バカ田大学講義録

バカ田大学は、限りなくバカな話題を大真面目に論じる学舎です。学長の赤塚先生が不在のため、私、田吾作が講師を務めさせて頂いております。

防災省をつくろう

7月6日に九州北部を襲った豪雨は、未だに被害の全容が掴めず、被災者を救助している現在進行系の災害になっています。

日本は世界の地震・火山の4割が集中しているといわれる災害多発国です。近年だけでも、

雲仙岳噴火:平成3年6月、死者43人

阪神淡路大震災:平成7年1月、死者6433人

三宅島噴火:平成12年6月、死者なし

有珠山噴火:平成

中越地震:平成16年10月、

能登半島地震:

東日本大震災:平成21年3月、死者15893人

御嶽山噴火:平成24年10月、死者57人

広島市多発土石流:平成26年8月、死者73名

伊豆大島土石流:平成25年、死者39名

熊本地震:平成29年3月、

が発生しており、歴史を下れば関東大震災(大正12年:死者10万人、東京、神奈川壊滅)、宝永の富士山噴火(1700年:江戸に火山灰が積もり、記録的な冷夏による飢饉発生)など、首都圏が全滅する規模の災害が100年単位で繰り返されています。この国に生きる限り災害から逃げ場は

ありません。

 

災害対策

自然災害において、事前予測がある程度確立しているのは大雪と火山噴火だけです。地震・気象予測はまだまだ途上であり、地震や豪雨、土砂崩れはいつ何処で発生するか分かりません。

例え予測が確立しても、出来る事は事前に住民を避難させるだけであり、命は守っても生活基盤は破壊されます。

台風に原子爆弾が無効であるほど、気象エネルギーは膨大です。地震や火山のエネルギーも、人類が制御出来るエネルギーとは桁違いであり自然災害そのものを封じる手段はありません。現在の技術水準で可能なのは、災害の兆候から被害を予測し、行政単位で住民を避難させること、避難住民の生命と生活を守ることです。

 

災害対策の難しさ

日本は災害に遭うたびに、災害対策の課題を検討し、体制を進化させてきました。東北地方沿岸部は、明治時代・昭和初期にも津波被害で壊滅していますが、当時は国や自治体が救護することはなく、生き残った住民たちは自力で復興するしかありませんでした。

平成に発生した阪神淡路大震災によって防災行政の大切さが認識されます。それ以来大規模災害の発生時は内閣府に対策室が設置され、現地の情報を収集しながら自衛隊ハイパーレスキュー赤十字医師団、自治体職員を迅速に派遣する体制をとっています。

被災地住民の必要性は日を追うごとに変化します。生命の安全と家族の安否から始まり、持病薬の確保、避難所の安全とプライバシー、自宅の状況と生活の再建、金銭問題、ペットの保護

などの問題が降りかかります。

被災地の自治体は住民の要望に応えるためにフル稼働しますが、自治体職員もまた被災者なのです。彼らは住民のため情報を収集しますが、本当は自分の家族の安否を確かめたいのです。必要なインフラが壊れている中で慣れない業務が押し寄せる、自分の家族の行方すら分からない状況は、職員たちの心身を削ります。

災害復旧には地域の実情に通じた地元職員が必要です。ですがその人たちがオーバーワークになってしまうのです。災害対策には実労を災害に慣れない地元自治体に委ねるのではなく、災害時の行政運営に慣れた専門家集団を派遣した方が効率的ではないか、その様な見解から防災省構想が出て来ました。

 

防災省の構想

日本は毎年台風が上陸し、数年に一度は巨大地震の被害が出ています。災害の復旧に当たるのは第一に地元自治体であり、そこに防衛省消防庁国土交通省気象庁、他県の自治体職員、団体職員、企業の出向、報道メディア、民間ボランティアが集まります。

この方たちは確かに復興支援としてやって来ていますが、本来別々の組織で働いており、仕事のやり方も目的も全く異なります。地元自治体は各団体と情報を共有しながら災害状況に応じて仕事を割り振るのですが、そもそも自治体職員は、各組織の仕事内容を知らず、集まった組織は地域の実情を知らないために、先ずは相互理解の時間がかかります。

災害復旧は人命救助から電気水道などのライフラインまで、迅速な対応が求められます。しかし道路と通信が寸断された地域に持ち込める物資と人員は限られます。

この限られた資源を何処に優先配分すべきかが問題ですが、被災地は役場が被害を受けている場合もあり、全てが大混乱な状況です。ここに地域の実情と災害対策の両面に通じた組織を派遣し、臨時の行政府を立ち上げる。これが防災省の仕事です。

