光ビザの発給を検討しています。毎年世界中のイスラム教徒が巡礼に来るサウジアラビアですが、巡礼ビザはあっても観光ビザがなく、世界で最も行きにくい国でした。サウジアラビアが世界に開かれた国に変わるかは、サルマン国王がサウード家の内紛をどの様に収拾するかにかかっているのです。遠い国のお家騒動が、石油を使っている私たちの日常を動かしている。世界は意外な場面で繋がっているのです。

 

 

 

 

王族は辛いよ…世界の王室事情

国中を巻き込むお家騒動

血の繋がりのある人々がひとつ屋根の下に暮らすこと、それが家族です。しかし人々の性格や立場が違う以上、些細な対立は起こるので、どんな家族も何かしらの問題を抱えています。

子供のいないカップルであれば、夫婦間で家庭問題を解決することも可能ではあります。しかし、子供の数が増える、実家との距離が物理的・精神的に近い、マイホーム購入や実家の処分など、家庭の方針を決める際のメンバーが増えるほど意見は纏まらなくなり、家庭問題の解決は難しくなります。

家族で事業を営んでいる場合などは、家族会議の行方は従業員の生活にも影響してしまうため運営はさらに難しい。親族経営企業のお家騒動が事件になってしまうのは、利害を被る人々が膨大だからです。

そして日本国民全員が利害関係者になってしまうのが、皇族である天皇家の方針です。天皇陛下平成31年4月の譲位が決定しましたが、陛下1人が引退するだけで日本の元号が変わってしまうほどの影響が出ます。天皇家の所有する財産は全て宮内庁が管理しており、皇居をランニングするだけでも護衛付きです。個人の自由や自己決定から最もかけ離れているのが皇室であり、皇族たちは国民の意向や外国との関係に常に気を配りながら生活しています。

 

国家の歴史とは、土地に暮らす人々の代表が君主となり戦争と外交を繰り返す中で、最も有力な君主として国内外から認められた人物が王として国家を統治することから始まります。

一般の国家元首が任期付きで国民から選ばれるのに対して、国王の任期は死ぬまであり、次代の君主は王の子供や兄弟から選ばれます。

国家が絶対君主制を採用していると、国王は国内の政治、軍事、財産を独占でき、臣下である国民を処刑することすらできます。巨大な権力を独占するが故に、世界各国の歴史とは王の座を巡る権力争いでも説明出来ます。

歴史上には様々な君主がいますが、国王1人に権力を集中すると、個人的な意向や決断に国民の命が左右されてしまいます。王は学者や僧侶を相談役に置いて政治を決めるのですが、最終的な決断は王自身が行いますし、政策が失敗しても国王は責任を負いません。

初代の国王が優秀であるほど、2代目、3代目の王の政治は迷走して国家が傾き、他の権力者に代替わりするという歴史が各国共通です。国家の近代化とは宗教や国民議会、司法権を独立させて、国王の権力を制限してきたことで果たせました。これで漸く、王の資質に関係なく国政の運営が安定するようになり、王族たちの権力争いも少なくなりました。

 

世界の王室

世界の190国の中で、現在まで王室を維持しているのは27か国ありますが、国民の教育水準が高くなり誰もが意見を言える現代では、どの国の王室も国民の支持を失えば存続出来ないのです。

欧米ではスペインやベルギー、スウェーデンなどが王国であり、イギリスは連合王国(スコットランドウェールズの王家は滅亡しても、地域民の独立意識が高いので、イングランド王室が仮統治している状態)です。モナコ公国リヒテンシュタイン公国アンドラ公国など歩いて回れる極小国家も歴代の公家が統治しています。

アジア地域ではブルネイブータン、タイが王政であり、マレーシアは自治州の藩王が5年任期で国王を務める輪番王政です。

南北アメリカ大陸、オセアニア地域の国は比較的近年に誕生した多民族国家であり、王族統治の歴史がありません。カナダやオーストラリアなど、英連邦に加盟する国はイギリス王室を国家元首として定めています。

アフリカ大陸にはモロッコレソトが王政を持っていますが、国家ではなく部族単位での君主は大勢います。

ロシアと中国は、広大な土地を歴代の皇帝が軍事力で統治してきましたが、20世紀初頭のロシア革命辛亥革命によって帝国としての歴史を終えています。

 

