バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

繋がり社会の網

2000年代の初頭から、個人でのインターネット利用が全世界で爆発的に普及し、テレビや新聞などの既存のメディアが独占していた情報の発信を、資本や技術のない一般人でも配信出来るようになりました。

ユーチューバーやブロガーといった職業が登場し、一般の人々もフェイスブックやインスタグラムに日々の生活を綴っています。個人でビジネスをする人にとっては、SNSは費用をかけずに宣伝出来る最適な方法であり、才能と野心を持った人々に良い時代が来ました。

SNSは学校時代の同窓生など、現在は異なる環境にいる人々と繋がりを保てるだけでなく、マイナーな趣味を持つ人同士を新たに繋ぐことも出来ます。

現代社会は人と人の繋がりが希薄になっていると言われがちですが、それは同じ場所に暮らしていても気の合わない他人に興味がないだけです。学校でも職場でも家庭であっても同じことで、目の前にいる「どうでもいい人」より遠くにいる「大切な人」とのコミュニケーションを

優先しているのです。SNSの登場で人同士の繋がりは以前よりも濃密になっています。それはネットに接続している限り他人に情報が漏れ続けているからです。

 

電子の檻

英国ロンドンなど、テロを警戒する都市は街中に監視カメラが設置され、警察本部で解析しています。日本の場合、公共の場に監視カメラを設置するのは駅の改札や繁華街に留まりますが、コンピュータの解析技術は一瞬で個人を特定します。

例えば街中で事件が発生した場合、警察は現場付近のコンビニやATMの監視カメラに容疑者が映っているかを確認し、容疑者を顔認証システムにかけます。顔認証システムは個人の身長や体型、目鼻立ちなどをデータ化して付近の監視カメラの映像と比較します。街中の監視カメラ上には1時間の映像に数百、数千人が映っており人の目だけで個人を特定することは困難ですが、コンピュータは数秒で一致する人物を特定します。最新のシステムはマスクやサングラスで変装しても個人を特定出来ます。

Suicaなどのカードは電子マネーをやり取りしているだけではなく、個人情報も記録しています。駅改札のコンピュータを照合すれば、カードの持ち主の名前と住所、いつ何処で電車に乗り降りしたのかが瞬時に分かります。

主要道路や高速道路に設置されているNシステムも車のナンバーだけでなく、搭乗者の顔認証が出来るまで精度が上がっています。街中など人目につく場所で犯罪を起こせば最期、私達に逃れる術はありません。

 

ネットストーカーの恐怖

警察のデジタル捜査力の向上は監視社会に繋がるとして、捜査手法の適法性が疑問視されていますが一般人には安全な社会になります。しかしこの様な個人情報は一般人が悪用することも出来てしまいます。

例えばGoogleで自分の名前を検索すると、フェイスブックミクシィ、インスタグラムの過去の投稿が検索出来ます。いつ、何処で、誰と何をしていたのか、誰でも検索出来る状態なのです。これが恋愛のトラブルなどに大きな問題となります。恋人や配偶者の過去の履歴を閲覧出来る状態ですから、過去に誰と付き合っていたのか、どういう相手だったのかが分かってしまいます。逆に過去に別れた相手の現在も簡単に分かってしまいます。

多くの人は嫌な相手をブロック設定してSNSから締め出しすことで安心します。ですが、SNSグループ内の友人たちはその相手と繋がりを保ったままなのです。間接的に情報を得ることは可能であり、その場合は自分の知らない内に個人情報が漏れていることになります。

自分にとって絶交したい人間が、友人にとっては繋がりたい人間であり、さらに自分も友人とは繋がっていたいという状態。現実空間では三者が同じ場所にいることはないので、情報は殆ど流れないですが、SNSはインターネットの仮想空間であり三者は同じ場所にいるのです。

別れた相手の現状などを検索するのは、普通は単なる出来心で終わりますが、相手に対する執着がある場合SNSを通じて情報を集めるストーキングに発展し易いのです。具体的な被害が何処まで出るかは相手次第ですが、個人情報を勝手に集められているのは身近にある恐怖です。

匿名のブログ管理人の本名と住所が拡散するケースもあり、一度インターネットに流れた情報は簡単に複製できるため、拡散元の情報を削除できたとしてもコピー情報はサイバー空間に残り続けます。もしも自分の現状を知られたくない人物が思い当たれば、SNSに安易に投稿するのは危険です。サイトを閲覧するのは、自分の友達だけではないのです。

SNSの繋がりは自分がコントロール出来る範囲を超えた情報の網であり、私達は網の中を泳いでいるのです。

化粧と女心

男性にとって理解が難しい女性の心。その一つにメイクがあります。何故女性は化粧をするのか、女性は化粧をどのように感じているのか、

男性の思考と比較して考察します。

 

化粧とは誰のためか

化粧水、化粧下地、保湿液、乳液、BBクリームパウダー、ファンデーション、マスカラ、眉墨アイプチ、日焼け止め、カラーコンタクトなど社会人の女性はほぼ毎日化粧してから外出し、帰宅するとメイクを落とすことが習慣になっています。

ベースメイクから始める化粧は本格的にすると1時間以上かかりますが、これだけ大変な作業を毎日している女性は顔の美人度に関係なくいます。「美しい自分に見られること」は女性にとって自分の尊厳に関わることだからです。

