バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

王族は辛いよ…サウード家の受難

サウード家のアラビア

現代の王政国家は、国王を国家元首と定めつつも、国政は国民議会が決定し、首相がトップを務めています。しかし21世紀の今日でも、王族が国政を担い、国家の立法、行政、財産を独占している国があるのです。それが中東のサウジアラビアです。 

中東のアラビア半島は紀元前3000年頃に誕生したメソポタミア文明(現在のイラク)を中心にとして、エジプトやエチオピアとの交易路として発展しました。半島全体が砂漠地帯であり農業が出来ないため、人々は遊牧民として暮らしてきました。中東地域はヨーロッパとアジア、アフリカ地域を繋ぐ文明の十字路であり、古代から現代まで戦争が絶えません。軍事・交易要所の支配を巡って様々な国家が領土を取り合っています。

古代イスラエルで誕生したナザレ派の教義がキリスト教としてヨーロッパに伝道されるのに対して、6世紀に成立したイスラム教は中東全域から北アフリカ、インドに伝道しました。イスラム教の開祖である預言者ムハンマドは、支配領域を広げるなかでアラビア半島の交易都市であったメッカを制圧し、イスラム教の聖地としました。コーランには一生に一度のハッジ(メッカへの巡礼)をイスラム教徒の義務と定められているため、メッカは国際的な宗教都市となります。イスラム教の伝統を守るために、メッカは自治権を持った独立都市であり、アラビア半島を支配する勢力が代々の守護者となりました。そして20世紀になってメッカの守護者に就いたのがサウード家です。 

サウード家は18世紀からアラビア半島を戦闘支配して交易を担う有力部族でした。19世紀にアラビア半島全体がオスマン帝国(現在のトルコ)の領土になると、部族の力は弱体化し、他部族との争いで消滅しかけます。若き族長アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードは、オスマン帝国解体を目論むイギリスの支援を受けて各地を奪還し、他部族を従えることに成功しました。1932年にサウード家のアラビア王国が成立し、アブドゥルアズィーズは初代国王に就任します。

イスラム圏では一夫多妻が認められており、アブドゥルアズィーズ王は側室も迎えたため、第2世代の王子だけで50人近くいるとされています。アブドゥルアズィーズ王の死後、歴代の国王は彼の息子たちが就任しており、2015年に就任した7代目国王サルマン・サウードは、初代国王の25番目の息子です。

 

油田の発見と石油王の誕生

サウジアラビアの成立初期、経済の中心は交易による利益であり、農業が出来ないサウジアラビアは外国に売るものがない貧しい国でした。この土地に石油があることは古代から知られていましたが、原油の状態ではランプの灯り以外に使用価値がなかったのです。

やがてアメリカを中心に自動車や工業エンジンの燃料としてガソリンの需要が起こり、人工繊維やプラスチックを石油から合成する研究が進むと、工業の中心として石油は不可欠な資源となりました。第一次世界大戦で登場した戦車や軍艦などの近代兵器の燃料となったことで、石油の確保は戦争の勝敗を左右するようになります。

1950年代に原油をガソリンや軽油に精製するプラントの開発、油田探索と石油採掘の技術が進歩しました。有望な油田を探すには高度な技術と莫大な費用がかかりますが、石油が出れば採掘コストはさほどかかりません。各国は石油の採掘権を国有化したことで、豊富な石油埋蔵量を持つ中東地域はオイルマネーで潤います。

サウジアラビアは世界第2の石油埋蔵量があります。そして石油を輸出するためにアメリカと手を結びました。1950年代に新生イスラエルが国家として成立すると、周辺のイスラム諸国は猛反発し、第4次まで中東戦争が起こっています。アメリカは戦争拡大を防ぐとともに石油を確保するため、イランとサウジアラビアに同盟関係を持ち掛けます。

1979年のイラン革命によって、イランは徹底的な反米路線を取り、欧米諸国に石油の販路を失います。イランはイスラムシーア派の国であり、スンニ派サウジアラビアにとっては宿敵でした。ここでアメリカと手を組めば、イランの国力は低下し自国は石油の販路を独占出来る。サウジアラビアは聖地を抱えるイスラム教国でありながらアメリカと同盟を結び、自国内にアメリカ軍基地を設置する二重外交を国策としたのです。

石油販路を独占したサウジアラビアは、石油価格を有利に交渉することで巨額の利益を手にします。1980年代にかけて先進国に石油製品が溢れるようになると、石油の生産調整を外交上の武器として持ち出し、国際社会での発言力を増していきます。

アメリカと同盟を結んだことに対しては、イスラムの教えに反するという意見が国内外から沸き起こりました。日本のような民主制国家であれば米軍基地の撤退要請も出ますが、軍事と警察を独占していたサウード家は、反対派の意見を完全に潰し、政権の中枢を側近たちで固めました。国民に対しては王政を批判する人物を逮捕すると同時に、税金を撤廃、教育や医療、住居を無償で提供するなど、オイルマネーをばら撒いて反発を抑えました。こうしてサウード家は21世紀になっても国家の政治、財産、情報を独占する石油王となったのです。

 

サウード家の内紛

サルマン国王の個人資産は300億ドル(およそ3.5兆円)とも言われますが、そもそもサウード家がどのような形態の資産を持っているのか情報がない上に、国王は国家予算を個人口座に移せる立場にいます。サウード家が世界有数の大金持ちであることは間違いなく、国王が来日した際には、都内の高級ホテルと高級ハイヤーは全て王族関係者に使われました。