フランス革命と王家の凋落

フランスは19世紀にフランス革命が起こり、ルイ王家は国民たちによって処刑されています。フランスはその後しばらくは政情不安のためナポレオンが皇帝になるなど、王政に戻った時期もありますが結局は共和制国家となり、自由の国を誇りとしています。

革命とは権力者の支配に叛逆した国民運動によって、王が君主の座を失うことです。国民が「王様は要らない」と行動しているので、現代史の中で王が途絶えた国は二度と王政に戻りません。絶大な富と権力を誇ったルイ16世が自国民に処刑された事で、ヨーロッパの王族たちは恐怖に陥りました。もはや国家君主が政治を行う時代ではないと悟った王たちは、政治の実権を国民議会に譲り、国家祝典の開催や国際外交など、国内外で「国家の顔」としての仕事に徹しています。

 

国家の顔

日本国憲法第1〜8条において、天皇は国民の象徴であり、国政に関与しないことが定められています。日本が大日本帝国であった時、国家主権は天皇中心だったことが軍国主義を招いたと考えたアメリカ側は、昭和天皇を戦争の最高責任者として東京裁判にかける予定でした。しかしこの場合、革命のように国民自身が君主を倒すわけではなく、敵国が自国の君主を倒すことになります。現人神として崇拝されていた天皇を断罪すれば、占領軍に対する国民の反発は高まり、占領統治は難しくなる。

結局アメリカ側は天皇制を維持したまま、天皇を国政から遠ざけるように憲法に明記させ、遠縁の皇族や華族から財産や身分を徴収しました。今上天皇陛下は、国会で成立した法案の発布や外国要人の迎賓、災害地や福祉施設の慰問を行なっています。それは日本国民の象徴であり顔である天皇だからこそ有効な仕事です。

 

天皇の重責と戦後処理

天皇陛下は現在84歳であり、前立腺癌や心臓病で度重なる手術も受けています。年々体力は低下するのに仕事は減らない。国会で可決される法案は年間で300件以上ありますが、その全てに天皇の承認が必要です。他国の首相や王族が表敬訪問すれば日本国代表として歓迎しなければなりません。天皇陛下が迎えなければ、外国の使節には自分たちが軽く見られていると捉えられ、外交としては失敗なのです。

近年になって天皇陛下は、サイパン島パラオ諸島など、太平洋戦争の激戦地を訪問しています。南方に出征して戦死した日本人は100万人以上ともいわれますが、海で亡くなった人たちの遺骨は回収困難であり、殆ど遺族に戻っていません。陛下と同世代の日本人は、戦争で家族を失い貧困の中を生き延びた人々が大半なのです。残された人々にとって戦争は終わっていない。昭和天皇のために命を投げ出した戦没者を弔うことが、戦後処理として残された使命だと考えたからこそ、今上天皇高齢にも関わらず南方各地を弔問しているのです。

幸せは権利ではなく義務である

 生きること、それは喜びと悲しみ、自由と孤独

怒りと愛情、日々沸き起こる様々な出来事に対する感情の体験です。

喜びと愛情に包まれる時もあれば、悲しみと絶望で先が見えない時も訪れる。そんな時でもじっと耐えなければならない。生まれつき健康や財力、愛情に恵まれた人もいれば、そうした資質を何一つ持たないで生涯を生きる人々も大勢います。不平等や理不尽が当たり前に存在するこの世界で人は何故生きて行くのか、今回は幸福とは何かを考察します。

 

幸福論 (集英社文庫)

幸福論 (集英社文庫)

 

幸福とは義務

アラン (フランス)は独自の幸福論を説いた哲学者として知られます。高校の哲学教師だったアランは幸福の定義を崇高な哲学ではなく、平易な言葉で解説しました。アラン曰く「幸福とは権利ではなく義務である」

誰もが幸せになりたいと考えても、自分の思う幸せは中々手に入らない。自分も人並みの幸せを得る権利があると考えますが、人は幸せにならなければならない義務があるとしたのです。

「権利」とは自分が受けるもので自分以外の誰かが与えてくれるものです。幸福を与えてくれる誰かとは、恋人、親、或いは国家、哲学的には神のことです。神社に賽銭を入れて神頼みするようなもので、幸福の権利とは誰かが自分を幸せにしてくれるという他力本願な考えです。