 

兵庫県の取り組み

1995年に阪神淡路大震災を経験した兵庫県は、全国から自治体職員が応援に駆けつけ、災害復旧にあたりました。その時の経験から兵庫県は各地の災害にいち早く県庁職員を派遣しており、防災ノウハウの蓄積や兵庫県医療センターによる災害医療対策も行なっています。災害発生時の迅速対応と自治体の機能をまとめて供給する取り組みは大きな成果を上げています。

この取り組みを国を中心に行うために、現在は内閣府に臨時で設置される災害対策室と復興庁を常設の省庁に改変し、各省庁や全国の自治体、防災研究所で構成される新たな組織を立ち上げるのです。

 

防災省の仕事:平時

平時の防災省は地震などの災害シュミレーションを繰り返し、自治体に対して地形や地盤、都市の構造と人口構成によってどのような被害が出るか、どの様な対策が必要かを周知します。

自治体は独自の防災計画を策定することが可能になり、いざ災害が発生しても、シュミレーションに基づいた行動マニュアルに沿って自治体と防災省が協働出来ます。

また、自治体や企業の防災担当者の講習受講、小中学校への防災教育、木造家屋密集地域などのハザードマップ作成、災害医療や災害通信、災害物流システム、気象・地震発生の研究を行います。

 

防災省の仕事:災害発生時

災害発生時には、衛星写真の解析により各地の大まかな被害を予測します。そして被災地に有人ヘリコプターを飛ばし、そこから子機としてドローンを飛ばします。集められた映像は省庁の中央コンピュータで解析し、熱反応などでどこに生存者がいるかを調べます。その間に自衛隊とレスキュー隊、GMAT(災害医療チーム)を編成して高速ヘリで現地に派遣します。

防災省は事前に各自治体と、首長の要請がなくても第一陣復旧チームを派遣する協定を結んでおきます。これまでは自治体からの要請と内閣府の出動命令で救助隊を派遣していましたが、防災省の対策室には大臣以外にも、代理で出動命令を出せる役職が常駐しており24時間体制で運営します。これによりいつ何処で大規模災害が発生しても3時間後には救助が来る体制を作ります。

第2陣としてその地域の実情に詳しい行政職員と、公衆衛生班、電気・通信・水道・交通などのインフラ復旧班を派遣します。被災地に近く使用可能な空港までは空路を使い、そこから先は災害用車両に乗って陸路を通ります。道路が寸断されていると足止めになるため、急勾配や水上を走れる特殊車両が必要になります。

この時に主要道路が何処まで通れるか確認し、物資の輸送ルートを確保します。道路が寸断された箇所は狭い道を大きく迂回しなければなりません。救援物資の輸送と被災者の避難を優先させるために、個人車での利用は制限します。

被災地に到着した第2陣は、現地職員と交代して行政を代行します。この時に現地対策本部を設置します。これで防災省から逐一指示を受けなくても現場の判断で各地の避難所に物資と救護員を送り、具体的な被災状況を調べます。そして被災地への支援の優先順位を決めます。

被災地には全国の自治体や個人から大量の支援物資が送られますが、それがその時のニーズに合っていないことが問題視されます。例えば古着などを支援物資として送ることは意味がありません。被災地は水が不足しているので身体を洗えず、洋服の着替えも少ないからです。もし現地で使わない物が大量に送られたら、限られた物流に無駄が出てしまいます。それを防ぐためには、支援物資の中身が何であるかを明記させると同時に、物資を防災省の各支部で仕分けしてから一斉に送る必要があります。

第3陣として現地で手に入らない物資と、各自治体職員、金融機関や企業の代表、建物解体や土建技術を持つ民間人を陸路で派遣します。現地到着は災害発生から2-3日後になります。人命救助は終わっており、行方不明者の捜索と二次災害の防止、被災者支援が主な仕事です。

被災者は自宅の被害状況によって、二次災害が治れば自宅に戻る、避難所である体育館や公民館に留まる、2-3ヶ月で元の生活に戻れるなら仮設住宅か近隣自治体の公営住宅に移る、戻る見通しが何年も立たないなら他地域に移住する、など選択肢が分かれます。疲労が蓄積した被災者は環境が悪い場所に長くいるべきではありません。第3陣の支援は被災住民の実情を汲み取って適切な居住環境を仲介することです。