湯水の如くオイルマネーを使ってきたサウード家ですが、2017年から国政を巻き込む内紛状態になっています。きっかけは、サルマン国王の第7王子ムハンマドの皇太子就任でした。ムハンマド・サウードは、従兄弟にあたる旧皇太子を退けて新皇太子に就任し、サルマン国王とともに閣僚や大企業重役の汚職摘発を始めました。逮捕者にはサウード家の身内も多く、これまで政治的にも特権階級とされてきた王族が逮捕されたことは国内外に衝撃を与えました。

何故国王は身内の王族を逮捕しているのか、それはムハンマド皇太子を次期国王にするために、有力候補者を排除しているというのが大筋の見解です。

これまで王位継承は、初代アブドゥルアズィーズ国王の息子たちに行われ、王位継承権は国王の弟たちにあります。しかしサルマン国王は80歳を超えており、弟にあたる王位継承者も国政から引退しています。次期国王は第3世代から選出する必要があるため、サルマン国王は、ムハンマド皇太子を擁立しているのです。これまでの王位継承を変更すれば当然サウード家内部から不満が出ます。特に前国王の息子である王子たちは、自分こそ正当な王位継承権があると主張します。第3世代の王子は200人以上、第6世代まで誕生している現在では、サウード家は1万人を超える大家族なのです。

中枢にいる王族だけでも数百人おり、王位継承争いが起きれば収集がつかなくなります。潤沢なオイルマネーがあるサウジアラビア政府の財政は、ある意味でどんぶり勘定であり予算の横領と私物化が当たり前です。財源は豊富な上に国民は税金を払っていないため、国家予算を可視化する必要がなかったのです。王族であるサウード家の閣僚は特に、国家予算と個人資産の区別がつかない状態で、最も国庫を私物化していたのはサルマン国王自身でした。国王は息子に王位を継承させるため、サウード家を敵に回しているのです。

 

サウジアラビアの改革

サウード家の内紛は、国王と皇太子が権力強化のために暴走しているように見えますが、サルマン国王は国政に危機感を抱いており、改革を進めるために行ってもいます。これまでサウジアラビア産油国の中心として発展しましたが、埋蔵石油の枯渇説は度々取り沙汰されており、石油が尽きれば経済は機能停止します。実際には今世紀中に資源が枯渇することはないとされますが、石油産業に依存しているサウジアラビアの経済基盤は意外と弱く、需要不足で原油価格が低迷すれば採掘コストが採算を超えてしまい年間で数兆円規模の赤字となります。

採掘技術の進歩でアメリカのシェールオイル採掘やカナダのサンドオイル採掘が可能になり、北米からの石油需要と投資が減っています。一方でサウジアラビアの石油採掘は年々コストが上がっており、原油価格を維持しなければ石油を掘るだけ損失が出てしまうのです。

2015年にイランはアメリカとの国交を回復し、核開発放棄と引き換えで経済制裁を解除されました。莫大な埋蔵量のイラン石油が国際市場に出回れば、サウジアラビアは石油価格の主導権を取れなくなります。これまでの石油政策全てに逆風が吹いている状況であり、サウジアラビア政府は脱石油経済を推進することになりました。サルマン国王の訪日も新たな産業を興すために日本と経済協定を結びに来たのです。

これまでは厳格なイスラムの教義を法律としてきたサウジアラビアですが、ムハンマド皇太子の主導で2017年に女性の自動車運転を解禁し、公共機関での女性の雇用を始めました。今後の政策として観光ビザの発給を検討しています。毎年世界中のイスラム教徒が巡礼に来るサウジアラビアですが、巡礼ビザはあっても観光ビザがなく、世界で最も行きにくい国でした。サウジアラビアが世界に開かれた国に変わるかは、サルマン国王がサウード家の内紛をどの様に収拾するかにかかっているのです。遠い国のお家騒動が、石油を使っている私たちの日常を動かしている。世界は意外な場面で繋がっているのです。

 

 

 

 

王族は辛いよ…世界の王室事情

国中を巻き込むお家騒動

血の繋がりのある人々がひとつ屋根の下に暮らすこと、それが家族です。しかし人々の性格や立場が違う以上、些細な対立は起こるので、どんな家族も何かしらの問題を抱えています。

子供のいないカップルであれば、夫婦間で家庭問題を解決することも可能ではあります。しかし、子供の数が増える、実家との距離が物理的・精神的に近い、マイホーム購入や実家の処分など、家庭の方針を決める際のメンバーが増えるほど意見は纏まらなくなり、家庭問題の解決は難しくなります。

家族で事業を営んでいる場合などは、家族会議の行方は従業員の生活にも影響してしまうため運営はさらに難しい。親族経営企業のお家騒動が事件になってしまうのは、利害を被る人々が膨大だからです。

そして日本国民全員が利害関係者になってしまうのが、皇族である天皇家の方針です。天皇陛下平成31年4月の譲位が決定しましたが、陛下1人が引退するだけで日本の元号が変わってしまうほどの影響が出ます。天皇家の所有する財産は全て宮内庁が管理しており、皇居をランニングするだけでも護衛付きです。個人の自由や自己決定から最もかけ離れているのが皇室であり、皇族たちは国民の意向や外国との関係に常に気を配りながら生活しています。

 

国家の歴史とは、土地に暮らす人々の代表が君主となり戦争と外交を繰り返す中で、最も有力な君主として国内外から認められた人物が王として国家を統治することから始まります。