「義務」とは自分が果たさなければいけないものです。努力も苦労も伴うために幸せの目標が高いほど達成出来る人は限られますが、自分の成長を幸せに感じることが出来ます。自分の幸せは自分で掴むという発想は、他者に勝手な期待をしないため、暴走しがちな人間の欲望を抑えることにもなります。例えばダイエットの目標体重を達成出来れば嬉しいですが、ダイエットの苦しみは自分以外に誰も換われません。

ここで考えなければいけないのは、明らかに肥満体型なのにダイエットを義務として行わない場合です。痩せる努力をするのは他ならぬ自分であるのに、楽をするために自分の問題から目を背けます。やがて自分が太っているのは遺伝だから、運動出来ない環境だから、お金がなくてジムに行けない、など自分以外に原因と責任を求めるのです。責任を求められた側は「自分が太ってるのはお前のせいだ」と言われているようなものです。ここでの「肥満体型」を「幸福ではない状態」と広く置き換えて考えると、

アランが何故幸福になる義務を唱えたかが見えてきます。要するに「不幸な自分」を放置して「幸福になる権利」を主張することは、嫉妬と不満を撒き散らして、周りの人を不幸に巻き込んでしまう悪循環なのです。

リア充」の爆発

家族や友人に恵まれ、特に恋人と仲睦まじい様子をSNSに投稿することをネット用語で「リア充(現実生活が充実している人)と呼ばれ、「リア充爆発しろ」など僻みの意味合いで使われることが多いです。インターネットは仮想空間なので、実生活の自分を孤独で惨めに感じても、ネット上の繋がりを充実させることは簡単です。その空間に実生活でも充実している様子が入りこむと、自分が手に入れたくても手に出来ないものを見せつけられたと感じて、嫉妬の混じった怒りを表す人が多いのです。

他人の不幸を願う暗い感情は誰しも抱えていますが、自分が他人と比較して恵まれないと感じても、それを不満に出してはいけません。何故なら幸福に見える人たちは、自分たちの必死の努力で幸福を掴んでいるからです。

幸せな人々

私たちが生まれた時、周囲の誰もが祝福してくれました。子供の誕生はおめでたいこととされますが、女性にとって妊娠とは血肉を分けることであり、出産とは現代でも母体死亡を引き起こす命がけの行為です。ですが子供を望む女性にとって、妊娠出産は何よりも幸せな経験です。幸福の努力とはそういうものです。

好きな人に勇気を振り絞って告白すること、試合に勝つために身体を鍛えること、起業のために奔走すること、興味を極めるために勉学すること、どれも自分が幸せになるために自分の努力で行うものです。そうした努力は自分に幸福をもたらしますが、努力を見ていた周囲の人を感化させる力もあります。自分以外の人も幸福にすることが出来るのです。

私たち一人の力は小さく、自分の努力で掴める幸福とは自分の家族を守ることで精一杯です。

そうした細やかな幸せを誰もが必死に守っている。それが社会であり、私たちは自分がどのように境遇にあっても、幸福への義務を果たさなければなりません。自分にとっての幸せとは何かを考え、それを誰かと分かちあえたなら、私たちは楽しく義務を果たせるでしょう。

 

 

 

国際都市TAKAYAMA

1月始め、岐阜県高山市を観光しました。そこで見た外国人観光客の多さに驚き、日本らしさとは何かを考えさせられました。

1:高山市の町並み

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岐阜県高山市日本海側の山岳地帯に位置し、市域は東京都と同じ面積があります。市内は標高3000m級の北アルプスを始め大部分が山地です。2003年に周辺町村と合併して日本一広い市となりましたが、住民の高齢化と過疎化が進んでいます。

山林に囲まれた飛騨高山地域は林業で発展し、江戸時代には幕府の天領(直轄地)になっています。県庁のある岐阜市は山地を隔てて100km以上離れており、日本海側の都市との交流が盛んです。冬になると山々にぶつかった雲が大量の雪を降らせるため、飛騨高山は日本有数の豪雪地帯でもあります。冬の気候が厳しいため、人々は雪で潰れないよう木材で頑丈な家を建てました。

金沢から江戸や名古屋に向かう大名や商人たちの宿場町として高山市中心部は形成されました。江戸〜明治時代の建物は頑丈な木で作られたこと、太平洋戦争での空襲がなかったこと、大都市圏から離れており、住民の移転が少なかったため市街地の景観が保存された。経済成長によって国民生活が豊かになるに連れて、自然や温泉に恵まれた飛騨高山の観光客は増えた。宿場町である高山市は元々旅館を営む住民が多く観光客を呼び込むことに積極的だった。