 

他人の顔

自分の顔は鏡を見なければ分かりません。顔の作りが一人一人異なるのは、他人がその人を見分けるためです。自分の顔は身体的には自分に属していますが、社会的には他人に属しているのです。

美容整形に否定的な意見が多い理由は、顔の作りを変えることでその人が誰なのか分からなくなるからです。免許証やパスポートなどの公的書類で本人確認が難しくなるだけでなく、親や友人など長年その自分と関わってきた人の視点では、赤の他人に接するような感覚になってしまうのです。

女性が会社で働く場面など、異性の視線を意識しない場面でも化粧をするのは身嗜みの問題です。対人場面の多い接客業などでは見た目を良くしなければ、相手に悪い印象を与えてしまい、会話で挽回することは難しい。テレビのアナウンサーなどは、全国の視聴者に顔を映す仕事であり、化粧自体が仕事の一部となっています。反対に自宅を仕事場にしている女性は、他人と関わる時間が少ないので、毎日化粧をする習慣があまりありません。

 

自分の化粧

女性が化粧をする理由は、好きな男性の前では綺麗にいたい、社会人の身嗜み以外にも、自分がなりたい自分でいることが楽しいという側面があります。以前「やまんばギャル」というメイクが流行したこともありますが、芸術志向の女性が奇抜な髪型や髪色にしたり、ゴシックロリータ調の衣装を着る。アニメのコスプレを楽しむなど、異性からも社会からも受け入れられなくても自分がカワイイと思う格好をしたいという願望が化粧に現れるのです。一般女性にとっての自分の化粧はネイルに現れます。

 

ネイルアートの世界

美人であるかに関わらず、自分の顔にコンプレックスを抱えている女性は多くいます。どれだけ化粧しても自分が思うカワイイにはならない

という感情が残る。

また自分の顔は鏡がなければ見えませんが、指先は常に見えていますし、造作の違いがありません。そのため爪を美しく整え、可愛くデコレーションするネイルアートは、成りたかった自分の姿になれる化粧であり、女性の人気が高いのです。ですが男性にはこの思考が全く理解出来ません。女性の顔が綺麗だと思うことはあっても、爪が綺麗だと思うことはないのです。

 

女磨きをしたい、女子力を上げたいと思う女性は多くいます。しかし化粧とは誰に見られるかによって、意味合いも必要な化粧も変わって来ます。好きな男性のため、お客様のため、自分自身のため、誰を喜ばせるための化粧であるかを考えることで、もっと綺麗な自分でいられる

でしょう。

 

あなたは「誰」を愛しますか?

「恋したい」「愛されたい」、いつの時代も

人は恋愛に憧れ、恋に悩んでいます。何故人は恋に溺れ恋に悩むのか、今回は小説「痴人の愛」を読み解きます。 

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

 

 谷崎潤一郎:

日本を代表する文豪であり女性の美を伝統的な

日本語文体で書いた。代表作に「刺青」「細雪」「卍」など多数。欧米でも高く評価され

ノーベル文学賞の候補に上がっている。

 

あらすじ:

大正時代、中堅サラリーマンの譲治は銀座のカフェーで働く美貌の少女ナオミに一目惚れした。譲治はナオミを妻として娶り、自分の理想的な女性に育てるために惜しみなく金をかけた。ナオミは譲治の稼ぎで生活しているため、彼の愛に応えるべく献身的に振る舞った。

やがて大人の女性に成熟したナオミは、誰の目から見ても美しく愛される存在になっていた。譲治にとってナオミは自分が磨き上げた最高の女であり、唯一の心の拠り所だった。しかしナオミは自らの美貌を武器に若い男たちと関係を持つようになる。ナオミに裏切られた譲治は激怒して彼女を追い出すが、ナオミを失った彼は心を保てなくなっていた。

譲治はナオミに、他の男と付き合っても良いから自分のそばにいてくれるよう懇願し、ナオミは譲治に自分を愛しているなら全てを差し出すように要求する。そして二人の主従関係は完全に逆転した。ナオミは美貌を武器に譲治を飼い慣らし、譲治は愛欲の奴隷となった自分を屈辱に感じながらも愛に支配される歓びを見出す。

 

譲治の愛

譲治はナオミの美しさに惹かれ、自分で独占したいという思いからナオミを自分の理想に育てます。譲治はナオミの見た目を愛しており、自分が愛情を注げばナオミも自分を愛してくれると考えています。しかしナオミが自分を裏切った時も譲治はナオミと離れられませんでした。何故ならナオミは譲治にとっての理想の女性だから。譲治は根源的にはナオミその人ではなく「自分の理想とする女性」を愛しています。

 

ナオミの愛

ナオミは譲治から何でも与えられています。最初のうちは譲治への感謝がありましたが、与えられることが当然という状況に、ナオミは「自分は美しいから男に愛されて当然なのだ」と考えます。ナオミは男から愛されることで自分が満たされるのです。

大人になったナオミから見た譲治は冴えない中年男であり、見た目を好きになれません。自分を満たすためには若いイケメン男性から愛される必要がある。ナオミは根源的には「美しく男に愛される自分」しか愛していません。

 