一般の国家元首が任期付きで国民から選ばれるのに対して、国王の任期は死ぬまであり、次代の君主は王の子供や兄弟から選ばれます。

国家が絶対君主制を採用していると、国王は国内の政治、軍事、財産を独占でき、臣下である国民を処刑することすらできます。巨大な権力を独占するが故に、世界各国の歴史とは王の座を巡る権力争いでも説明出来ます。

歴史上には様々な君主がいますが、国王1人に権力を集中すると、個人的な意向や決断に国民の命が左右されてしまいます。王は学者や僧侶を相談役に置いて政治を決めるのですが、最終的な決断は王自身が行いますし、政策が失敗しても国王は責任を負いません。

初代の国王が優秀であるほど、2代目、3代目の王の政治は迷走して国家が傾き、他の権力者に代替わりするという歴史が各国共通です。国家の近代化とは宗教や国民議会、司法権を独立させて、国王の権力を制限してきたことで果たせました。これで漸く、王の資質に関係なく国政の運営が安定するようになり、王族たちの権力争いも少なくなりました。

 

世界の王室

世界の190国の中で、現在まで王室を維持しているのは27か国ありますが、国民の教育水準が高くなり誰もが意見を言える現代では、どの国の王室も国民の支持を失えば存続出来ないのです。

欧米ではスペインやベルギー、スウェーデンなどが王国であり、イギリスは連合王国(スコットランドウェールズの王家は滅亡しても、地域民の独立意識が高いので、イングランド王室が仮統治している状態)です。モナコ公国リヒテンシュタイン公国アンドラ公国など歩いて回れる極小国家も歴代の公家が統治しています。

アジア地域ではブルネイブータン、タイが王政であり、マレーシアは自治州の藩王が5年任期で国王を務める輪番王政です。

南北アメリカ大陸、オセアニア地域の国は比較的近年に誕生した多民族国家であり、王族統治の歴史がありません。カナダやオーストラリアなど、英連邦に加盟する国はイギリス王室を国家元首として定めています。

アフリカ大陸にはモロッコレソトが王政を持っていますが、国家ではなく部族単位での君主は大勢います。

ロシアと中国は、広大な土地を歴代の皇帝が軍事力で統治してきましたが、20世紀初頭のロシア革命辛亥革命によって帝国としての歴史を終えています。

 

フランス革命と王家の凋落

フランスは19世紀にフランス革命が起こり、ルイ王家は国民たちによって処刑されています。フランスはその後しばらくは政情不安のためナポレオンが皇帝になるなど、王政に戻った時期もありますが結局は共和制国家となり、自由の国を誇りとしています。

革命とは権力者の支配に叛逆した国民運動によって、王が君主の座を失うことです。国民が「王様は要らない」と行動しているので、現代史の中で王が途絶えた国は二度と王政に戻りません。絶大な富と権力を誇ったルイ16世が自国民に処刑された事で、ヨーロッパの王族たちは恐怖に陥りました。もはや国家君主が政治を行う時代ではないと悟った王たちは、政治の実権を国民議会に譲り、国家祝典の開催や国際外交など、国内外で「国家の顔」としての仕事に徹しています。

 

国家の顔

日本国憲法第1〜8条において、天皇は国民の象徴であり、国政に関与しないことが定められています。日本が大日本帝国であった時、国家主権は天皇中心だったことが軍国主義を招いたと考えたアメリカ側は、昭和天皇を戦争の最高責任者として東京裁判にかける予定でした。しかしこの場合、革命のように国民自身が君主を倒すわけではなく、敵国が自国の君主を倒すことになります。現人神として崇拝されていた天皇を断罪すれば、占領軍に対する国民の反発は高まり、占領統治は難しくなる。

結局アメリカ側は天皇制を維持したまま、天皇を国政から遠ざけるように憲法に明記させ、遠縁の皇族や華族から財産や身分を徴収しました。今上天皇陛下は、国会で成立した法案の発布や外国要人の迎賓、災害地や福祉施設の慰問を行なっています。それは日本国民の象徴であり顔である天皇だからこそ有効な仕事です。

 

天皇の重責と戦後処理

天皇陛下は現在84歳であり、前立腺癌や心臓病で度重なる手術も受けています。年々体力は低下するのに仕事は減らない。国会で可決される法案は年間で300件以上ありますが、その全てに天皇の承認が必要です。他国の首相や王族が表敬訪問すれば日本国代表として歓迎しなければなりません。天皇陛下が迎えなければ、外国の使節には自分たちが軽く見られていると捉えられ、外交としては失敗なのです。

近年になって天皇陛下は、サイパン島パラオ諸島など、太平洋戦争の激戦地を訪問しています。南方に出征して戦死した日本人は100万人以上ともいわれますが、海で亡くなった人たちの遺骨は回収困難であり、殆ど遺族に戻っていません。陛下と同世代の日本人は、戦争で家族を失い貧困の中を生き延びた人々が大半なのです。残された人々にとって戦争は終わっていない。昭和天皇のために命を投げ出した戦没者を弔うことが、戦後処理として残された使命だと考えたからこそ、今上天皇高齢にも関わらず南方各地を弔問しているのです。

幸せは権利ではなく義務である

 生きること、それは喜びと悲しみ、自由と孤独

怒りと愛情、日々沸き起こる様々な出来事に対する感情の体験です。

喜びと愛情に包まれる時もあれば、悲しみと絶望で先が見えない時も訪れる。そんな時でもじっと耐えなければならない。生まれつき健康や財力、愛情に恵まれた人もいれば、そうした資質を何一つ持たないで生涯を生きる人々も大勢います。不平等や理不尽が当たり前に存在するこの世界で人は何故生きて行くのか、今回は幸福とは何かを考察します。