 

防災省の仕事:海外派遣

国内は平時であっても、外国で地震やハリケーンが発生していることもあります。現地で国際貢献が出来れば国家間の関係強化になります。大きな災害は経済活動も停止するため、国際為替市場でその国の通貨は暴落するのが普通です。そんな時に外国の救助隊が駆けつければ、その国は国際社会から見捨てられていないという証になるため、通貨暴落を抑えることも出来るのです。他国と災害研究の情報を共有することも大切です。

 

 

 

 

 

 

 

良い人と都合良い人

私たちは様々な人間関係の中で生きています。仲良い人もいれば嫌いな人もいるでしょう。人の悩みが根本的には対人関係に行き着くことを踏まえれば、良い人たちに囲まれて生きて生きたいものです。ですが「良い人」とは決して好感が持てる人を指す訳ではありません。私たちに本当に必要な人は誰なのでしょうか。

 

人間関係はgive & take

人間関係は基本的に労力の交換ゲームなのです。自分の予定や意見に相手を合わせた場合、相手はやりたい事を犠牲にしています。それ故に次回は自分が相手に合わせる必要があります。

奢ってもらったら次回は自分が奢る。交渉で言い分を通したら、次回は自分が折れるなど相手が自分のために負担しているコストを何らかの形で返す必要があります。もちろん言葉で謝礼することも欠かせません。
そうしなければ、相手は2度と自分の労力を使おうとはしないでしょう。「あいつは何かしてもらって当然だと思ってる」という印象を持たれるからです。しかし中には、労力を返さないいで良いと言う人もいます。それが都合の良い人です。

 

都合の良い人

意中の恋人であったり上司であるなど、「相手からの印象を良くすれば自分を認めてくれる存在」がいると、人間は自分の意思や感情を捻じ曲げても、相手と良好な関係を維持しようとします。

良い人に思われたいという心理が強く働く場合は半ば相手の言いなりになりますが、その状態がエスカレートするほど、あなたは相手にとって負担した労力を返さなくて良い人になります

本来、友人や恋愛関係で金銭の貸し借りは禁忌です。お金とはその人の労力を数字に現したものですから、返済がなされるまでその相手との関係は労力の「貸し」になっています。ここで返済を迫らずにさらに「貸し」を行えば、借りた人間は返す必要性を意識しなくなります。そして「相手に尽くす」労力は、借金の返済を迫らずにいくらでも追加融資すると言っていると同じなのです。

これが都合の良い人であり、この状態は相手から人間として認められるどころか、いくらでも利用出来ると足元を見られているだけなのです。

 

良い人

私たちは客観的に良くない行動をとっても、自分にとっては正しいと考えているため、自分一人では思考を修正出来ません。

仕事の上司や友人などあなたの周囲の人があなたを叱るのは、「自分は相手にどう見えているか」を自覚させるためです。これは叱る立場の人にとっても恐いのです。相手が言葉の意味を理解して行動を改める保証はないし、場合によっては逆恨みされるかもしれません。それに自分が間違っている可能性もあるのです。

それでも叱るのは、短期的には損害でも長期的には利益になると信じているからです。 

表面的に優しい言葉をかけてくれる人が良い人ではありません。何故なら問題は何一つ解決していないから。現状を肯定されることで、問題から目を背ける癖に拍車をかけてしまうこともあります。

 

自分が借金を抱えていたとして、「まだ金を借りられるよ」と言う人がいますか?いるならその人は金融機関の回し者です。友人や家族であれば「早く返済しろ」と言うのが普通です。

私たちは、勉強も仕事も恋愛も、出来ればやらずに済ませたいタスクに追われています。それらを先延ばしたい気持ちも分かります。ですが先延ばしを肯定して問題解決を避ける言葉は優しさではありません。

良い人とは「自分がどう思われるかは相手に委ねるから、自分は正しいと思ったことを言わなければいけない」と、利害関係から一度離れて相手の利益を考えている人です。

世界は自分が見たくない領域も動いています。私たちは都合の良い人と付き合いたくなりますが、良い人と向き合うべきなのです。

ピカソの落書き

20世紀最大の画家パブロ・ピカソ。今日でも世界的な評価と人気があり、絵画1点に100億円以上の値がつくこともあります。子供の落書きにしか見えない絵をピカソは何故描き続けたのか。今回は絵画の見方を解説します。