脳内恋愛の世界

少女アイドルと彼女を応援するオタク男性との関係は、他人から見ると気持ち悪い印象を受けがちです。その理由は、一方的な愛情が捻れた形で成立しているからです。

オタク男性は舞台で踊る少女に恋しているのですが、彼女たちは仕事としてアイドルしています。愛想を撒いているのはファンのためというよりもファンに愛される自分でいるためです。握手会に感動するオタク男性と、内心では「キモい人だけど自分が愛されるためだ」と思っているアイドルの疑似恋愛関係が、一般人の恋愛感覚とはズレているのです。

両者がこれを疑似恋愛であると最初から分かっていれば、アイドルとファンの関係は健全でいられます。ですが握手会でアイドルがファンに刺される事件が多発しているように、両者の想いはすれ違っています。

 

実像と妄想恋愛

譲治とナオミの関係は相手の実像を見ていないという点で、アイドルとオタクの関係に似ています。しかしこれほど極端でないにせよ、私たちは誰かを好きになる時、相手の実像が見えていません。

片思いなどが好例ですが、相手が自分をどう思っているかも分からない段階で、相手の人物像をいい方向に解釈し、頭の中で付き合った状況をイメージしている。相手の実像とは無関係に妄想しているのです。

恋の妄想が無意味なのではありません。人間は1時間後、明日後、5年後などの未来を想像して生きていますが、未来は「未だ来ていない時間」ですからあくまで想像です。その想像力こそが私たちの生きる原動力ですから、恋が上手くいく未来を想像しなければ、私たちは何一つ行動出来ません。問題なのは実像と向き合わないことです。

 

付き合うと向き合う

私たちは皆、イビキをかくしオナラもする普通の人間です。エッチな妄想に浸り、逆に純粋な気持になる。尊敬する気持ちと嫉妬が交錯している。相反する様々な性格と感情要素が一人の人間に入っています。

誰かと付き合うとは、相手の良い部分と嫌な部分に向き合うということです。付き合い続けるとはお互いの実像を理解するための真剣な試みなのです。

 

自分の愛に溺れる

恋愛を始めるにあたって男女とも容姿が良いことは間違いなく有利です。美人であることは相手も気分が良いですから。問題なのは両者の愛が何処を向いているかです。

「理想のタイプ」を愛しているのか、「愛される自分」を愛しているのか。一方がその状態である場合は付き合ってもすぐに別れますが、両方がその状態では相手の実像に向き合わないまま関係は進展するのです。

相手を愛しているようで、実は自分の妄想を愛している。「痴人の愛」は倒錯した愛欲に溺れているようで、実は誰にも起こりうる愛の問題を突きつけているのです。

 

 

 

 

 

 

 

日本のエネルギー資源

日本はエネルギー資源として石油や天然ガスを全て外国からの輸入に頼っています。原子力発電所は再稼働の見込みが立たないため、国内電力の8割以上を火力発電に依存しています。

近年はマレーシアやインドネシアから天然ガスの輸入量が増えていますが、燃料資源の輸入のために年間数兆円の貿易赤字が出ており、電気料金も値上げされています。経済界からは原子力発電所の再稼働を求める声も高まる中、世論の反発も強い。今回は日本のエネルギー政策の現状と今後の方針を考察します。

 

原子力発電

原子力発電はウラン235を低レベルの核分裂状態におき、発生した熱で水を沸騰させて蒸気タービン発電機を回す構造です。構造だけ見ると理科の実験並みに単純なのですが、核分裂したウラン235は「消えないマッチ」なのです。

石油や天然ガスなど、酸素と化学反応で熱エネルギーを出す物質は一度燃えるとそれ以上熱エネルギーを出しません。しかし核分裂反応は一度始まると一ヶ月以上燃料を交換しなくても熱エネルギーを放出します。化学反応より遥かに高エネルギーですが、ウラン核分裂反応を止める方法がありません。

使用済み核燃料は原子炉から取り出した後も高熱と放射能を数百年放出するため、核燃料の処理はどの国も悩みのタネです。放射能半減期が来るまで保管するしかないのですが、核燃料が外部に流出するとテロリストに渡る危険があるため、保管施設は厳重な警備が必要です。

日本国内には原子炉稼働時からの使用済み核燃料が処理されることなく溜まっています。国は地層処分の候補地を探していますが、地震リスクのない土地はどこにもなく、人の住まない場所も何処にもありません。使用済み核燃料を受け入れる自治体がない現状では、原子力発電の本格的な再稼働は見通しが立たないのです。

 

水力発電

ダム湖にためた水を、高低差を利用して滝のように落とし、水の落下エネルギーで水車を回す発電方式です。電力消費量の1割を占めています。燃料が不必要なので半永久的に発電できること、二酸化炭素の排出がないことがメリットです。デメリットは、初期投資として巨大なダムを建設する必要があり、自然環境への負荷も大きいです。夏場などで降水量が減るとダムの貯水量も減るため発電量が安定しません。

日本国内はほぼ全ての河川にダムを建設しており、これ以上水力発電所を増やせない状況です。近年は農業用水路や下水路に小型発電機を設置する小規模水力発電がありますが、発電機が小型のため発電量も少なく、普及してはいません。

 