 

幸福論 (集英社文庫)

幸福論 (集英社文庫)

 

幸福とは義務

アラン (フランス)は独自の幸福論を説いた哲学者として知られます。高校の哲学教師だったアランは幸福の定義を崇高な哲学ではなく、平易な言葉で解説しました。アラン曰く「幸福とは権利ではなく義務である」

誰もが幸せになりたいと考えても、自分の思う幸せは中々手に入らない。自分も人並みの幸せを得る権利があると考えますが、人は幸せにならなければならない義務があるとしたのです。

「権利」とは自分が受けるもので自分以外の誰かが与えてくれるものです。幸福を与えてくれる誰かとは、恋人、親、或いは国家、哲学的には神のことです。神社に賽銭を入れて神頼みするようなもので、幸福の権利とは誰かが自分を幸せにしてくれるという他力本願な考えです。

「義務」とは自分が果たさなければいけないものです。努力も苦労も伴うために幸せの目標が高いほど達成出来る人は限られますが、自分の成長を幸せに感じることが出来ます。自分の幸せは自分で掴むという発想は、他者に勝手な期待をしないため、暴走しがちな人間の欲望を抑えることにもなります。例えばダイエットの目標体重を達成出来れば嬉しいですが、ダイエットの苦しみは自分以外に誰も換われません。

ここで考えなければいけないのは、明らかに肥満体型なのにダイエットを義務として行わない場合です。痩せる努力をするのは他ならぬ自分であるのに、楽をするために自分の問題から目を背けます。やがて自分が太っているのは遺伝だから、運動出来ない環境だから、お金がなくてジムに行けない、など自分以外に原因と責任を求めるのです。責任を求められた側は「自分が太ってるのはお前のせいだ」と言われているようなものです。ここでの「肥満体型」を「幸福ではない状態」と広く置き換えて考えると、

アランが何故幸福になる義務を唱えたかが見えてきます。要するに「不幸な自分」を放置して「幸福になる権利」を主張することは、嫉妬と不満を撒き散らして、周りの人を不幸に巻き込んでしまう悪循環なのです。

リア充」の爆発

家族や友人に恵まれ、特に恋人と仲睦まじい様子をSNSに投稿することをネット用語で「リア充(現実生活が充実している人)と呼ばれ、「リア充爆発しろ」など僻みの意味合いで使われることが多いです。インターネットは仮想空間なので、実生活の自分を孤独で惨めに感じても、ネット上の繋がりを充実させることは簡単です。その空間に実生活でも充実している様子が入りこむと、自分が手に入れたくても手に出来ないものを見せつけられたと感じて、嫉妬の混じった怒りを表す人が多いのです。

他人の不幸を願う暗い感情は誰しも抱えていますが、自分が他人と比較して恵まれないと感じても、それを不満に出してはいけません。何故なら幸福に見える人たちは、自分たちの必死の努力で幸福を掴んでいるからです。

幸せな人々

私たちが生まれた時、周囲の誰もが祝福してくれました。子供の誕生はおめでたいこととされますが、女性にとって妊娠とは血肉を分けることであり、出産とは現代でも母体死亡を引き起こす命がけの行為です。ですが子供を望む女性にとって、妊娠出産は何よりも幸せな経験です。幸福の努力とはそういうものです。

好きな人に勇気を振り絞って告白すること、試合に勝つために身体を鍛えること、起業のために奔走すること、興味を極めるために勉学すること、どれも自分が幸せになるために自分の努力で行うものです。そうした努力は自分に幸福をもたらしますが、努力を見ていた周囲の人を感化させる力もあります。自分以外の人も幸福にすることが出来るのです。

私たち一人の力は小さく、自分の努力で掴める幸福とは自分の家族を守ることで精一杯です。

そうした細やかな幸せを誰もが必死に守っている。それが社会であり、私たちは自分がどのように境遇にあっても、幸福への義務を果たさなければなりません。自分にとっての幸せとは何かを考え、それを誰かと分かちあえたなら、私たちは楽しく義務を果たせるでしょう。

 

 

 

国際都市TAKAYAMA

1月始め、岐阜県高山市を観光しました。そこで見た外国人観光客の多さに驚き、日本らしさとは何かを考えさせられました。

1:高山市の町並み

f:id:jackolanten0:20180107140503j:image

岐阜県高山市日本海側の山岳地帯に位置し、市域は東京都と同じ面積があります。市内は標高3000m級の北アルプスを始め大部分が山地です。2003年に周辺町村と合併して日本一広い市となりましたが、住民の高齢化と過疎化が進んでいます。

山林に囲まれた飛騨高山地域は林業で発展し、江戸時代には幕府の天領(直轄地)になっています。県庁のある岐阜市は山地を隔てて100km以上離れており、日本海側の都市との交流が盛んです。冬になると山々にぶつかった雲が大量の雪を降らせるため、飛騨高山は日本有数の豪雪地帯でもあります。冬の気候が厳しいため、人々は雪で潰れないよう木材で頑丈な家を建てました。

金沢から江戸や名古屋に向かう大名や商人たちの宿場町として高山市中心部は形成されました。江戸〜明治時代の建物は頑丈な木で作られたこと、太平洋戦争での空襲がなかったこと、大都市圏から離れており、住民の移転が少なかったため市街地の景観が保存された。経済成長によって国民生活が豊かになるに連れて、自然や温泉に恵まれた飛騨高山の観光客は増えた。宿場町である高山市は元々旅館を営む住民が多く観光客を呼び込むことに積極的だった。