 

青年期

パブロ・ピカソ1881年、スペインのアンダルシアに生まれました。美術教師の父親から絵画の英才教育を受けていたピカソは、8歳にはデッサンの技法を完璧に身に付けていました。当時から1日数点の絵を描き続けるほど絵画に夢中であり、彼にとって絵を描くことは呼吸すると同じくらいに当たり前でした。

14歳でマドリード美術大学に入学します。入学試験の課題は数点のデッサンを期限1ヶ月で提出することでしたが、ピカソは課題を1週間で描き上げ、それらの作品は入学者の中でも最高評価を受けました。ピカソは誰よりも絵を写実的に描けたのです。

初期の作品は写実的な人物画を青い背景で描いている事が多く、「青の時代」と呼ばれています。

 

芸術革命

フランスのパリに活動拠点を移したピカソは、そこでキュビスムという新たな表現に挑みます。キュビスムとは、3次元の物体を2次元の平面絵画に描き表すことです。立体的に描けば良いように思えますが、正面から描いた絵だと後ろ姿や側面を描いていません。対象を全方向から描くためには、正面、背面、上下左右の6点のデッサンが必要になります。この6点のデッサンを1枚の平面図に描き起こすのです。

 「地球儀と世界地図は何が違うか」

地球儀と世界地図はどちらも世界の全体像と位置関係を示していますが、地球が球体である以上、地球儀の方が正確に表現しています。

例えば地球の絵を描いた場合、画面にアメリカと東アジアは描かれても、背面に位置するヨーロッパやアフリカは描かれません。

それだと世界の全体像を描いたことにならないので、世界地図では正面と背面、左右から見た地球を、位置関係の比率を計算しながら一枚の面にします。しかしこれだと、上下に当たる北極と南極地域の縮尺が引き伸ばされています。

ここに立体を平面で表現する難しさがあります。もし人の顔の全体像を地図と同じように描いたら、頭と顎を上下に引き伸ばした絵になってしまうのです。立体を「正確」に描くとは、

私たちが見ている像とは大きく異なる。ピカソはそれを絵画で表現しました。

 

キュビスムの時代

ピカソは1907年、代表作である「アビニョンの娘たち」を発表しました。数人のモデルたちをあらゆる方向から写実的に描き、全方向から描かれた数点の作品を縮尺度を計算しながら1枚の絵画にまとめたのです。

この時代に描かれた人物は身体の各部位が様々な方向を向いており、どの方向から描いたのか全くわかりません。逆に言えば正面と背面、上下左右全ての側面が1枚の絵画に表現されています。「立体の本質を描く」ことを追求したピカソの表現なのです。

 

ピカソの価値

ピカソは亡くなるまで作品制作を続けました。対象の本質を表現するために様々な技法に挑戦し、彫刻や陶芸作品も多数制作しました。生涯の作品は5万点に上るともいわれます。

彼の作品は、「美術の価値とは何か」という難しい問題を提起しています。対象を表現するためにあらゆる技法を試したピカソの絵画は、多くが実験的な作品です。代表作は対象の本質を正確に表現していると評されますが、小さな作品や描き欠けのデッサンは対象表現としての価値が不明です。要するに「上手い絵」なのかが全く分からず、人々はピカソのネームブランドだけで絵を買い求めました。そしてピカソはそのことを誰よりも理解していました。

 

ピカソマーケティング

一般に芸術作品は製作者の死後に名声が高まるため、ゴッホやミレーのように生前は全く作品が売れずに生涯を貧困で過ごした画家は多数います。その中でも青年期から名声を得て、作品の総価格7500億円とも言われるピカソは、最も成功した芸術家でもありました。

その理由はピカソの商才にあります。芸術家は絵を描くことに意識を集中し、その絵が誰に売れるのかを考える事があまりありません。自己表現を突き詰めれば、いつか誰かが評価してくれるだろうというのが基本姿勢です。

一般市民に芸術を楽しむだけの経済的余裕がなかった時代には、芸術家の作品を買うのは国王や貴族、教会寺院だけでした。宮廷画家の作品が典型ですが、これらの絵画はスポンサーである王侯貴族の依頼で製作されています。依頼作品を作れば売れますが作品に自己表現はありません。19世紀になると一般市民にも裕福な人が現れ、自己表現の絵を描く画家と、絵を買いたい人を仲介する「画商」が登場しました。