火力発電

化石燃料を燃やした熱で水を沸騰させ、蒸気タービンを回す発電方式です。やかんで湯を沸かすような単純な原理であることから、火力の調整によって発電量をコントロールしやすく、電力供給が最も安定しています。初期の火力発電には石炭が使用され、現在は天然ガスを燃料とすることが多いです。

火力発電は大量の二酸化炭素を排出するため、温室効果ガス削減に取り組むための京都議定書は発行出来ていません。また、エネルギー資源のない日本では化石燃料を他国からの輸入に頼る他になく、過去には中東戦争イラン革命OPECによる原油価格の決定により石油危機に見舞われています。

東南アジア諸国から天然ガスの輸入量を増やしているのは地政学的なリスクを避けるためでもあるのですが、エネルギー資源を他国に依存する状況は貿易赤字を拡大するため、国産エネルギーの比率を上昇させるかが課題となります。

 

太陽光発電

アルバート・アインシュタインは、光は粒子であり電子の運動エネルギーに変換出来る「光電効果」の発見により、1905年にノーベル物理学賞を受賞しました。光の粒子を二層の半導体に当てると、表層内の電子は裏層に移動して電荷が発生します。この原理を使用したのが太陽光発電であり、シリコンパネルを設置すれば燃料不要で半永久的に発電出来ます。

福島第二原発放射能漏れ事故により電力事業全体が改革される中で、安全性が高く家庭にも設置出来る太陽光発電システムを国も推進しています。

太陽光発電のメリットは、燃料不要で二酸化炭素を排出しない。建物の屋根や休耕地など場所を選ばずに設置出来る。電気を発電する場所と消費する場所が近いため送電コストが低い。発電施設が広範囲に点在するため災害時にも電力を確保出来るなどがあります。

デメリットとしては、シリコンパネルの製造コストが高く発電コストの採算が取れない。日照量に発電が左右されるので電気を安定供給出来ない課題があります。天気が曇りがちで冬場に雪が降る日本海側では向いていません。国は太陽光発電の電力を高く買い取ることで太陽パネルの普及を進めています。また電力を安定供給するために電気を貯める水素電池の研究が続いています。

 

風力発電

風車の回転エネルギーで発電します。風が吹けば半永久的に発電出来ます。風車の製造コストと発電コストは太陽光発電の数分の一であり、海から風を受ける場所に設置が進んでいます。

デメリットとして風が吹かないと発電出来ないため電力の安定供給が難しい。風車の回転で発生する低周波が人体に悪影響となる。人によっては耳鳴りと目眩が起こります。希少な鳥たちが風車の回転翼にぶつかる事故もあります。

近年、低周波の発生を抑えて数倍の発電効率を持つ「風レンズ」という新式の風車が登場しています。常に風が吹いている海上に風車を浮かべる研究も行われています。

 

潮力発電

潮の満ち引きを利用して、干潟にダム型の水力発電設備を設置する方式です。本来のダムは貯水と洪水防止のために造られるもので、水力発電は付属設備です。そのため潮力発電のためだけに大規模施設を作ることが難しく、現在はフランスに一ヶ所だけ稼働しています。津波の危険もある日本には不向きな発電です。現在は実験段階ですが、洋上の海流エネルギーで発電タービンを回す装置が開発されています。

 

燃料電池発電

貴金属の触媒を通じて水素やメタンガスを酸素に反応させてると、電子の負荷と熱エネルギーが発生します。電気と同時に熱エネルギーにより熱水を作る装置が燃料電池です。火力発電では燃料を燃やして電気エネルギーを取り出しても熱エネルギーは捨てるしかありません。燃料の全エネルギーの中で、家庭に電気として供給されるのは10%程度といわれており、熱エネルギーの有効利用が課題でした。燃料電池はその課題を解決するために造られた装置であり、ENEOS社は家庭用燃料電池を発売しています。

 

バイオマス発電

間伐材などの木材を細かく粉砕し、火力発電する方式です。排出した二酸化炭素は元の木が吸収していたと見なされるので、温暖化対策に有効とされていました。木材資源が豊富で既存の発電所が遠い山間部などではエネルギー供給に有効な発電方式です。作物の茎などをバイオエタノールに変換する研究も続いています。

 

地熱発電

地表近くまでマグマで熱せられ水蒸気が噴き出す場所で蒸気タービンを回す方式です。アイスランドでは一般的な発電ですが、日本国内は設置場所が限られるための発電量は僅かです。

 

核融合発電

「地上の太陽」ともいわれる次世代の原子力発電構想です。重い原子核を軽い原子核に分裂させることが核分裂発電ですが、水素などの軽い原子核を光速で衝突させて重い原子核に融合させ、その際のエネルギーを取り出す発電方式です。実現すればエネルギー資源の枯渇はなくなり、どの国も無尽蔵にエネルギーを使えるとされます。

しかし核融合反応は高エネルギー状態でしか起こらないため、核爆発を内部に閉じ込めることができる特殊な融合炉が必要です。日本も参加した国際共同研究をフランスの実験炉で行なっていますが核融合の安定化はできていません。

 

スマートグリッドシステム

これまでは発電方式について述べてきました。電力全体の発電量から見ると自然エネルギー発電は数%です。殆どを火力発電に依存している状況で、自然エネルギー発電への転換は荒唐無稽だという意見は多いです。