こうして観光産業が地域経済を支えることになりました。現在では人口約9万人の高山市に年間で450万人の観光客が訪れます。 

2:観光業の転機:外国人観光客の誘致

観光産業で成り立つ都市は日本各地にありますが問題もあります。一つは閑散期には収入がないこと、飛騨高山は登山や避暑に訪れる春から夏が観光シーズンであり、逆に寒さが厳しい冬には観光客は減ります。また日本人観光客は5月の大型連休や夏休みに集中するため、閑散期の旅館やホテルの稼働率が下がってしまうのです。

もう一つの問題は観光客自体の減少です。高度経済成長期には会社の団体旅行客が温泉地に大挙したため大型ホテルが建てられましたが、個人客が中心となった現在では大口客の需要は下がっています。また、海外旅行の普及で国内観光客が外国に流れています。少子高齢化によって日本人全体が減少しているため、旅行の潜在需要自体が減り、日本人観光客の誘致に努力しても、他の観光地との客の奪い合いになってしまいます。

一方で日本人に海外旅行が身近になった頃から、欧米人を中心とした外国人観光客も少しずつ増えていきます。彼らの目的は日本文化の体験であり京都や奈良などの観光地は国際化します。1986年に飛騨高山地域が国際観光都市に指定されたのを機に、高山市は外国人観光客の誘致に乗り出します。

3:白川村の観光価値

f:id:jackolanten0:20180109144425j:image

高山市に隣接する白川村は、世界遺産の合掌造り集落で知られています。日本の原風景の様な景観美は高く評価され、村民1500人の村には毎年世界中から100万人以上が観光に訪れます。

以前の白川郷は、細々と農業と養蚕を営む山間の集落でした。周囲を山に囲まれて日照時間は短く、田畑を広げることも出来ない。冬には道が雪に閉ざされて外界から孤立してしまう。住民たちは非常に厳しい環境で生活するために、豪雪に耐える合掌造りの家を作って、地域全体で代々守ってきました。

伝統的な茅葺き屋根を維持するには多額の費用がかかるため、以前は日本各地に見られた日本家屋に今も住民が住んでいる地域は非常に限られています。かつて誰も訪れることのなかった白川郷は、外界から離れていたことで里山の原風景がタイムカプセルの様に保たれ、現在では世界に開かれた場所になっています。

世界遺産の登録は歴史的景観の保持が条件となるため、住民たちは古い家屋を維持管理しなければなりません。文化庁や村から補助金も出ますが、家屋は住民たちの所有であり修繕費を負担する必要があります。自分たちの生活と景観を守るため、集落の住民たちは農業から観光客相手の土産屋や民宿に転業しています。

4:「サムライルート」の開拓

白川郷世界遺産として紹介されてから観光客が急増しましたが、問題も出てきました。景観を保つために厳しい開発規制が必要なため、観光客の滞在施設を増やせないのです。狭い道幅を広げることも出来ないので一般の観光客がマイカーで押し掛ければ交通渋滞で住民は生活出来なくなります。村民たちは観光業者や行政と話し合いを重ねて、金沢や富山、高山駅からバス路線を確保して観光客をピストン輸送することになりました。外国人旅行者の移動手段は鉄道よりも高速バスが一般的です。高山市は白川村と連携して、国内外の旅行業者に白川郷までの観光ツアーを売り込むことで、市内の宿泊客を確保しました。

日本人観光客は観光シーズンに短期旅行が多いので滞在先は一つの観光地だけ、そのため各地で観光客の奪い合いになります。それに対して長期休暇が普及している外国人旅行者は、一週間近く日本に滞在することが多く各地を回ります。京都〜富士山〜東京へと観光するコースは「ゴールデンルート」と呼ばれ多くの外国人観光客が訪れます。経由地に金沢〜白川郷〜高山〜松本を高速バスで回るコースは「サムライルート」と呼ばれ、旧い町並みを徒歩で散策出来ることから近年人気を集めています。

高山市役所は観光戦略課を作り、金沢市松本市など他県の自治体と共同で観光PRを行なっています。現代の旅行者はガイドブックではなくインターネットから情報を得ています。翻訳ソフトが進化したため、観光施設の場所や交通手段、開館時間や料金などはホームページの方が詳しく分かります。しかし外国で情報端末を使うには公衆無線LANが欠かせません。高山市では街全体にWi-Fiスポットを整備し、更に各国の文化的な違いに対応するため外国人留学生に体験旅行を依頼しています。

5:急増するアジア圏旅行者

伝統的な日本文化を体験出来る飛騨高山はこれまで欧米諸国から訪れる外国人が中心でしたが、近年になってタイやマレーシア、インドネシアからの旅行者が急増しています。東南アジア諸国の経済発展により海外旅行が富裕層以外にも普及していること、航空路線の整備で日本への直行便が増えたこと、日本経済が円安傾向にあるため旅行各社は日本ツアーを売り出しています。

豪雪の高山市は冬季の観光客はスキーや温泉客に限られてきました。一方で東南アジア地域は熱帯性気候であり冬季がありません。台北や香港、上海などの中華圏都市も沖縄県より緯度が低いため年間を通じて暖かく、冬でも雪が降らないのです。アジア諸都市の住民は一生に一度も雪を見ないため、綺麗な雪景色を体験したいという需要が高いのです。私が訪れた1月は、観光客の殆どが外国人であり、日本人観光客はごく一部でした。