ピカソは自己表現を追求すると同時に、表現した絵が誰に売れるのかを常に考えていました。画壇で評価されれば人々の注目が集まります。そこで絵を買いたい人を待つのではなく、人々が絵に何を求めているかを探っていました。画家と画商を兼任したことでピカソのネームブランドは確立し、絵の価値がよく分かっていない人々にも「皆が欲しがっている絵だから価値があるに違いない」と思わせることに成功しました。

 

ピカソというブランド

ピカソが自身のブランド価値を正確に理解していたエピソードとして、大富豪でありながらお金の支払いがなかったことがあります。生前のピカソはパリを中心に、欧米諸国に名を知られた有名人でした。彼が買い物の支払いを現金で済ませればお金が出て行きますが、小切手で支払うとどうなるか。

小切手にはピカソのサインが入っており、それ自体が一つの作品になっています。店のオーナーは小切手を現金化するよりも、所有するか転売することを考えます。するとピカソの口座からお金は出て行きません。彼は小切手にサインするだけでお金を支払う必要がなかったのです。

 

ピカソと落書き

対象表現を誰よりも追求したピカソは偉大な芸術家ですが、個々の作品にどれだけの価値があるのかが分かりません。鼻をかんだティッシュにサインしても、新たな表現手法として評価されるのですから。ピカソに始まる現代美術のテーマは、私たちの価値観をどれだけ揺さぶるかにあります。子供の落書きにピカソがサインしただけかもしれず、「こんな落書きになんの価値が?」というのが現代美術の見方なのです。

登戸研究所の秘密

明治大学の生田キャンパスは理工学部農学部が設置され、日々学生たちが研究を行っています。この場所はかつて誰にも知られてはいけない極秘研究をしていました。今回は大人の社会科見学として、旧登戸研究所を紹介します。

 

帝国陸軍登戸研究所

1930年代、日中戦争は激化していました。日本軍は中国東北部満州国を建国し、中国各地の都市を攻略していましたが、現地民と共産党兵の抵抗に遭い、各都市間の移動と連携が取れない状況でした。都市に駐留する兵師団が孤立してしまうため、本土からいくら援軍と物資を供給しても追い付かず、日中戦争は攻略も撤退も出来ない泥沼状態に陥りました。

状況を打開するためには少ない兵力で戦果を上げるための新たな戦術が求められる。細菌や毒ガスのような生物・化学兵器の研究計画が軍部で持ち上がったのはその頃です。当時の生田丘陵は、南米の日系人に向けて農業の技術支援を行う実験農場があるだけでした。その土地に全国の大学や軍部から研究者が集められ、大本営直轄の極秘研究が始まったのです。

 

風船爆弾

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和紙に蒟蒻糊を貼り合わせた紙風船に、爆弾を搭載してアメリカ本土を攻撃していました。日本軍の航空機には、爆弾を搭載してアメリカ本土を空爆できる飛行能力がありません。アメリカ軍はB29爆撃機で日本各地を空襲している状況で、反撃に転じるために開発されました。

見た目は手作りの様な爆弾ですが、上空のジェット気流に乗ってアメリカ本土に到達していました。気球には爆弾以外に、高度計と重りが搭載されています。高度が高いと上空の冷気によって風船の水素ガス体積が減り高度を下げます。高度が下がりすぎると高度計が感知して、重りを落とす構造でした。アメリカに到達した爆弾の多くは人がいない畑や山林を焼く程度でしたが、記録では爆発により6人の民間人が死亡したとされます。

 

生物兵器開発

登戸研究所満州国に拠点を置いていた関東軍防疫給水部(通称731部隊)と緊密に連携しており、細菌や毒物の研究開発を行っていました。

1948年の帝銀事件に使用された青酸化合物は、登戸研究所が暗殺用に開発した青酸ニトリルであると証言が出ています。陸軍上層部に納入された青酸ニトリルを何者かが持ち出したとされていますが、陸軍関係者への捜査はGHQの指示で打ち切られており真相は闇の中です。

牛痘ウイルスを風船爆弾に積んで、アメリカ本土を細菌戦で攻撃する計画が立てられますが、細菌兵器による報復の恐れがあるため実践では使用されませんでした。

 

 偽札製造

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中国大陸での戦闘が膠着状態にある中、経済を混乱させる目的で法幣(中国の第1通貨)の偽造を