しかしここで考えたいのは、そもそも何故これだけの電力が消費されているかということです。人々が活動する日中の電気消費量は増え、夜になると減りますが、発電所はエネルギー効率のために夜間も昼間と同量に発電しています。また、エネルギー量を考える場合、発電以外にも送電コストや燃料の輸送コストを含める必要があります。そして日本国内は生産人口の減少によって消費電力全体が減るのです。

東日本大震災の際には電力供給が追いつかず、各地で計画停電を実施しました。発展途上国には多くの日本企業が工場を作っていますが、それらの地域は1日に何度も停電します。日本では停電が起きないように発電所の供給電力は需要を上回っているのですが、もしも日中の計画停電に地域住民が同意すれば、全体の発電量は1-2割減らせます。

本来私たちが取り組むべきは節電なのです。とはいっても家庭の電気をこまめに消すという話ではありません。契約しているアンペア数そのものを落とすのです。企業も同様に、アンペア数を落とした上でオフィスの照明や冷暖房をコンピュータ上で管理することで生活に支障をきたさなくても節電出来ます。このように電気が必要な場所と不必要な場所をリアルタイムで確認し、コンピュータで必要箇所にのみ電力を供給する方式がスマートグリッドシステムです。

 

「自由」とは何か

ストレスの多い現代社会は、誰もが仕事や人付き合いに振り回され「もっと自由になりたい!」と思います。しかし「自由」とはそもそも何か?今回は自由の意味を考察します。

 

忙しい社会

現代人の毎日は忙しく、社会人であれば仕事、

家庭に入れば家事育児、子どもであれば学習塾や習い事に追われています。成長とは一定の時間内により多くの成果を出すという定義が社会に浸透しているため、向上心の高い人ほど空いた時間に予定を詰めます。

しかし「忙」という漢字は「心を亡くす」と書くように、忙し過ぎる状態では自分が本当に何をやりたいかも良く分かりません。自分が望む状態と今の行動に食い違いが大きければストレスは蓄積し、限界を越えればストレス障害として発症します。

特定の企業に所属せず、パソコン1台でいつでもどこでも働けるノマドワークが注目されたのは、社会人の自由願望の現れです。ストレスの蓄積を避けるために精神的な余裕を持つことは必要ですが、それは自由の実現によって得られるものなのでしょうか?

 

自由の刑

フランスの哲学者:ジャンポール・サルトル実存主義(「世界」と「私」が存在する意味を追求する哲学派)の代表者です。サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と提唱しました。自由の刑とは、自分が生きる意味は自分が行動して見出す必要があり、行動して人類全体に影響を与えた責任が問われるということです。キリスト教の教えが浸透していた時代には、自分が生きる意味は神のためでした。どう生きれば良いかは聖書の教えに従えば良かったのです。

しかしその教えを説くキリスト教会は、組織が拡大する中で国家権力との繋がりを深めていました。キリスト教会は信者から教団本部に布施を集める強力な集金システムがあります。豪華絢爛な寺院が作られる傍で庶民が餓死している状況は、人々に神を信じても救われないと理解させるに足りました。

中世以降のヨーロッパ各国では政治と宗教の分離、科学と宗教の分離が起こり、キリスト教の教理にとらわれない「自由」な構想によって、政治経済・科学・社会制度が整えられます。人々は神の教えを実践するよりも自由を得ることが幸福に近いと考えるようになり宗教離れは加速しました。しかし、人々が神を放棄しすれば、神は「自分が生きる意味」を与えてくれないのです。

 

「異邦人」の自由

サルトルの盟友であるアルベール・カミュは、代表作「異邦人」の中で、自分が行動する理由を自分自身にのみ決定する人間を描いています。主人公の行動は倫理観が全くなく、読者から見ても理解不能ですが、それは自分の人生の解釈は自分だけの自由であるとする主人公の生き方です。主人公は神の赦しを否定して死刑に臨むのですが、それが誰に危害を与えても、誰からも理解されなくても自分の自由を守るのだという「自由」を突き詰めた姿なのです。

 

自由と社会規範

人間は一人一人が自由に生きる権利がありますが、自分が他者に与えた影響に対して責任が伴うので、法の下の自由は「公共の福祉」に反しない限り認められています。

表現の自由があっても故意に他者を傷付ける発言は許されないですし、恋愛の自由があっても不倫は社会的に許されません。どれだけ暑くても公然で裸にはなれないですし、お店で写真を撮りたくても被写体の管理者の許可が必要です。公共の福祉と個人の自由とのバランスを取るために法律や倫理などの社会規範はあります。そうした社会規範の上に、会社や地域など自分が所属する集団独自の規範が乗せられます。規範を守らなければ集団から追放されますので、私たちの自由は他者が作ったルールによって大きく制限されています。

 

自分の自由の目的

それでは社会集団に所属せずに生きることは自由なのでしょうか。普段は忙しい社会人が、休日を寝るだけでいることは多いです。疲労回復が目的で積極的に寝ることは充実した時間の使い方です。しかし大半の人は休日にやる事がないから、寝るかインターネットで時間を潰して後悔するのではないでしょうか。

例えば不登校ニート状態の人は毎日が完全に自分の自由時間です。ですが目的のない自由はやる事がないため時間は全て暇になります。すると彼らのやる事は生きる時間全てを暇つぶしにあてるということ。仕事や勉強をしていればその間は思考力を仕事や勉強に使います。しかし目的のない自由はゴール地点がどこにあるか分からないため、思考は空回りします。そこに「自分が生きる意味」が問題になるのです。