6:高山市に学ぶ国際観光政策

日本政府は訪日外国観光客の更なる増加を目指してインバウンド政策を掲げています。30年前から外国人観光客の誘致に向けて試行錯誤を繰り返した高山市の観光政策はその成功例と言えるでしょう。山に囲まれた高山市は地元の就職先がなく、若者が名古屋圏に流出していました。このままでは地域が消滅するという強い危機感が市民に共有されたことで、若者を呼ぶための観光政策に本気になっているのです。

高山市の観光の強みは雄大な自然と歴史的な町並みですが、東南アジアからの旅行者には雪国の体験、欧米の旅行者には町並み散策を紹介するなど、各国の旅行者の目的に合わせた観光プランを用意しているのです。

近年では北海道ニセコ町や長野県白馬村に欧米のスキー客が集まるなど、地方の観光地が国際化しています。日本人観光客の増加が見込めない以上、これらの観光地は無線LAN設置や多言語対応に取り組むことになります。

観光地を一つに集約することも大切です。広大な面積を持つ高山市ですが、観光客が訪れるのは中心市街地に限られており、合併前は町村であった周辺地区を観光する人は僅かです。周辺地区に金が落ちることはないですが、住民生活を乱されることもない。住民たちは農作物を市街地の飲食店に売るか、旅館の従業員や出入り業者として働くことで生活しています。

全国の自治体に観光課はありますが、自治体がどれだけ観光をPRしても、肝心の観光地に魅力が乏しければリピーターはつきません。また観光客が多くても、当地に宿泊しなければ客単価は大きく下がります。神奈川県鎌倉市は首都圏有数の観光地ですが、都心から日帰り観光で回れるため宿泊施設が少ないです。隣接する逗子市や葉山町の民宿は夏場の海水浴客で賑わいますが、秋から春までは空室が多くなります。外国人観光客に来てもらうためには自治体間で連携して、観光地と宿泊地を分ける必要があるでしょう。

7:高山市の観光の今後

東南アジア諸国の経済成長は続いており、各国は消費が活発な若い世代が多いです。成田空港は第3滑走路の増設により発着枠が大きく増えます。格安航空の参入も相次ぐ中で今後も外国人旅行者は増えるでしょう。各地の観光地では多言語への対応は進みつつありますが、宗教的な対応が進んでいません。

マレーシアやインドネシア国民は敬虔なイスラム教徒であり、日常生活の全てがイスラムの戒律に準じています。一方で宗教色の薄い日本では、国や自治体は政教分離の原則に触れることを避けるために、イスラム教徒への配慮に及び腰です。そのためイスラム教徒の観光客は、戒律を守りながら観光を楽しむための情報収集に苦労しており、母国の旅行業者の観光ツアーを頼るしかありません。

彼らは1日5回の礼拝が欠かせないので、聖地メッカの方角を示した礼拝スペースが必要ですが、日本では国際空港に設置され始めたばかりです。食べ物の戒律も厳しく、アルコールや豚肉成分を使用した食事は勿論、豚肉に触れた調理器具を使った料理すら口に出来ないのです。イスラムの戒律に準じて処理された食材はḤarāl(ハラル)の認証を受けることで初めて提供出来ます。飛騨高山名物の飛騨牛は厳しい品質管理をクリアしたブランド肉ですが今後はハラル認証も必要になるでしょう。

 

 

 

繋がり社会の網

2000年代の初頭から、個人でのインターネット利用が全世界で爆発的に普及し、テレビや新聞などの既存のメディアが独占していた情報の発信を、資本や技術のない一般人でも配信出来るようになりました。

ユーチューバーやブロガーといった職業が登場し、一般の人々もフェイスブックやインスタグラムに日々の生活を綴っています。個人でビジネスをする人にとっては、SNSは費用をかけずに宣伝出来る最適な方法であり、才能と野心を持った人々に良い時代が来ました。

SNSは学校時代の同窓生など、現在は異なる環境にいる人々と繋がりを保てるだけでなく、マイナーな趣味を持つ人同士を新たに繋ぐことも出来ます。

現代社会は人と人の繋がりが希薄になっていると言われがちですが、それは同じ場所に暮らしていても気の合わない他人に興味がないだけです。学校でも職場でも家庭であっても同じことで、目の前にいる「どうでもいい人」より遠くにいる「大切な人」とのコミュニケーションを

優先しているのです。SNSの登場で人同士の繋がりは以前よりも濃密になっています。それはネットに接続している限り他人に情報が漏れ続けているからです。

 

電子の檻

英国ロンドンなど、テロを警戒する都市は街中に監視カメラが設置され、警察本部で解析しています。日本の場合、公共の場に監視カメラを設置するのは駅の改札や繁華街に留まりますが、コンピュータの解析技術は一瞬で個人を特定します。

例えば街中で事件が発生した場合、警察は現場付近のコンビニやATMの監視カメラに容疑者が映っているかを確認し、容疑者を顔認証システムにかけます。顔認証システムは個人の身長や体型、目鼻立ちなどをデータ化して付近の監視カメラの映像と比較します。街中の監視カメラ上には1時間の映像に数百、数千人が映っており人の目だけで個人を特定することは困難ですが、コンピュータは数秒で一致する人物を特定します。最新のシステムはマスクやサングラスで変装しても個人を特定出来ます。