こうして観光産業が地域経済を支えることになりました。現在では人口約9万人の高山市に年間で450万人の観光客が訪れます。 

2:観光業の転機:外国人観光客の誘致

観光産業で成り立つ都市は日本各地にありますが問題もあります。一つは閑散期には収入がないこと、飛騨高山は登山や避暑に訪れる春から夏が観光シーズンであり、逆に寒さが厳しい冬には観光客は減ります。また日本人観光客は5月の大型連休や夏休みに集中するため、閑散期の旅館やホテルの稼働率が下がってしまうのです。

もう一つの問題は観光客自体の減少です。高度経済成長期には会社の団体旅行客が温泉地に大挙したため大型ホテルが建てられましたが、個人客が中心となった現在では大口客の需要は下がっています。また、海外旅行の普及で国内観光客が外国に流れています。少子高齢化によって日本人全体が減少しているため、旅行の潜在需要自体が減り、日本人観光客の誘致に努力しても、他の観光地との客の奪い合いになってしまいます。

一方で日本人に海外旅行が身近になった頃から、欧米人を中心とした外国人観光客も少しずつ増えていきます。彼らの目的は日本文化の体験であり京都や奈良などの観光地は国際化します。1986年に飛騨高山地域が国際観光都市に指定されたのを機に、高山市は外国人観光客の誘致に乗り出します。

3:白川村の観光価値

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高山市に隣接する白川村は、世界遺産の合掌造り集落で知られています。日本の原風景の様な景観美は高く評価され、村民1500人の村には毎年世界中から100万人以上が観光に訪れます。

以前の白川郷は、細々と農業と養蚕を営む山間の集落でした。周囲を山に囲まれて日照時間は短く、田畑を広げることも出来ない。冬には道が雪に閉ざされて外界から孤立してしまう。住民たちは非常に厳しい環境で生活するために、豪雪に耐える合掌造りの家を作って、地域全体で代々守ってきました。

伝統的な茅葺き屋根を維持するには多額の費用がかかるため、以前は日本各地に見られた日本家屋に今も住民が住んでいる地域は非常に限られています。かつて誰も訪れることのなかった白川郷は、外界から離れていたことで里山の原風景がタイムカプセルの様に保たれ、現在では世界に開かれた場所になっています。

世界遺産の登録は歴史的景観の保持が条件となるため、住民たちは古い家屋を維持管理しなければなりません。文化庁や村から補助金も出ますが、家屋は住民たちの所有であり修繕費を負担する必要があります。自分たちの生活と景観を守るため、集落の住民たちは農業から観光客相手の土産屋や民宿に転業しています。

4:「サムライルート」の開拓

白川郷世界遺産として紹介されてから観光客が急増しましたが、問題も出てきました。景観を保つために厳しい開発規制が必要なため、観光客の滞在施設を増やせないのです。狭い道幅を広げることも出来ないので一般の観光客がマイカーで押し掛ければ交通渋滞で住民は生活出来なくなります。村民たちは観光業者や行政と話し合いを重ねて、金沢や富山、高山駅からバス路線を確保して観光客をピストン輸送することになりました。外国人旅行者の移動手段は鉄道よりも高速バスが一般的です。高山市は白川村と連携して、国内外の旅行業者に白川郷までの観光ツアーを売り込むことで、市内の宿泊客を確保しました。

日本人観光客は観光シーズンに短期旅行が多いので滞在先は一つの観光地だけ、そのため各地で観光客の奪い合いになります。それに対して長期休暇が普及している外国人旅行者は、一週間近く日本に滞在することが多く各地を回ります。京都〜富士山〜東京へと観光するコースは「ゴールデンルート」と呼ばれ多くの外国人観光客が訪れます。経由地に金沢〜白川郷〜高山〜松本を高速バスで回るコースは「サムライルート」と呼ばれ、旧い町並みを徒歩で散策出来ることから近年人気を集めています。

高山市役所は観光戦略課を作り、金沢市松本市など他県の自治体と共同で観光PRを行なっています。現代の旅行者はガイドブックではなくインターネットから情報を得ています。翻訳ソフトが進化したため、観光施設の場所や交通手段、開館時間や料金などはホームページの方が詳しく分かります。しかし外国で情報端末を使うには公衆無線LANが欠かせません。高山市では街全体にWi-Fiスポットを整備し、更に各国の文化的な違いに対応するため外国人留学生に体験旅行を依頼しています。