目的もなく他者との繋がりもなく時間を潰しているだけという状態は、人間から自信を奪います。自由を手にしているはずなのに、その自由を使う目的がないという逆説に苦しむのです。

 

自己管理は難しい

フリーランスの仕事を選ぶ理由として、自分の時間を他人に管理されることが嫌だという動機がありますが、自分の時間を自己管理することは意外に難しい作業です。

夏休みの宿題を終わらせる作業で例えると、毎日一定時間で課題をコツコツ進める人は少なかったはず。大半の人は中盤まで課題に手を付けずギリギリになって焦るタイプです。時間に余裕があると思えば、問題を先送りするのです。大人に成長してもこの傾向は変わりません。

例えば喫煙者が禁煙を考えるときは「今度こそ禁煙しよう、でもそれは今日じゃない。」と考えます。人間にはタバコを止める自由が選択肢としてあるのに、自分の意思だけで禁煙することは難しい。

時間の使い方も同じ問題を持っており、自分の意思で時間を管理することには休日でも決まった日課をこなすだけの自己管理能力が必要です。一般の人はそれが出来ないからこそ、気分が乗らなくても学校に行き、会社に行くのです。時間を他者に管理されていた方が一般人は有能に動けます。

 

自らに由る

仏教の世界観は、秩序立って見える世界は不変ではなく、認識を変えれば精神は自分を苦しめる思考から自由になるというものです。「由」とは心の拠り所を意味しており、「自由」とは「自分の認識を精神の拠り所にする」ことです。これは「自分が生きる意味」は神や他者にあるにではなく、「目標とする自分」にあることを意味しており、目標達成のためには他律ではない自律の考え、即ち自分ルールを守ることが必要です。

 

自分のルールを守る

要するに自由とは自分が好き勝手に生きることではないのです。好き勝手に生きた時間を無駄にしたと後悔するのは、他ならぬ自分なのですから。人には職業選択の自由言論の自由もあります。しかしその自由が「在るべき自分」を意味しているなら、無責任な仕事や言動は周囲に混乱を招くだけで「在るべき自分」から遠ざかっています。人は何よりも自由を得るために自らを律する必要があるのです。

自由とは何か?それは在るべき自分を生きるために、他人が決めたルールを退け、自分が決めたルールを厳守することなのです。

 

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

 

 

 

臭いけど旨いもの

夏場は食品が腐り易く、家庭や飲食店が苦労する季節です。食料品の消費期限は余裕を持って設定されていますが、腐りかけた食品は細菌やカビが繁殖しています。

サルモネラO-157ウェルシュ菌などは食中毒の危険が高い上に、菌の毒素は加熱しても分解されない事もあります。危ない食品は安易に火を通さずに廃棄することをお勧めします。今回は何故食品は腐るのか、細菌発生の原理を解説します。

 

細菌学の父:パスツール

細菌とは自然界や他生物の体内に生息する目に見えない微生物であり、動物より植物の仲間です。顕微鏡の発明により細菌の存在は証明されましたが、19世紀まで細菌は空気中から自然発生すると考えられていました。

フランスの細菌学者ルイ・パスツール(1822〜1895)は白鳥フラスコの実験で、加熱処理した食品に空気中の雑菌が入らなければ食品中に細菌は発生せず、腐敗しないことを証明しました。彼は生物は自然発生しないという生物学の基礎原理を証明し、腐敗の原因は細菌汚染であることも証明しました。

医療現場にも病原体を消毒で遮断するという概念が導入されたことで、当時は死亡率30%と言われた外科手術は、死亡率5%以下に改善したのです。パスツール狂犬病予防接種の開発など医学分野でも大きな功績を残しています。

パスツールはある時、ワインが発酵せずに酢酸になってしまう原因解明を依頼されます。顕微鏡でワインを観察すると、通常のワインに酵母菌がいること、酢酸化したワインには乳酸菌がいることを発見しました。食品の化学変化は微生物によって発生する大発見だったのです。パスツールはワインや牛乳に低温殺菌法を用いることで腐敗や酸化を防ぐ技術を確立しました。

 

細菌と生物の腐敗

生物は生きている状態では、細胞内に様々な化学変化が起きており、細菌が侵入しても免疫細胞によって排除されます。口の中や腸内には大量の細菌が生息していますが、宿主生物が生きている限り細菌は生体で大繁殖はしません。

一方で、傷口を不潔な状態で放置すると外部からの細菌侵入を食い止められず、体内の免疫力が負けてしまうことがあります。これが敗血症であり、身体中に細菌の毒素が回るため致死率が高い危険な状態です。腐った組織は二度と戻らないため切り取らなければなりません。糖尿病性壊疽や蛇毒性壊疽で足先などの組織が腐ると、毒の巡りを防ぐために足を切断しなければいけないほど、腐敗とは死に近いのです。

 