行いました。国家ぐるみで偽札を造ることは国際法上の禁じ手であり、登戸研究所の内部でも

極秘中の極秘研究とされ、同僚の研究者でも何をしているか知りませんでした。

製造された偽札は香港に運ばれ、当時の国家予算規模の偽札が中国内で流通したとされます。蒋介石政権は偽札流通に対抗するために、大量の法幣を発行しました。最終的に通貨全体の偽札流通は1%に留まり、経済への影響は限定的だとされますが、大量の法幣を発行した中国は戦後に極度の通貨安に苦しみます。このインフレーションが中国国民の蒋介石政権への批判を招き、毛沢東共産党を勢い付かせる原因となったともいわれています。

 

戦後の研究所

太平洋戦争の終結により、日本は敗北しました。GHQの進駐前に、登戸研究所の研究資料と公文書は軍の命令により全て焼却されました。

そのため登戸研究所の研究内容は公式記録が存在せず、真相は歴史の闇に消えました。研究内容が分かってきたのは、戦後数十年経って当時の研究員達の証言を集めたからです。

GHQ登戸研究所の関係者を一度は公職追放し、いずれは東京裁判にかける予定でした。

しかし朝鮮戦争の勃発により、対ソ連のスパイ工作が必要とされたため、彼らを米軍に協力させました。研究者達はかつての敵国のために、共産圏の公文書偽造を行ったのです。

軍事施設としての役割を失った登戸研究所は、

1950年に明治大学が敷地を取得し、研究所の建物を校舎として活用しました。戦後70年が経過し、老朽化した建物は新校舎に建て替えられて学生たちが勉学と研究に励んでいます。

化学とは人類の進歩に貢献するためにある反面、使い道によっては恐怖の道具となる。登戸研究所はあの戦争は何だったのかを考える貴重な場所であり、化学研究を志す人々が自戒する

場所なのです。

 

明治大学平和教育登戸研究所資料館」

神奈川県川崎市多摩区東三田1-1-1

小田急生田駅南口より徒歩15分。

開館時間:水曜~土曜、10:00~16:00

入場無料。

 

 

 

 

「正しい」ダイエットの話

毎月のように、新しいダイエット方法が話題となり、そして消えてゆく現代社会。

「正しい」ダイエット方法が誰でも成功するならば、他のダイエット方法は登場しません。人々が新しいダイエット方法に飛びつくのは、以前の方法が失敗しているという証明です。

これからダイエットの話をしますが、成功するためではありません。そもそもダイエットとは何かを考えて欲しいのです。

 

ダイエットの意義

一般的に「ダイエット」というと、体重を落として痩せるというイメージを持たれますが、英語の「diet」は「健康」を意味しており、健康な体質になるための生活習慣改善が正しい意味合いになります。

人間の身体は元々脂肪を貯めるように機能しています。長い人類史の中で人々が食事に困らなくなったのは、合成肥料と農耕機械の登場で爆発的に食糧増産が可能になった半世紀前からです。それ以前の数百万年の歴史で、人間は常に飢餓に怯えていました。そのため身体の仕組みも、飢餓に対応するために糖質を脂質に変えて蓄えるのです。

この体質が飽食の時代となった現代でも機能するために、人間は砂糖や炭水化物の摂り過ぎで太ります。さらに脳も糖分と塩分、脂肪を摂取するように要求します。甘い物や、脂っこい料理が美味しく感じるのは、脳の欲求が満たされたからなのです。消費社会において食品メーカーは、食品の製造コストを抑えて沢山販売するには、糖分と脂肪の多い食品を作ることになります。その典型例がファーストフードです。

アメリカ合衆国貧困層は、安くて腹を満たせるファーストフードが主食となっています。そのためアメリカでは成人の30%が肥満と言われており(WHO:2008)、政府も国を挙げて肥満解消を推進する事態です。こうしてダイエットという言葉は痩せるという意味合いが強くなりました。

 

適正体重

ダイエットをするにあたって、「何故自分にダイエットが必要であるか」を明確にしなければなりません。そうしなければ自分の適正体重が

分からないからです。特に若い女性の場合、ファッションモデルに憧れてモデル体型を目指す場合がありますが副作用も大きいです。女性は子供を産む性であり、ホルモンの影響で栄養や脂肪を蓄えやすいのです。

モデルの女性は元々の体格が痩せ型で、さらに仕事として体型を維持しており、過酷な減量をしています。その代償として生理不順や貧血になることも多く、ファッションショーでは出演モデルに過度の減量を禁止しているほどモデル業界の栄養失調は深刻です。