Suicaなどのカードは電子マネーをやり取りしているだけではなく、個人情報も記録しています。駅改札のコンピュータを照合すれば、カードの持ち主の名前と住所、いつ何処で電車に乗り降りしたのかが瞬時に分かります。

主要道路や高速道路に設置されているNシステムも車のナンバーだけでなく、搭乗者の顔認証が出来るまで精度が上がっています。街中など人目につく場所で犯罪を起こせば最期、私達に逃れる術はありません。

 

ネットストーカーの恐怖

警察のデジタル捜査力の向上は監視社会に繋がるとして、捜査手法の適法性が疑問視されていますが一般人には安全な社会になります。しかしこの様な個人情報は一般人が悪用することも出来てしまいます。

例えばGoogleで自分の名前を検索すると、フェイスブックミクシィ、インスタグラムの過去の投稿が検索出来ます。いつ、何処で、誰と何をしていたのか、誰でも検索出来る状態なのです。これが恋愛のトラブルなどに大きな問題となります。恋人や配偶者の過去の履歴を閲覧出来る状態ですから、過去に誰と付き合っていたのか、どういう相手だったのかが分かってしまいます。逆に過去に別れた相手の現在も簡単に分かってしまいます。

多くの人は嫌な相手をブロック設定してSNSから締め出しすことで安心します。ですが、SNSグループ内の友人たちはその相手と繋がりを保ったままなのです。間接的に情報を得ることは可能であり、その場合は自分の知らない内に個人情報が漏れていることになります。

自分にとって絶交したい人間が、友人にとっては繋がりたい人間であり、さらに自分も友人とは繋がっていたいという状態。現実空間では三者が同じ場所にいることはないので、情報は殆ど流れないですが、SNSはインターネットの仮想空間であり三者は同じ場所にいるのです。

別れた相手の現状などを検索するのは、普通は単なる出来心で終わりますが、相手に対する執着がある場合SNSを通じて情報を集めるストーキングに発展し易いのです。具体的な被害が何処まで出るかは相手次第ですが、個人情報を勝手に集められているのは身近にある恐怖です。

匿名のブログ管理人の本名と住所が拡散するケースもあり、一度インターネットに流れた情報は簡単に複製できるため、拡散元の情報を削除できたとしてもコピー情報はサイバー空間に残り続けます。もしも自分の現状を知られたくない人物が思い当たれば、SNSに安易に投稿するのは危険です。サイトを閲覧するのは、自分の友達だけではないのです。

SNSの繋がりは自分がコントロール出来る範囲を超えた情報の網であり、私達は網の中を泳いでいるのです。

化粧と女心

男性にとって理解が難しい女性の心。その一つにメイクがあります。何故女性は化粧をするのか、女性は化粧をどのように感じているのか、

男性の思考と比較して考察します。

 

化粧とは誰のためか

化粧水、化粧下地、保湿液、乳液、BBクリームパウダー、ファンデーション、マスカラ、眉墨アイプチ、日焼け止め、カラーコンタクトなど社会人の女性はほぼ毎日化粧してから外出し、帰宅するとメイクを落とすことが習慣になっています。

ベースメイクから始める化粧は本格的にすると1時間以上かかりますが、これだけ大変な作業を毎日している女性は顔の美人度に関係なくいます。「美しい自分に見られること」は女性にとって自分の尊厳に関わることだからです。

 

他人の顔

自分の顔は鏡を見なければ分かりません。顔の作りが一人一人異なるのは、他人がその人を見分けるためです。自分の顔は身体的には自分に属していますが、社会的には他人に属しているのです。

美容整形に否定的な意見が多い理由は、顔の作りを変えることでその人が誰なのか分からなくなるからです。免許証やパスポートなどの公的書類で本人確認が難しくなるだけでなく、親や友人など長年その自分と関わってきた人の視点では、赤の他人に接するような感覚になってしまうのです。

女性が会社で働く場面など、異性の視線を意識しない場面でも化粧をするのは身嗜みの問題です。対人場面の多い接客業などでは見た目を良くしなければ、相手に悪い印象を与えてしまい、会話で挽回することは難しい。テレビのアナウンサーなどは、全国の視聴者に顔を映す仕事であり、化粧自体が仕事の一部となっています。反対に自宅を仕事場にしている女性は、他人と関わる時間が少ないので、毎日化粧をする習慣があまりありません。

 

自分の化粧

女性が化粧をする理由は、好きな男性の前では綺麗にいたい、社会人の身嗜み以外にも、自分がなりたい自分でいることが楽しいという側面があります。以前「やまんばギャル」というメイクが流行したこともありますが、芸術志向の女性が奇抜な髪型や髪色にしたり、ゴシックロリータ調の衣装を着る。アニメのコスプレを楽しむなど、異性からも社会からも受け入れられなくても自分がカワイイと思う格好をしたいという願望が化粧に現れるのです。一般女性にとっての自分の化粧はネイルに現れます。

 

ネイルアートの世界

美人であるかに関わらず、自分の顔にコンプレックスを抱えている女性は多くいます。どれだけ化粧しても自分が思うカワイイにはならない

という感情が残る。

また自分の顔は鏡がなければ見えませんが、指先は常に見えていますし、造作の違いがありません。そのため爪を美しく整え、可愛くデコレーションするネイルアートは、成りたかった自分の姿になれる化粧であり、女性の人気が高いのです。ですが男性にはこの思考が全く理解出来ません。女性の顔が綺麗だと思うことはあっても、爪が綺麗だと思うことはないのです。

 

女磨きをしたい、女子力を上げたいと思う女性は多くいます。しかし化粧とは誰に見られるかによって、意味合いも必要な化粧も変わって来ます。好きな男性のため、お客様のため、自分自身のため、誰を喜ばせるための化粧であるかを考えることで、もっと綺麗な自分でいられる

でしょう。

 

あなたは「誰」を愛しますか?