生物が死んで腐敗するとは、食べ物が糞便になったと考えると分かりやすいです。便は体内に吸収出来ない食べ物の残りカスを排泄していると思われがちですが、実際には死んだ体内細胞の集まりであり、茶色なのは赤血球が死んだ色です。生体は蛋白質を分解した毒素を尿として排泄し、死んだ細胞を便として排泄するからこそ生きていられるのです。死んだ細胞は化学変化せず、免疫機能もありません。しかし栄養成分は豊富なため、便中の細菌は大繁殖し便を分解して土に還します。

死体も基本は同じです。生体活動の停止によって内臓や筋組織は消化酵素によって液状に溶かされます。そして活性化した体内の細菌によって食い尽くされます。

 

蝿と蛆の食事

蝿は腐った食品や死体に集る昆虫として嫌われていますが蝿は何故腐った物を食べるのか、それは独自の消化能力にあります。蝿は口吻というストロー状の器官から消化液を分泌し、食料を溶かしてから吸い込みます。そのため腐敗によってある程度分解が進んだ死体は、消化吸収し易いのです。

蝿や蛆は細菌に対して独自の抗生物質を持っており、腐った物を食べても生きられます。蛆の食性を利用して、糖尿病性壊疽にはマゴットセラピー(腐敗組織を蛆に除去させる治療)が行われています。

 

腐った食品は食べられるか

蝿などの昆虫に限らず、多くの生き物は腐った食料や排泄物を食べることが出来ます。野生環境では食料や水が得られる保障がないため、身体の免疫機能をあげて細菌や毒を含む食料や水でも吸収出来る体質になっています。

東南アジアの河川にはコレラ赤痢菌が大量にいますが、現地民は飲料水にできるほど抵抗力が強いです。現代人には腐った食品を食べるなど考えにくいことですが、日本は高温多湿の気候で食品は腐り易く、日本人は昔から食品の保存に悩んできました。細菌発生を防ぐために塩漬けや燻製、乾物などの保存方法が生まれましたが、それとは逆に敢えて食品に細菌を発生させる方法も使われます。それが「発酵」です。

 

腐敗と発酵

腐敗と発酵は、どちらも食品を微生物が分解する過程であり、人間にとって毒になるものが腐敗、人間にとって栄養となるものを発酵としています。発酵食品の内部は酵母菌や麹カビが大量発生している状態なので腐敗に進みません。

そのため味噌や酒類に消費期限はないのです。食品の冷蔵技術が進歩し、いつでも食料が手に入る現代においても、発酵食品は大量に生産されています。それは発酵で食品を分解することで、従来の食品にはない独自の旨味成分が発生するからです。

蛋白質は分解・合成することで様々なアミノ酸が出来ます。このアミノ酸が旨味成分であり、大豆の発酵食品である味噌や醤油、納豆などがあります。味噌と醤油は麹カビが発酵しますが、納豆は納豆菌が発酵します。納豆菌の発酵臭は腐敗と似ているため、臭くて食べられない人は多くいます。一方で好きな人には旨味成分が美味しく感じられます。

動物性蛋白質の発酵食品としてヨーグルトとチーズがあります。ヨーグルトは穀物が取れない中央アジア地域では特に重要な食品であり、ヒンドゥー教では神々への捧げ物として扱われます。乳糖を乳酸菌が分解して出来るヨーグルトは腸内環境を保つ働きが強く、パキスタンブルガリアなどの地域は高度医療がなくても長寿の人が多いです。

チーズは牛乳や山羊乳の蛋白質酵素で固め、青カビや白カビで発酵させた食品です。カビ臭さが強烈なチーズは好き嫌いの分かれる食品ですが、世界中に愛好家がいます。

魚類を発酵させた食品は腐敗と変わらないほど臭いが強烈であり、好む人や地域が限られるために一部にしか出回りません。くさやの干物や琵琶湖の鮒寿司などが知られています。スウェーデン産のシュールストレミングは世界一臭い缶詰として有名です。ニシンを乳酸発酵させた食品ですが、屋内で開封すると臭いが取れなくなります。

 

酒と酵母

米や麦などの穀物酵母菌で発酵させた食品が酒です。アルコールには脳を麻痺させて多幸感をもたらす作用があるため、人間にとって酒は大切な飲み物になりました。人類が麦の栽培を始めたのはビールを作るためだったとも言われるほど農耕と醸造の歴史は関係が深いです。

初期の酒造りは酵母菌の存在が知られていなかったため、穀物に天の恵みがもたらされるのを待つという状態でした。映画「君の名は」に登場する口噛み酒は米を咀嚼して唾液中のアミラーゼで分解し、空気中の酵母菌の着床させるという方法で造られます。

酒造りの始まりは酵母菌次第という神の頼みであり、そのため醸造した酒を地域の神社に奉納する慣習が現代まで続いています。酵母菌や酒樽の管理が進んだ現代でも、酒造りを完全にコントロールすることは出来ていません。

 

 

愛情と殺意の本能

今回は愛情と殺意の関係を考察します。両者は対局にあるようで、人間社会の基本はこの2形態しかありません。

 

殺人と戦争

日本国内での殺人事件は年々減少しており年間300件程です(2012:警察庁)。これが1950年代には2000件前後となります。しかし殺人事件とはあくまで私情であり、殺す相手も基本的に一人です。これが国家や政治組織単位での殺人=戦争や内戦になると、犠牲者は数百万人になります。戦争は殺人に国家のお墨付きが出ますから基本的に歯止めがかかりません。普通に考えれば人を殺すことはとても恐ろしいことです。なのに国や家族などの共同体を守るという名目があれば人間は恐怖も倫理も易々と越える。そもそも人間は何故他人を殺したいのか?それは殺戮本能の働きによるものです。