医学的には、身長×身長×22=適正体重とされており、この22という数値がBMI(body mass index)の適正値です。実際の体重からBMIが25以上であれば肥満であり、減量の必要がありますが、18.5以下は痩せ過ぎであり増量の必要が

あります(出典:日本医師会)。まずは自分の適正体重を理解し、BMIが基準内に収まるならば特に減量は必要ありません。スリム体型に憧れるなら、基準値を下回らないように体重を維持する必要があります。

 

ダイエットの基本はカロリー制限

人間の必要カロリーは、成人男性で2200kcal、

成人女性で1800kcalと言われます。このカロリーは基礎代謝で消費するため、カロリーを必要量に保って、普段の生活を送れば体重の増減は

ありません。消費する以上にカロリーを摂取すれば太り、カロリーを消費量以下にすれば痩せる。ダイエットの基本はそれだけです。それだけのことが問題なのです。

 

「痩せない理由:カロリー過多」

菓子パンやケーキなどは1個で400~500kcalあります。ペットボトル飲料には砂糖50g(200kcal)以上含まれています。私たちは普段何気なく間食をしていますが、食事以外に糖質と脂質の塊であるお菓子を食べると、すぐに必要カロリーを超えてしまいます。また、砂糖水であるペットボトル飲料は極めて消化吸収が早く、簡単に血糖値を上げます。

血糖値を下げるインスリンは、糖質を細胞内に脂質として取り込む働きをするため、お菓子よりもジュース類の方が肥満になりやすいという見解もあります。私たちの日常生活はカロリー過多の食品に溢れており、どれだけカロリーを摂取しているか意識しなければ簡単に太ります。

 

「痩せない理由:消費カロリーの少なさ」

必要以上にカロリーを消費するためには運動するしかありません。しかしこれが難しい。1時間ジョギングや水泳をしても消費カロリーは200kcal程度です。体脂肪は1g=9kcalあり、1kgの減量には水分を考慮しても7200kcal消費しなければなりません。実にフルマラソン3回分、毎日1時間運動しても36日継続してやっと1kg減量出来ます。忙しい現代生活で、毎日ジム通いや運動を続けることは容易ではありません。

ましてや成果が中々出ない方法でやる気を維持することは難しく、運動ダイエットを始めた大半の人は途中でやめて、短期的に成果が出る方法を探すことになります。

 

「痩せない理由:溢れる情報」

〔このサプリで痩せる!〕〔10日間でー2kg痩せたダイエット〕、など情報社会である現代は

様々なダイエット情報が溢れています。それだけダイエット産業に需要があり、人は簡単に痩せる方法を求めています。ですが「幾ら食べても、運動しなくても、短期間で痩せる方法」とは、「勉強しなくても大学に受かる方法」と同じくらいありえません。人体は70%が水分であり1日2L程度の水分を取ります。そのため体重は平常でも1kg程度増減を繰り返しています。

もしも短期間で体重が減ったとしても、それは身体が脱水になっているだけで、水を飲めば元に戻ります。体脂肪を減らすという本来のダイエットを達成するには細胞レベルの脂肪を分解しなければなりません。いわば体質改善であり、スポーツをしても筋肉が急激に増えないように体脂肪も少しずつ減らすしかないのです。

 

 

 

 

 

 

野菜は世界を巡る

スーパーに並んでいる野菜は、今日の私たちの食生活には欠かせないものです。野菜の生産地にこだわる方も多いですが、歴史を辿ると日本原産の野菜というものは殆どありません。農業の歴史の中で、世界各地からやって来た外来野菜をその土地に合うように改良したものが、

現代の私たちが手に取る野菜なのです。

 

日本原産の野菜

農業が発達する以前に人々が食べていた植物は

野山の山菜でした。日本原産の野菜はわさび、

山芋、きのこに限られると言われています。

菌糸類であるきのこは、枯木を苗床にして一定の温度・湿度下でなければ成長しないため、

松茸やトリュフなど、現代でも人工栽培が出来ない品種もあります。トリュフは独特の香りを

持つフランス料理の高級食材ですが、日本原産のトリュフも稀に発見されることがあります。

 

アジア原産

日本の農耕技術は朝鮮半島からの移住者がもたらしました。米や粟なども縄文時代後期に伝わり、稲作が生活の中心になることで弥生時代が始まりました。イネ科植物は南国原産であり、