「恋したい」「愛されたい」、いつの時代も

人は恋愛に憧れ、恋に悩んでいます。何故人は恋に溺れ恋に悩むのか、今回は小説「痴人の愛」を読み解きます。 

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

 

 谷崎潤一郎:

日本を代表する文豪であり女性の美を伝統的な

日本語文体で書いた。代表作に「刺青」「細雪」「卍」など多数。欧米でも高く評価され

ノーベル文学賞の候補に上がっている。

 

あらすじ:

大正時代、中堅サラリーマンの譲治は銀座のカフェーで働く美貌の少女ナオミに一目惚れした。譲治はナオミを妻として娶り、自分の理想的な女性に育てるために惜しみなく金をかけた。ナオミは譲治の稼ぎで生活しているため、彼の愛に応えるべく献身的に振る舞った。

やがて大人の女性に成熟したナオミは、誰の目から見ても美しく愛される存在になっていた。譲治にとってナオミは自分が磨き上げた最高の女であり、唯一の心の拠り所だった。しかしナオミは自らの美貌を武器に若い男たちと関係を持つようになる。ナオミに裏切られた譲治は激怒して彼女を追い出すが、ナオミを失った彼は心を保てなくなっていた。

譲治はナオミに、他の男と付き合っても良いから自分のそばにいてくれるよう懇願し、ナオミは譲治に自分を愛しているなら全てを差し出すように要求する。そして二人の主従関係は完全に逆転した。ナオミは美貌を武器に譲治を飼い慣らし、譲治は愛欲の奴隷となった自分を屈辱に感じながらも愛に支配される歓びを見出す。

 

譲治の愛

譲治はナオミの美しさに惹かれ、自分で独占したいという思いからナオミを自分の理想に育てます。譲治はナオミの見た目を愛しており、自分が愛情を注げばナオミも自分を愛してくれると考えています。しかしナオミが自分を裏切った時も譲治はナオミと離れられませんでした。何故ならナオミは譲治にとっての理想の女性だから。譲治は根源的にはナオミその人ではなく「自分の理想とする女性」を愛しています。

 

ナオミの愛

ナオミは譲治から何でも与えられています。最初のうちは譲治への感謝がありましたが、与えられることが当然という状況に、ナオミは「自分は美しいから男に愛されて当然なのだ」と考えます。ナオミは男から愛されることで自分が満たされるのです。

大人になったナオミから見た譲治は冴えない中年男であり、見た目を好きになれません。自分を満たすためには若いイケメン男性から愛される必要がある。ナオミは根源的には「美しく男に愛される自分」しか愛していません。

 

脳内恋愛の世界

少女アイドルと彼女を応援するオタク男性との関係は、他人から見ると気持ち悪い印象を受けがちです。その理由は、一方的な愛情が捻れた形で成立しているからです。

オタク男性は舞台で踊る少女に恋しているのですが、彼女たちは仕事としてアイドルしています。愛想を撒いているのはファンのためというよりもファンに愛される自分でいるためです。握手会に感動するオタク男性と、内心では「キモい人だけど自分が愛されるためだ」と思っているアイドルの疑似恋愛関係が、一般人の恋愛感覚とはズレているのです。

両者がこれを疑似恋愛であると最初から分かっていれば、アイドルとファンの関係は健全でいられます。ですが握手会でアイドルがファンに刺される事件が多発しているように、両者の想いはすれ違っています。

 

実像と妄想恋愛

譲治とナオミの関係は相手の実像を見ていないという点で、アイドルとオタクの関係に似ています。しかしこれほど極端でないにせよ、私たちは誰かを好きになる時、相手の実像が見えていません。

片思いなどが好例ですが、相手が自分をどう思っているかも分からない段階で、相手の人物像をいい方向に解釈し、頭の中で付き合った状況をイメージしている。相手の実像とは無関係に妄想しているのです。

恋の妄想が無意味なのではありません。人間は1時間後、明日後、5年後などの未来を想像して生きていますが、未来は「未だ来ていない時間」ですからあくまで想像です。その想像力こそが私たちの生きる原動力ですから、恋が上手くいく未来を想像しなければ、私たちは何一つ行動出来ません。問題なのは実像と向き合わないことです。

 

付き合うと向き合う

私たちは皆、イビキをかくしオナラもする普通の人間です。エッチな妄想に浸り、逆に純粋な気持になる。尊敬する気持ちと嫉妬が交錯している。相反する様々な性格と感情要素が一人の人間に入っています。

誰かと付き合うとは、相手の良い部分と嫌な部分に向き合うということです。付き合い続けるとはお互いの実像を理解するための真剣な試みなのです。

 

自分の愛に溺れる

恋愛を始めるにあたって男女とも容姿が良いことは間違いなく有利です。美人であることは相手も気分が良いですから。問題なのは両者の愛が何処を向いているかです。

「理想のタイプ」を愛しているのか、「愛される自分」を愛しているのか。一方がその状態である場合は付き合ってもすぐに別れますが、両方がその状態では相手の実像に向き合わないまま関係は進展するのです。

相手を愛しているようで、実は自分の妄想を愛している。「痴人の愛」は倒錯した愛欲に溺れているようで、実は誰にも起こりうる愛の問題を突きつけているのです。