 

アインシュタインフロイトの見解

1932年、国際連盟の誘いに応じた物理学者アルバート・アインシュタインは、一番対話したい人物として精神分析学の創始者ジクムント・フロイトを指名し、「人間は何故戦争をするのか」を尋ねました。両者の見解は一致しています。戦争の原因は経済格差や宗教対立などといわれますが、こうした理由は後付けです。人間は本来「他者を殺したい」欲望に動かされているために戦争を正当化する理由を持ってきているのです。宗教や法律、倫理において殺人を禁じているのは、禁止しなければ人間は勝手に殺し合いを始めるからです。

 

殺戮本能の起源

私たち人間:ホモ・サピエンスは、数百万年前にチンパンジーなどの類人猿と別れた存在です。ジャワ原人北京原人ネアンデルタール人など他の原人族は絶滅しており、アフリカの黒人からアラスカのイヌイット族まで、全く異なるように見える人種もDNAを辿ると数万年前は全て一つの人類種であったことが分かっています。他の原人族が何故絶滅したのかは人類史の大きな謎です。

ホモ・サピエンスが他の原人族や類人猿と何が同じで何が異なるか、人類学や霊長類研究はそれを解明するための学問ですが、一つ分かっている事として、高度な社会性を持つ動物は社会集団を保つ手段として同族殺しを行うのです。

 

 チンパンジーの殺戮社会

チンパンジーは人間とのDNAが99%同じである類人猿です。人間の3歳程度の知能を持っていますが性格は極めて凶暴です。群れは一頭のオスに数頭のメスが連なる一夫多妻制であり、弱いオスは群れに入れず子孫を残せません。群れのオスが余所者に負けると群れのオスは交代しますが、以前のオスの間に誕生した子どもは新しいオスによって全て殺されます。

メスは子どもを抱えている間は妊娠出来る状態ではないので、オスが自分のDNAを残すためには他のオスの子どもを排除するしかありません。群れの中には1位、2位、3位などの個体としての序列があり、序列の高い個体に歯向かえば殺し合いになります。厳しい野生に生きるチンパンジーにとって「弱肉強食」が集団を保つための戒律なのです。

 

人間の戒律社会

ホモ・サピエンスは集団内部の私情による殺人を戒律で禁止しています。もしも人を殺せばその人物はアウトロー(破戒者)として集団から排除されます。現代においても殺人犯を刑務所という社会の外に置くという構図は同じです。

しかし、集団と他集団の殺し合いは公共の意味合いを持つため基本的に推奨されています。南米アマゾンやパプアニューギニアの原始部族は数千年前から近隣の部族と戦争しています。部族社会であるアフリカ諸国も常に紛争状態ですし、戦争と決別すると主張している先進国が、最も強力な軍隊を配備しています。

法律や戒律とは社会集団内部の合意事項であるため、外部の集団には適用されません。国際法には戦争そのものを禁止する規定がなく、他国と交戦する場合は戦線布告などの手続きを行うことが定められているだけです。

 

ボノボの愛情社会

ボノボ(ピグミーチンパンジー)はチンパンジーの亜種属です。体格が小型である以外にチンパンジーと外見上の違いがないのですが、性格が全く違います。集団内部で揉め事が起きた場合、チンパンジーは殺し合いにより解決しますが、ボノボは性行為による愛情確認によって解決します。多くの猿属は集団のコミュニケーションを図るために毛繕いを行いますが、ボノボはオスとメスだけでなく、オス同士・メス同士でも違いの性器を愛撫する行動が見られます。

生物にとって性行為とは生殖のみを目的としています。しかし人間は子どもを作る予定がなくてもセックスすることを当然としている。性行為をコミュニケーションの一環として行う生物は、人間とボノボだけです。

 

本能のあるべき姿

生物は他の生物を殺して食べなければ生きていけません。現代人にとって食肉とはスーパーの商品ですが、野生の生物や原始部族にとっての食肉とは他生物の命そのものです。生きるために殺すこと、殺戮本能は動物たちが生きるために身に付けたものです。

そして次世代を生かすためには愛情本能が必要です。基本的に生物は愛情と殺意の本能を宿していますが、高度な社会性を維持する必要があると、愛情と殺意を仲間集団にも適用するようになります。チンパンジーとボノボは最も人間に近い存在です。人間は社会を維持するために両者の本能を引き継いでいるのです。

しかし本能のままに行動しても集団は維持出来ない。ホモ・サピエンスは数万年の歴史で試行錯誤しながら様々な社会集団の規範をつくりました。そして現代まで残っているのが、戦争でのみ殺人を認めること、性行為を結婚したカップルにのみ推奨することです。これ以外で殺戮と性行為を行うことは、法律で禁止されているいないに関わらず、どの社会集団でも公に認められません。

自分の幸せのために他人を犠牲にしても良いという考えを誰もが知らずにしています。性行為を婚姻・カップル関係に留める必要性は誰もが「常識」として知っているのに、誰も守る気がありません。社会規範と本能の関係を両立させるためには、人間社会の制度は発展途上なのです。