寒冷気候では栽培出来ないので、弥生人たちは西日本に生活し、狩猟生活を続けた縄文人

東北地方や山岳地帯で生活しました。

縄文文化が終わったのは、品種改良によって寒さに強いの稲の栽培が東北地方まで普及したからです。大和政権は遣隋使や遣唐使を通じて中国大陸と交流を続けていました。目的は仏教や政治制度を取り込むためでしたが、同時に漢方医学や野菜の種も日本に伝来しています。

白菜、大根、瓜、桃、梅などが奈良時代には日本で栽培され始めました。平安時代の記録では、貴族たちの食生活はご飯と魚の干物、漬物が中心であると記されています。華やかに見える都の貴族ですら、1000年後の私たちの感覚では貧しい食生活なのです。

 

中東原産

農耕発祥の地であるメソポタミア文明は、多くの食用植物を栽培していました。やがてそうした植物は、シルクロードを通じて中国に普及し、日本にも伝わりました。胡瓜(キュウリ)、

胡桃(クルミ)、胡麻(ゴマ)などは胡国(ペルシャ)

から伝来した作物です。砂漠地帯の中東は、乾燥に強く日光を好む果物の栽培が盛んです。ザクロやイチジクはペルシャ原産、スイカは北アフリカ原産と言われています。

 

世界史を変えた南米野菜

現代ではフランス料理やイタリア料理は世界中で人気がありますが、中世までのヨーロッパ諸国は日本と同様に野菜がありませんでした。

16世紀の大航海時代が始まることで新大陸から今日の野菜が伝来しています。

「トマトとジャガイモ」

ジャガイモとトマトは同じ系統の植物です。

果実がトマトになり、根塊がジャガイモになりました。イタリア料理に欠かせないトマトですが、元は南米のインカ文明で栽培されていました。現代でもペルーでは様々な品種のトマトが栽培されています。

ジャガイモも同様に、インカ文明の主要作物でした。アンデス山脈の高地に人々が文明を築けたのは、寒冷気候の痩せた土地でも育つジャガイモを栽培していたからです。ヨーロッパ諸国もイギリスやドイツは緯度が高く、土地が痩せていたため国民は飢えていました。

ジャガイモの伝来により食糧事情は一変し、人々を飢饉から救ったのです。ドイツ料理のジャーマンポテト、イギリス料理のフィッシュ&チップスなど、料理が不味いと言われる国の代表料理がジャガイモなのはそうした背景があります。

「トウモロコシ」

トウモロコシはメキシコとグアテマラを中心としたマヤ・アステカ文明の主食です。トウモロコシも痩せた土地で良く育つ穀物なので、マヤ文明はジャングルの奥地でも高度な都市を作るほど豊かでした。メキシコはトルティーヤなどのトウモロコシ粉を原料とした料理が多いですが、アメリカ合衆国に伝わったトウモロコシは、主に家畜の飼料として栽培されています。

「サツマイモ」

薩摩芋は南米原産の植物です。ヨーロッパに伝来した芋が、中国大陸を経由して琉球王国(沖縄県)に伝来しました。薩摩藩(鹿児島県)は桜島の火山灰が積もったシラス台地であり、土地が痩せて作物の栽培が出来ません。江戸時代に琉球王国から持ってきた芋の栽培に成功し、それが全国に拡大しました。糖質の高いサツマイモは

発酵させればアルコールになるため、薩摩焼酎醸造されるようになりました。

 

書くことは生きること

2017年6月22日、小林麻央さんが亡くなりました。享年34歳、乳癌でした。

生前の小林麻央さんは、2016年9月より、ブログを通じて自らの近況を発信し続けていました。その時には乳癌は骨や肺に転移し、手術が

出来ない状態でした。先が見えない中で、自分という人間がいること、何を食べ、誰を愛し、

病とどう向き合うか、9ヶ月間のブログには一人の人間が生きようとした証が書かれています。

末期癌の苦痛は想像を超えます。骨を焼かれるような痛みが絶えないため、眠ることも出来ません。癌が肺に転移すれば息が吸えなくなり、

抗癌剤や医療麻薬を使えば吐き気とだるさが止まらなくなります。

ブログには、そうした闘病の苦痛は一切触れていません。同情や人気を集めるためではなく、生きるために書き続けたのです。その姿は、

時間を意識せずに生きてしまう多くの人々の

心に届きました。

 

小林麻央さん、どうか安らかにお休み下さい。