5:急増するアジア圏旅行者

伝統的な日本文化を体験出来る飛騨高山はこれまで欧米諸国から訪れる外国人が中心でしたが、近年になってタイやマレーシア、インドネシアからの旅行者が急増しています。東南アジア諸国の経済発展により海外旅行が富裕層以外にも普及していること、航空路線の整備で日本への直行便が増えたこと、日本経済が円安傾向にあるため旅行各社は日本ツアーを売り出しています。

豪雪の高山市は冬季の観光客はスキーや温泉客に限られてきました。一方で東南アジア地域は熱帯性気候であり冬季がありません。台北や香港、上海などの中華圏都市も沖縄県より緯度が低いため年間を通じて暖かく、冬でも雪が降らないのです。アジア諸都市の住民は一生に一度も雪を見ないため、綺麗な雪景色を体験したいという需要が高いのです。私が訪れた1月は、観光客の殆どが外国人であり、日本人観光客はごく一部でした。

6:高山市に学ぶ国際観光政策

日本政府は訪日外国観光客の更なる増加を目指してインバウンド政策を掲げています。30年前から外国人観光客の誘致に向けて試行錯誤を繰り返した高山市の観光政策はその成功例と言えるでしょう。山に囲まれた高山市は地元の就職先がなく、若者が名古屋圏に流出していました。このままでは地域が消滅するという強い危機感が市民に共有されたことで、若者を呼ぶための観光政策に本気になっているのです。

高山市の観光の強みは雄大な自然と歴史的な町並みですが、東南アジアからの旅行者には雪国の体験、欧米の旅行者には町並み散策を紹介するなど、各国の旅行者の目的に合わせた観光プランを用意しているのです。

近年では北海道ニセコ町や長野県白馬村に欧米のスキー客が集まるなど、地方の観光地が国際化しています。日本人観光客の増加が見込めない以上、これらの観光地は無線LAN設置や多言語対応に取り組むことになります。

観光地を一つに集約することも大切です。広大な面積を持つ高山市ですが、観光客が訪れるのは中心市街地に限られており、合併前は町村であった周辺地区を観光する人は僅かです。周辺地区に金が落ちることはないですが、住民生活を乱されることもない。住民たちは農作物を市街地の飲食店に売るか、旅館の従業員や出入り業者として働くことで生活しています。

全国の自治体に観光課はありますが、自治体がどれだけ観光をPRしても、肝心の観光地に魅力が乏しければリピーターはつきません。また観光客が多くても、当地に宿泊しなければ客単価は大きく下がります。神奈川県鎌倉市は首都圏有数の観光地ですが、都心から日帰り観光で回れるため宿泊施設が少ないです。隣接する逗子市や葉山町の民宿は夏場の海水浴客で賑わいますが、秋から春までは空室が多くなります。外国人観光客に来てもらうためには自治体間で連携して、観光地と宿泊地を分ける必要があるでしょう。

7:高山市の観光の今後

東南アジア諸国の経済成長は続いており、各国は消費が活発な若い世代が多いです。成田空港は第3滑走路の増設により発着枠が大きく増えます。格安航空の参入も相次ぐ中で今後も外国人旅行者は増えるでしょう。各地の観光地では多言語への対応は進みつつありますが、宗教的な対応が進んでいません。

マレーシアやインドネシア国民は敬虔なイスラム教徒であり、日常生活の全てがイスラムの戒律に準じています。一方で宗教色の薄い日本では、国や自治体は政教分離の原則に触れることを避けるために、イスラム教徒への配慮に及び腰です。そのためイスラム教徒の観光客は、戒律を守りながら観光を楽しむための情報収集に苦労しており、母国の旅行業者の観光ツアーを頼るしかありません。

彼らは1日5回の礼拝が欠かせないので、聖地メッカの方角を示した礼拝スペースが必要ですが、日本では国際空港に設置され始めたばかりです。食べ物の戒律も厳しく、アルコールや豚肉成分を使用した食事は勿論、豚肉に触れた調理器具を使った料理すら口に出来ないのです。イスラムの戒律に準じて処理された食材はḤarāl(ハラル)の認証を受けることで初めて提供出来ます。飛騨高山名物の飛騨牛は厳しい品質管理をクリアしたブランド肉ですが今後はハラル認証も必要になるでしょう。